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ブックマーク / www.tapthepop.net (81)

  • 目の前で愛する人が殺された時、人は…

    ブリキの兵隊とニクソンがやってくる ついに僕らだけになってしまった ドラムの響きを聞いて過ごした夏 オハイオでは4人の死者が出た 1970年5月4日。オハイオ州ケント州立大学で、州兵が学生集会に集まった若者たちに発砲し、4人が死亡するという事件が起きた。 この事件を知ったニール・ヤングは、その場で「オハイオ」を書き上げる。曲は5月21日にレコーディングされ、翌月リリースされた。 ケント州立大学は何人かのミュージシャンを輩出しているが、事件当時、学生集会に参加していたのが、ジェリー・キャセールである。ジェリーはその日のことを次のように語っている。 私は(ケント大学の)学生でした。そして私はSDSのメンバーでした。民主(D)社会(S)を求める学生(S)たちという反戦グループです。リンドン・ジョンソンとニクソンが蹄鉄を打ちつけようとしていた民主主義を、元ある姿に復元しようとしたのです。 ジェリー

    目の前で愛する人が殺された時、人は…
    kamezo
    kamezo 2024/05/13
    好きな曲だけど、そんな内容だったとは/このブログ記事https://note.com/bgmtokyo/n/n63be19ca3a0d もなかなか読み応えがある。
  • 母の歌〜その後のポピュラー音楽に多大な影響を与えた名曲の誕生秘話〜

    『マザー』をつくるにあたっては いくつかアイディアがあったのですが できあがったものを聞いてみると ピアノがすべてをやってくれていて あとは自分のマインドにまかせました。 〜中略〜 ピアノでひとつの音をだすと そこにすべてのハーモニックがあるということは 誰でも知っています。 どんなミュージシャンでも教えてくれます。 私は、こういうところまできてしまったのです。 このようなシンプルさ以外には、 何も必要ではありません。 【ジョン・レノン(ビートルズ革命/片岡義男訳 1972年 草思社刊 )より】 「Mother」は、1970年にジョン・レノンが発表した曲だ。 ビートルズ解散後初のソロアルバムとなった『John Lennon/Plastic Ono Band(ジョンの魂)』のオープニングナンバーとして収録され、ビートルズファンに、いや世界に衝撃を与えた一曲である。 発表当初は「狂気じみている

    母の歌〜その後のポピュラー音楽に多大な影響を与えた名曲の誕生秘話〜
    kamezo
    kamezo 2024/05/12
    ジュリアを跳ねた(轢いた?)のは非番の警官だったのね。https://ja.wikipedia.org/?curid=4337430
  • マリアンヌ・フェイスフル〜ミック・ジャガーの恋人、様々な依存症を乗り越えて、老婆を好演する女優となって

    「ミックはこれまでのすべての恋人の中で、マリアンヌのことを一番愛していたわ」 これはミック・ジャガーの2番目の、ジェリー・ホールが語った言葉だ。 ──マリアンヌ・フェイスフル。 1968年に公開された映画『あの胸にもう一度』で、裸に黒革の衣装をまとってアラン・ドロンと共演し、日の人気漫画『ルパン三世』に登場する峰不二子のモデルとなったと言われている女性だ。 1964年のデビュー当初、そのロリータ的な美貌と透き通るような歌声で、一躍英国を代表するカルチャーアイコンとなった彼女。 そしてザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとの交際が発端となり、酒とドラッグに溺れ、波乱の時期を経ながら、、、現在も音楽活動を続けながら女優としても活躍している。 今日はこれまで彼女がどんな人生を歩んできたのか? その生い立ちや足跡をご紹介します。 ──マリアンヌ・フェイスフルは、1946年12月29日に

    マリアンヌ・フェイスフル〜ミック・ジャガーの恋人、様々な依存症を乗り越えて、老婆を好演する女優となって
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    kamezo 2024/05/11
  • 最初からヒットの道が閉ざされていた泉谷しげるの「黒いカバン」

    おさみが泉谷しげるに書いた「黒いカバン」の歌詞に、”ぼくは人間ですよ”というフレーズが出てくる。 そこには「いち庶民」の目線でうたのことばを書くという、岡の詩人としての姿勢が反映されていた。 髪を長く伸ばしているというだけの理由で警察官から職務質問を受けることが、1970年代の初頭までは日常茶飯事のこととしてあった。 1960年代後半に吹き荒れた激しい学生運動の名残りがあったために、この歌詞のなかで描かれたようなことは誰にも起こり得たのだ。 そんな体験がそのまま歌になったのが「黒いカバン」である。 泉谷しげるは「俺も3、4回経験があるからね」と岡との対談で語っていた。 岡 ぼくは泉谷の作品では「ねどこのセレナーデ」が一番好きだ。黒いカバンの詩は書き方は軽いけど、中身ははっきり書いたつもりなんだけどね。 泉谷 あれはおもしろいというんで受けてるところはあるよ。ああいう状態はよく起こ

