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ブックマーク / www.tapthepop.net (77)

  • 忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

    「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。 一緒にまわった忌野清志郎がその時の経験について、以下の発言を残しているのだが、自分たちのことを「ホリプロ三羽ガラス」と自称していたことには驚かされる。 テレビのオーディション番組『スター誕生!』出身の森昌子がデビューしたのは1972年の7月で、その翌年になって石川さゆり、山口百恵からなる「ホリプロ3人娘」が出揃うのは、”全国ツアーみたいなもの”が終わってから1年以上も後のことなのだ。 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、

    忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”
    kamezo
    kamezo 2024/05/04
    この時期の音源がニコニコにあった。清志郎はいない。新宿のデパートの屋上でのオールナイトライブ。陽水とモップスでビートルズもカバーしてた。ハバロフスク・マフィアの映像をYouTubeで発見した時はたまげたっけな
  • 井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」

    井上陽水の「帰れない二人」が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤「心もよう」のB面としてであった。 そしてアナログ・レコードの時代の日において、最初に100万枚を突破した歴史的なアルバム『氷の世界』にも収録されたことによって、多くの音楽ファンに親しまれることにもなった。 ソングライターは24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎。ふたりの才能が正面からぶつかりあったことによって、それまでにない新しい音楽が誕生したといえる。 ニューミュージックの時代が到来していたなかにあって、「帰れない二人」は最先端の傑作と呼ぶにふさわしい楽曲になった。 その頃に井上陽水が住んでいたのは東京都三鷹市のアパートで、電話で「一緒に曲を作らないか」と誘われた忌野清志郎は、ギターを持って出かけていった。 そして井上陽水の部屋でお互いにギターを手にして向き合った2人は、わずか2時間ほどで「帰れない二人」をワン・

    井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」
    kamezo
    kamezo 2024/05/04
    2人が顔を突き合わせて作ったのは知っていたが、元になった曲があるとは知らなかった。昔から「帰れない二人」の方が好きだった。アルバムの「あかずの踏切り」「はじまり」「帰れない二人」という流れが好き。
  • KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断

    高校生でバンドを作った1968年から活動をともにしてきたオリジナル・メンバーの破廉ケンチが、うつ病でギターが弾けなくなってメンバーから外れたのは、結成から10年目を迎えた1977年の夏だった。 そのためにRCサクセションはアコースティックのトリオからロック・バンドに変貌することを目指して、2年近い紆余曲折の期間を経たにもかかわらず、結成以来のメンバーが忌野清志郎と小林和生だけになってしまった。 ところがが1978年1月18日、カルメン・マキ&OZのギタリストだった春日博文が「屋根裏」のライブに前触れもなく、アンコールで乱入してきたことをきっかけに一気にメンツが揃っていく。 春日のステージングに目を見張った忌野清志郎は、終演後にバンドへの参加を要請している。そして「ドラマーを変更すること」を条件に春日はギタリストとしてに参加し、忌野清志郎にはギターを弾かないでヴォーカルに専念することを提案し

    KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断
    kamezo
    kamezo 2024/05/03
    KISSの影響とは驚いた。デビュー前からオーティスなどのR&Bやソウルが大好きだったのに機材が買えずにフォークを始めたが回帰したという話は俗説だったのか? 屋根裏とヤングミュージックショーが繋がってたのも驚き。
  • 日本人が知らない間にロシアで大ヒットしていたザ・ピーナッツの「恋のバカンス」

    冬季オリンピックが開かれているソチは、美しい砂浜が広がる海岸で海水浴が楽しめることから、ロシアでは貴重なリゾート都市として発展した。 夏のバカンスで賑わう海辺の街は、地中海に面したフランスのリヴィエラ地方とも雰囲気が似ていると言われる。 そんなビーチリゾートを舞台にしたような曲が、「Каникулы любви(恋のバカンス)」だ。 1965年に人気歌手ニーナ・パンテレーエワが歌ったこの曲は、テーマソングとして使われた映画が大ヒットしたこともあって、ロシアでは知らない人がないほど有名になったという。 多くのロシア人が自国で作られた楽曲だと思っているらしいが、オリジナルは1963年にザ・ピーナッツが歌った「恋のバカンス(VACANCE DE L’MOUR)」だ。 当時の日人の感覚からすればかなり大胆な内容の歌詞で、フランス語のサブ・タイトルが付けられていたこともあり、外国曲のカバーだと思っ

