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民族に関するkahn77のブックマーク (5)

  • 移民もまた人間である - elm200 の日記(旧はてなダイアリー)

    昨日の Lilac さんのエントリはよく書けていたけれども、見た瞬間から嫌な予感がした。 不景気だからこその移民政策のススメ - My Life After MIT Sloan 案の定、このエントリのコメント欄は、移民反対論で埋め尽くされた。条件付の賛成者でさえ、高機能移民にとって魅力的な国づくりをするにはもう手遅れだ、という論調。これらのコメント群の否定的なエネルギーに感化されて、昨日からずっと気分が悪い。 日はこれからも日人だけで運営できるはずだ、という能天気さ。外国人など犯罪予備軍だし、社会保障負担を増やすだけだ、という断定。外国人が持ち込むであろう、わずかな軋轢さえ受け入れられない肝の小ささ。高機能移民を受け入れようって言ったっていまさら手遅れだよ、という知的な冷笑。 Lilac さんは、こういう反応をすべて事前に予想して、かつ、それでも日のためを思ってあえてこのエントリを書

    移民もまた人間である - elm200 の日記(旧はてなダイアリー)
  • 人間科学研究所 【えっせい】-石田・横山-

    「純血アイヌ、杉村京子さんの言葉」 私は専門が臨床心理学、特に心理療法を研究していることもあって、「苦」の問題についてここ10年あまり思索・研究を続けてきている。「苦」の問題は、 単に臨床心理学としてばかりでなく、人間そのものの生き様と「救い」といった、より根源的な援助の姿についての示唆に満ちている。大雑把に言って、医療や 福祉が「苦」を除き「楽」に生きられるように援助するのに対して、心理療法においては「苦」を如何に生きるかといった姿勢、すなわち必ずしも「苦」を除く ことを第一としないところに、その援助に対しての姿勢の違いをみることができる。事実、私のような深層心理学的な接近を試みる心理臨床家にとっては、そも そも「苦」を生きる援助の方法は持ち合わせていても、「苦」を除く援助方法を持ち合わせていない場合が大半なのである。その点、医者やケースワーカーとは 大きな隔たりがある。 「苦」

  • http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken05_00004.html

  • 国境,国民,国家――「民族自決」批判 - Danas je lep dan.

    以前書いた, 分断と同胞――右翼としてとるべき態度について小考 - Danas je lep dan.の続きというか補足的なもの。かなーり観念論なので注意。 いきなり題に入るが,「エスニシティ」や「民族」という枠組みは可変性を持つ。永続する民族はない。俺の属す大和民族や,アイヌ民族,琉球民族というのは,いずれ消えていく,人類の長い歴史の中の泡沫のような存在だ。これは基的前提として共有されねばならない。  そしてまた,排斥を行わない人間集団は存在し得ない。5人を友人にするのならそれは6人目を排斥して集団を作っているということだ。また差異の「発見」や自覚において,何を基準にするか,閾値をどこに設定するかは完全に恣意的だ。いつマジョリティの一員がマイノリティに転換するか,あるいは新しいマイノリティが創出されるかは,完全に状況によるとしか言いようがない。  その上で。抑圧のない共同体は有り得ず

  • 民族浄化,ジェノサイド,同化政策 - Danas je lep dan.

    どうも「民族浄化」や「ジェノサイド」という語が,歴史学や国際法学上の概念を超えたレッテルとして使われている気がしてならない。国際政治の分野ではいくらも例を挙げられると思うけれど*1,個々人が気にいらない○○国を非難する時に使っていたりする。そういったものの中には,僕の目からみてどうなのかなぁ,と思えるものも少なくない*2。 僕はあくまでユーゴスラヴィア近現代史を勉強するひとりの学生に過ぎないけれど,僕の理解し得る範囲で,「民族浄化」「ジェノサイド」というのはどういう現象なのか,というのを纏めてみたい。なお,ここで論じているのは基的に歴史学上の扱われ方であることを明記しておく。 「民族浄化(ethnic cleansing)」については,基的に以下の事柄が共通認識となっているように思われる。「特定のエスニック・グループの成員を,彼らの故地である特定の領域から追放すること。それによって当該

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