    最初からヒットの道が閉ざされていた泉谷しげるの「黒いカバン」
    kamezo
    kamezo 2024/05/11
    この時代はどストレートに「不審尋問」と言ってましたね。泉谷は3、4回なのか。俺よりよほど少ないなあ、チキショー。今は口調だけは丁寧になりました。
  • 忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

    「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。 一緒にまわった忌野清志郎がその時の経験について、以下の発言を残しているのだが、自分たちのことを「ホリプロ三羽ガラス」と自称していたことには驚かされる。 テレビのオーディション番組『スター誕生!』出身の森昌子がデビューしたのは1972年の7月で、その翌年になって石川さゆり、山口百恵からなる「ホリプロ3人娘」が出揃うのは、”全国ツアーみたいなもの”が終わってから1年以上も後のことなのだ。 モップス…、そう、あの鈴木ヒロミツが在籍していたバンド。それと今、アレンジャーやってる星勝もいた。モップスは「月光仮面」がヒットしてさ、

    忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”
    kamezo
    kamezo 2024/05/04
    この時期の音源がニコニコにあった。清志郎はいない。新宿のデパートの屋上でのオールナイトライブ。陽水とモップスでビートルズもカバーしてた。ハバロフスク・マフィアの映像をYouTubeで発見した時はたまげたっけな
  • 井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」

    井上陽水の「帰れない二人」が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤「心もよう」のB面としてであった。 そしてアナログ・レコードの時代の日において、最初に100万枚を突破した歴史的なアルバム『氷の世界』にも収録されたことによって、多くの音楽ファンに親しまれることにもなった。 ソングライターは24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎。ふたりの才能が正面からぶつかりあったことによって、それまでにない新しい音楽が誕生したといえる。 ニューミュージックの時代が到来していたなかにあって、「帰れない二人」は最先端の傑作と呼ぶにふさわしい楽曲になった。 その頃に井上陽水が住んでいたのは東京都三鷹市のアパートで、電話で「一緒に曲を作らないか」と誘われた忌野清志郎は、ギターを持って出かけていった。 そして井上陽水の部屋でお互いにギターを手にして向き合った2人は、わずか2時間ほどで「帰れない二人」をワン・

    井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」
    kamezo
    kamezo 2024/05/04
    2人が顔を突き合わせて作ったのは知っていたが、元になった曲があるとは知らなかった。昔から「帰れない二人」の方が好きだった。アルバムの「あかずの踏切り」「はじまり」「帰れない二人」という流れが好き。
  • KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断

    高校生でバンドを作った1968年から活動をともにしてきたオリジナル・メンバーの破廉ケンチが、うつ病でギターが弾けなくなってメンバーから外れたのは、結成から10年目を迎えた1977年の夏だった。 そのためにRCサクセションはアコースティックのトリオからロック・バンドに変貌することを目指して、2年近い紆余曲折の期間を経たにもかかわらず、結成以来のメンバーが忌野清志郎と小林和生だけになってしまった。 ところがが1978年1月18日、カルメン・マキ&OZのギタリストだった春日博文が「屋根裏」のライブに前触れもなく、アンコールで乱入してきたことをきっかけに一気にメンツが揃っていく。 春日のステージングに目を見張った忌野清志郎は、終演後にバンドへの参加を要請している。そして「ドラマーを変更すること」を条件に春日はギタリストとしてに参加し、忌野清志郎にはギターを弾かないでヴォーカルに専念することを提案し

    KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断
    kamezo
    kamezo 2024/05/03
    KISSの影響とは驚いた。デビュー前からオーティスなどのR&Bやソウルが大好きだったのに機材が買えずにフォークを始めたが回帰したという話は俗説だったのか? 屋根裏とヤングミュージックショーが繋がってたのも驚き。
  • 日本人が知らない間にロシアで大ヒットしていたザ・ピーナッツの「恋のバカンス」