    日本人が知らない間にロシアで大ヒットしていたザ・ピーナッツの「恋のバカンス」
    kamezo
    kamezo 2024/04/13
    ロシア語で合唱されるとロシア民謡に聞こえる不思議。途中から日本語で2度びっくり。しかし当時の状況で日本に印税とか入ってきたのだろうか。
  • ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁

    ライ・クーダーが奏でた音楽の風景 そのギター弾きは、ずっと風景の中に生きてきた。 デビュー以来、彼は一貫して商業主義に惑わされることのない不屈の音楽を録音し、人々の前で演奏してきた。「僕の人生は常に探求の連続だった」と言うように、葬られそうだった偉大な物の音楽を追い求め、やレコードでしか知ることのできなかった幻のミュージシャンを訪ねて直接学び取った。 美しい音楽、古い音楽、珍しい音楽を追い求める旅。それが自らの音楽に吸収されて表現できるようになった瞬間に、“ライ・クーダー・ミュージック”は完成する。そう、あの赤いグレッチや茶色のストラトキャスターを滑るスライドギターやフィンガーピッキングと共に聴こえてくる唯一無比の音楽音楽を旅する──この言葉がこれほど似合う男は他にいない。南部の田舎町や港町、国境沿い、太平洋の島、南米や沖縄まで、その旅は世界中を駆け巡ってきた。中でもハワイのギャビ

    ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁
    kamezo
    kamezo 2024/03/15
  • 浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」

    1975年の日音楽シーンでは、ユーミンこと松任谷(荒井)由実がシングルの「ルージュの伝言」を2月20日に発表した。 それを契機にマスコミで次第に「ニューミュージック」という言葉が使われるようになり、それにともなって新しい潮流が生まれていく。 その結果、60年代後半からの「アングラ・フォーク」や「日語のフォーク・ソング」、「日のロック」、「シティ・ミュージック」などが、ニューミュージックの名のもとに統合されて、芸能界の色が濃いそれまでの歌謡曲に飽き足らなくなった若者たちの支持を広く集めていった。 フォーク・デュオのバンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」は、学園紛争を描いたアメリカ映画『いちご白書』をテーマにして激動の時代を回想した作品だが、ユーミンの作詞作曲で大ヒットした。 1960年代の反戦運動ともつながっていた「若者の反乱」は、1975年4月30日にベトナム戦争が終結したこ

    浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」
    kamezo
    kamezo 2024/01/06
    この頃、何でもかんでもニューミュージックというくくりにされていたことが、ここにも書かれている/当時、大瀧詠一も同様の認識だった。https://youtu.be/jvubTJgusfU?si=X3p7C13KGeaGnCe5 13分頃
  • JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声

    ジェームス・ブラウンが初めてアポロ・シアターにショーを観に行ったのは1956年、ツアーでニューヨークを訪れたときのことだ。 俺たちのなかの誰もそれ以前に<アポロ>の中に入ったことはなかったが、ここに足を踏み入れることが何を意味するかは知っていた。 黒人ショー・ビジネスの歴史におけるすべての最高のショーがここで演じられ、そしてここの観客は世界で最も厳しかった。(『ジェームス・ブラウン自叙伝 俺がJBだ!』より) いつか自分もそのステージに上がることを胸に誓ったJBはそれから3年後、はじめてアポロ・シアターに出演する。 他にもいくつかのミュージシャンが出演する中でJBの出番はトップバッターだったが、“世界で最も厳しい”観客の心をあっという間に掴み、翌1960年にはヘッドライナーを飾るまでになった。 JBのショーは単に演奏して歌うだけではなく、様々な踊りやパフォーマンス、演出があり、それに観客が

    JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声
    kamezo
    kamezo 2023/12/25
    おもしろいエピソードだけど、62年で「ライブ・アルバムなんか売れるはずがない」というのはポップミュージック界での「常識」かな。あるいはブラックミュージック界か。そうでもないのかな。
  • Happy Xmas (War is Over)〜ジョンとヨーコが出した異例の広告看板から生まれた切なるメッセージソング

    Home 季節(いま)の歌 Happy Xmas (War is Over)〜ジョンとヨーコが出した異例の広告看板から生まれた切なるメッセージソング - TAP the POP クリスマスがやってきた(争いは終わるよ) 弱き人にも強き人にも(それを望みさえすればね) 富める人にも貧しき人にも(争いは終わるよ) 世界はひどい過ちを犯しているけど(それを望みさえすれば) それは1969年12月の出来事だった。 ベトナム戦争の真っ最中にジョン・レノンは結婚したばかりのオノ・ヨーコと共に、世界11都市に“WAR IS OVER “IF YOU WANT IT”(あなたが望めば戦争は終わる)と、異例の広告メッセージを発信した。 その3年後(1971年)に発表されたのがこの楽曲「Happy Xmas (War is Over)」だった。 歌は“Happy Xmas Kyoko, Happy Xmas

    Happy Xmas (War is Over)〜ジョンとヨーコが出した異例の広告看板から生まれた切なるメッセージソング
    kamezo
    kamezo 2023/12/23
    「あなた方が望めば戦いは終わる」というのは、もう一つのイマジンだよな。「一人で見る夢はただの夢だが二人で見る夢は現実になる」なんて言葉もあった。今もまだ国境はあるし戦いも終わらないけれど。
  • プラトーン〜誰のために戦っているのか分からなかったベトナム戦争の若者たち

    『プラトーン』(PLATOON/1986) 1987年、バブル経済が幕開けたばかりの春。新宿・歌舞伎町の映画館から出てきた時の、あの何とも言えない気分のことを今でも覚えている。 学校帰りに何となく観ようと思って友達と一緒に入ったものの、2時間後にはどうしようもない気持ちになっていた。みんな同じだったらしく、あまり会話も弾まなかった。戦争のことなどテレビ映画でしか知らない18歳の少年たちには、あまりに強烈な光景だったのだ。 理性の通じない所を地獄というのなら、ここがそうだ。 一週間でもう嫌になった。 1年も続ける自信がない。来たのが間違いだった。 そんなナレーションから始まる映画『プラトーン』(PLATOON/1986)は、1960年代後半のベトナム戦争の真実を描いた物語だった。監督/脚はオリバー・ストーンで、15ヶ月のベトナム徴兵の実体験をもとに制作された。退役してすぐの69年に構想し

    プラトーン〜誰のために戦っているのか分からなかったベトナム戦争の若者たち
    kamezo
    kamezo 2023/12/20
    『プラトーン』観てないんだよなあ。
  • 大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日

    Home TAP the DAY 大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日 - TAP the POP 大瀧詠一がエレックレコードとの契約で、プライベートレーベル「ナイアガラ」を設立したのは1974年9月だ。 自分のレーベルを持って作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニアを務めて、原盤制作から原盤管理までを行うことは、音楽の道を志した頃から抱いていた夢だった。 そして1975年5月25日、はっぴいえんど解散後の初ソロ・アルバム『NIAGARA MOON(ナイアガラ・ムーン)』を、ついに自分のレーベルから発売したのである。 広告のキャッチコピーは、こうだった。 ナイアガラレーベル期待の第二弾!! はっぴいえんどからナイアガラへ そして、今甦るポップスの数々 それから1か月後の6月25日、細野晴臣の2枚目のソロ・アルバム『TROPICAL DA

    大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日
    kamezo
    kamezo 2023/12/19
    〈大瀧は「自分で作った意識がない」と細野に語り、ついには「『ナイアガラ・ムーン』を作ったのは細野晴臣さんなんです」とまで口にした〉
  • サックスにボビー・キーズが加わってさらなる進化を遂げたローリング・ストーンズ

    1969年はローリング・ストーンズにとって一つの大きな転機だった。 6月にはリーダー的存在だったブライアン・ジョーンズが、度重なる問題行動によって解雇され、一ヶ月後の7月3日に27歳で亡くなった。 それと入れ替わるようにして新たなギタリスト、ミック・テイラーが加わり、ストーンズは新たなバンドサウンドを確立させつつあった。 この頃にミック・ジャガーとキース・リチャーズが、これからのストーンズに必要だと考えていたのがホーン・セクションだ。 そんなときにサポートとして加わったのがテキサス出身のサックス・プレイヤー、ボビー・キーズだった。 ストーンズとボビーの出会いは、1964年に遡る。 その年、初のUSツアーで全米各地を回っていたストーンズは、テキサスでボビーと同じステージに立っている。 両者が出会う前、ボビーのストーンズに対するイメージは非常に悪かったという。 当時の俺は、「ラバー・ボール」っ

    サックスにボビー・キーズが加わってさらなる進化を遂げたローリング・ストーンズ
    kamezo
    kamezo 2023/12/02
    ストーンズのブラスって意識したことなかったけど、伝統的なR&B、R&Rのスタイルなだけでなく、その後のEストリートバンドやブルーデイホーンズにもつながる存在だなあ。
  • ジョージ・ハリスンが「ルーシー」という女性名をつけた伝説のギターの身代金

    ビンテージギターの第一人者として知られるノーマン・ハリスが書き下ろした自伝には、エリック・クラプトンがビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」で弾いたギターにまつわるエピソードも登場する。 1973年のある朝、ノーマンはユニバーシティーミュージックを経営する友人、デール・ロスマンからレス・ポールが盗難にあって代替品を探している重要な顧客が店に来ているという電話を、自宅のアパートで受けた。 もう少し詳しく状況を聞こうとすると、「つべこべ言わずにここへ来い、しかも急いでだぞ!」と強引な口調で催促された。 それに対してむっとしていると電話の向こうで、ビートルズの曲名を持ち出してデールがこう言った。 「ドント・レット・ミー・ダウン(僕を失望させないでくれよ)、ノーム。 君に会わせようとしているのはあのジョージ・ハリスンだぞ‥‥ 」 ノーマンは期待と不安が入り混じった

    ジョージ・ハリスンが「ルーシー」という女性名をつけた伝説のギターの身代金
    kamezo
    kamezo 2023/11/28
    すげえ。1973年当時だって、50年代のGibsonやFenderは貴重品だ。あー、でも80年前後のオールドギターの本に、あの稀少なコリーナのVが数百ドルと出ていた気もする。1500ドルが安いかは難しい。
  • 暗く、寒い日々の中でジョージ・ハリスンが待ち望んだもの

    ♪ ほら、太陽が顔を出した ほら、太陽が顔を出した 最高な気分さ ♪ イギリスの冬は暗く、長い。 だからこそ、春の日差しを待ちわびるのだ。 ジョン・レノンも「アイ・アム・ザ・ウォラス」の中で、「イングリッシュ・ガーデン(英国式庭園)に座り、太陽が顔を見せるのを待っている」と歌っている。 そう、ジョンがそう歌ったように、その時、ジョージ・ハリスンはギターを手に、庭にいた。彼の家ではない。親友エリック・クラプトンの家の庭である。 1967年。ビートルズのメンバーは冬の空のように屈とした日々を過ごしていた。 彼らを育て上げたマネージャー、ブライアン・エプスタインが突然この世を去ってからというもの、メンバーは音楽のことではなく、会計やビジネスのことで頭を悩ますことが増えていた。 ジョージはそんな日々から逃げるようにして、エリック・クラプトンの家を訪れていたのである。 ドキュメンタリー映画『ザ・マ

    暗く、寒い日々の中でジョージ・ハリスンが待ち望んだもの
    kamezo
    kamezo 2023/11/28
    ジョージが天啓を受けた瞬間の、美しい奇跡のようなエピソード/しかし「バッジ」に似てるって? 初耳だ。後で確かめてみよう。
  • 27歳のエルトン・ジョンと34歳のジョン・レノン、マジソン・スクエア・ガーデンでの共演

    1974年の3月25日に27歳になったエルトン・ジョンは、その年11月28日に行なわれたマジソン・スクエア・ガーデンでのコンサートについて、こう振り返っている。 「誰もがそれを信じられなかったくらい、当に感動的な夜だったよ」 アンコールに参加してくれたジョン・レノンが、一緒に3曲も演奏してくれたのだから無理もない。 その発端となったのは1年と少し前に、ジョン・レノンとの間でちょっとした軽いやり取りがあったからだ。 アルバム『心の壁、愛の橋(Walls and Bridges)』を制作していたジョンを、エルトンがスタジオに訪ねたのは1973年9月のことだった。 エルトンはそのときに、レコーディング中だった「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You Thru the Night)」を聴いて、ピアノを加えたらどうかと提案した。 ジョンがそのアイデアを喜んで受け入れてくれたので、エル

    27歳のエルトン・ジョンと34歳のジョン・レノン、マジソン・スクエア・ガーデンでの共演
    kamezo
    kamezo 2023/11/27
    そうか、これがジョンの最後のステージになるのか。ううむ。
  • 発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった

    Home TAP the SONG 発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日人の歌になった - TAP the POP 1967年のクリスマスにレコードが発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」が驚異的なヒットを記録し、京都のアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズは日中から注目される存在になった。 そしてプロとして1年間だけ活動する道を選んだとき、フォークルのセカンド・シングルに決まったのは「イムジン河」だった。 後に加藤和彦とコンビを組んでフォークルやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当する松山猛が、この歌に出会ったのは少年時代にさかのぼる。 京都に生まれ育った松山は中学生の時に、いがみ合いやけんか騒ぎが日常茶飯事だった朝鮮学校と日の学校との間を仲良くできないものかと考えて、学校同士でサッカーの対抗試合を行うことを思いついた。 銀閣寺の

    発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった
    kamezo
    kamezo 2023/10/17
    加藤和彦追悼記事の一つ。有名なエピソードだが、やはり著作権的にはアウトだろうし発覚した以上は発売も無理なんだろうなあ。原詩・原曲クレジットと日本語詞や改作としてのクレジット併記ができていればなあ。
  • レスポールとレス・ポール~ある偉大なギタリストの軌跡~

    1952年に発売されたギブソン社にとって初となるソリッドボディ(中が空洞になっていない)のエレキギター、ギブソン・レスポール。 ジミー・ペイジやデュアン・オールマン、スラッシュ、ザック・ワイルドなど数多くのギタリストに愛用され、ストラトキャスターと並んでロック・シーンを彩ってきたロック界を代表するギターの一つだ。 このギターの名称は、当時全米で最も高い評価を受けていたギタリストの1人、レス・ポールからきている。 レス・ポールことレスター・ポルスフスは1915年、五大湖に面するウィスコンシン州のウォーカシャという町で生まれる。「ポルスフス」と言うのは舌を噛みそうになる、というの主張により、間もなくしてポルフスとなった。 楽器をはじめたのは8歳の頃、下水管工夫が休憩時間にハーモニカを吹いているのを興味深そうに見ていると、その工夫がハーモニカをレスに譲ってくれたのだ。 夢中でハーモニカの練習を

    レスポールとレス・ポール~ある偉大なギタリストの軌跡~
    kamezo
    kamezo 2023/08/13
    レスポール・モデル開発のくだりが通説と全然違うのだが、参考文献に挙げられている伝記ではこうなってるのかしら。不思議。
  • 清潔で、さわやかで、それでいて野心的な若者と感じたCharのために阿久悠が書いた「気絶するほど悩ましい」

    『没後10年・作詞家50年メモリアル 阿久悠リスペクトコンサート 〜君の唇に色あせぬ言葉を〜』が、2017年11月17日と18日に東京国際フォーラム ホールで開催された。 17日は出演順に八代亜紀、大橋純子、林部智史、MAX、北原ミレイ、石野真子、ささきいさお、Char、新聖子、山リンダ、ゴスペラーズ、和田アキ子、木の実ナナ、五木ひろしで、それぞれ阿久悠が作詞した歌を披露した。 そうした流れのなかでCharは第二部の幕開けに登場し、「闘牛士」(1978年/作曲: Char)と「気絶するほど悩ましい」(1977年/作曲: 梅垣達志)の2曲で、張りがあって力強い歌声とあざやかなギター・プレイで観客を唸らせた。 曲と曲のあいだには初めて阿久悠と会った時のことを、こんなふうに語って会場をなごませた。 阿久さんは「ロックの人に詞を書くのは久しぶりで非常に楽しみだ」、と仰ってくださいました。 ぼく

    清潔で、さわやかで、それでいて野心的な若者と感じたCharのために阿久悠が書いた「気絶するほど悩ましい」
    kamezo
    kamezo 2023/08/01
  • メンフィス・テネシー〜チャック・ベリーが書いた小咄(こばなし)のような歌

    様々な街・都市を舞台に紡がれた魅力的な曲をご紹介するコーナー<街の歌>が今回ピックアップするのは“ロックンロールの創始者の一人”と崇められるチャック・ベリーの名曲「Memphis Tennessee」です。 この歌は、1959年にチャック・ベリーが33歳の時に発表したシングル「Back in the USA」のB面曲として発表されたのが初出である。 米国テネシー州にあるメンフィスと言えば、あのロックンロールの聖地“サン・レコード”を生んだ場所であり、エルヴィス・プレスリーが住んでいた街で、古くはブルース発祥の地でもある。 この街名と州名を並べただけの曲タイトル。 日でいえば、さながら「博多九州」みたいなものだろう。 さて「Memphis Tennessee」と言えば、デビュー前のビートルズが1962年1月にデッカレコードのオーディションに落ちた時の音源の1曲としても有名である。 歴史に“

    メンフィス・テネシー〜チャック・ベリーが書いた小咄(こばなし)のような歌
    kamezo
    kamezo 2023/07/13
    キャロルがカバーするまで日本ではあまり知られていなかったってマジか? オレはいつどこで誰のを聴いてたんだろう??? 歌詞の意味も初めて知った。ちょっと意外。
  • ブラジルの貧民街とアメリカの刑務所で撮影されたマイケル・ジャクソンのショート・フィルム

    1995年のアルバム『ヒストリー』に収録された「They don’t care about us(彼らは僕らのことなんて考えちゃいない)」は、妥協を許さない表現者としてのマイケル・ジャクソンの姿勢が打ち出されている楽曲だ。 世界の人々が現実に直面している差別や暴力といった問題を、マイケルは他人事ではなく自分のこととして考えて、不条理や不公平を許さないという気持ちを込めて音楽にした。 そのメッセージ性をさらに強調していたのが、スパイク・リー監督によって撮影されたふたつのまったく異なるショート・フィルムだ。 スパイク・リーに「ミュージック・ビデオではなくショートフィルム」を作ってほしいと依頼したのは、マイケル人だった。 そこでリー監督は歌詞に忠実でメッセージ性の強い「プリズン(刑務所)・ヴァージョン」のほか、この歌のポジティブな面に光を与えるために、一緒にブラジルへ行ってパーカッション・チー

    ブラジルの貧民街とアメリカの刑務所で撮影されたマイケル・ジャクソンのショート・フィルム
    kamezo
    kamezo 2023/06/25
  • 「できることなら、この胸を切り裂いて、どんな気持ちで歌を作ったのか、見せてやりたいよ」忌野清志郎

    バリー・マクガイアの「明日なき世界」で始まり、ジョン・レノンの「イマジン」で終わる洋楽のカバー・アルバム『COVERS』は、RCサクセションと契約していたレコード会社の東芝EMIから1988年8月6日、世界で最初の原子爆弾によって多くの人の生命が奪われた広島の平和記念日に合わせて発売される予定になっていた。 しかし「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」が原子力発電への不安や危険性を訴える内容だったことから、原子炉を作る親会社の東芝から圧力がかかった。 子会社である東芝EMIはそれにまったく抵抗できず、6月25日に発売予定だった先行シングル「ラヴ・ミー・テンダー」と、アルバム『COVERS』の発売を中止にする。 それに関して「素晴らしすぎて発売できません」という、ふつうに考えると意味がわからない新聞広告が、音楽とは場違いな経済面の片隅に掲載された。 パリの通信社はそのニュースを

    「できることなら、この胸を切り裂いて、どんな気持ちで歌を作ったのか、見せてやりたいよ」忌野清志郎
    kamezo
    kamezo 2023/05/03
    このアルバムから35年。清志郎が去ってから14年。