    冬季オリンピックが開かれているソチは、美しい砂浜が広がる海岸で海水浴が楽しめることから、ロシアでは貴重なリゾート都市として発展した。 夏のバカンスで賑わう海辺の街は、地中海に面したフランスのリヴィエラ地方とも雰囲気が似ていると言われる。 そんなビーチリゾートを舞台にしたような曲が、「Каникулы любви(恋のバカンス)」だ。 1965年に人気歌手ニーナ・パンテレーエワが歌ったこの曲は、テーマソングとして使われた映画が大ヒットしたこともあって、ロシアでは知らない人がないほど有名になったという。 多くのロシア人が自国で作られた楽曲だと思っているらしいが、オリジナルは1963年にザ・ピーナッツが歌った「恋のバカンス(VACANCE DE L’MOUR)」だ。 当時の日人の感覚からすればかなり大胆な内容の歌詞で、フランス語のサブ・タイトルが付けられていたこともあり、外国曲のカバーだと思っ

    日本人が知らない間にロシアで大ヒットしていたザ・ピーナッツの「恋のバカンス」
    kamezo
    kamezo 2024/04/13
    ロシア語で合唱されるとロシア民謡に聞こえる不思議。途中から日本語で2度びっくり。しかし当時の状況で日本に印税とか入ってきたのだろうか。
  • ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁

    ライ・クーダーが奏でた音楽の風景 そのギター弾きは、ずっと風景の中に生きてきた。 デビュー以来、彼は一貫して商業主義に惑わされることのない不屈の音楽を録音し、人々の前で演奏してきた。「僕の人生は常に探求の連続だった」と言うように、葬られそうだった偉大な物の音楽を追い求め、やレコードでしか知ることのできなかった幻のミュージシャンを訪ねて直接学び取った。 美しい音楽、古い音楽、珍しい音楽を追い求める旅。それが自らの音楽に吸収されて表現できるようになった瞬間に、“ライ・クーダー・ミュージック”は完成する。そう、あの赤いグレッチや茶色のストラトキャスターを滑るスライドギターやフィンガーピッキングと共に聴こえてくる唯一無比の音楽音楽を旅する──この言葉がこれほど似合う男は他にいない。南部の田舎町や港町、国境沿い、太平洋の島、南米や沖縄まで、その旅は世界中を駆け巡ってきた。中でもハワイのギャビ

    ライ・クーダーという風景〜スライドギターの旅愁
    kamezo
    kamezo 2024/03/15
  • 浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」

    1975年の日音楽シーンでは、ユーミンこと松任谷(荒井)由実がシングルの「ルージュの伝言」を2月20日に発表した。 それを契機にマスコミで次第に「ニューミュージック」という言葉が使われるようになり、それにともなって新しい潮流が生まれていく。 その結果、60年代後半からの「アングラ・フォーク」や「日語のフォーク・ソング」、「日のロック」、「シティ・ミュージック」などが、ニューミュージックの名のもとに統合されて、芸能界の色が濃いそれまでの歌謡曲に飽き足らなくなった若者たちの支持を広く集めていった。 フォーク・デュオのバンバンが歌った「『いちご白書』をもう一度」は、学園紛争を描いたアメリカ映画『いちご白書』をテーマにして激動の時代を回想した作品だが、ユーミンの作詞作曲で大ヒットした。 1960年代の反戦運動ともつながっていた「若者の反乱」は、1975年4月30日にベトナム戦争が終結したこ

    浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」
    kamezo
    kamezo 2024/01/06
    この頃、何でもかんでもニューミュージックというくくりにされていたことが、ここにも書かれている/当時、大瀧詠一も同様の認識だった。https://youtu.be/jvubTJgusfU?si=X3p7C13KGeaGnCe5 13分頃
  • JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声

    ジェームス・ブラウンが初めてアポロ・シアターにショーを観に行ったのは1956年、ツアーでニューヨークを訪れたときのことだ。 俺たちのなかの誰もそれ以前に<アポロ>の中に入ったことはなかったが、ここに足を踏み入れることが何を意味するかは知っていた。黒人ショー・ビジネスの歴史におけるすべての最高のショーがここで演じられ、そしてここの観客は世界で最も厳しかった。(『ジェームス・ブラウン自叙伝 俺がJBだ!』より) いつか自分もそのステージに上がることを胸に誓ったJBはそれから3年後、はじめてアポロ・シアターに出演する。他にもいくつかのミュージシャンが出演する中でJBの出番はトップバッターだったが、“世界で最も厳しい”観客の心をあっという間に掴み、翌1960年にはヘッドライナーを飾るまでになった。 JBのショーは単に演奏して歌うだけではなく、様々な踊りやパフォーマンス、演出があり、それに観客が熱狂

    JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声
    kamezo
    kamezo 2023/12/25
    おもしろいエピソードだけど、62年で「ライブ・アルバムなんか売れるはずがない」というのはポップミュージック界での「常識」かな。あるいはブラックミュージック界か。そうでもないのかな。
  • Happy Xmas (War is Over)〜ジョンとヨーコが出した異例の広告看板から生まれた切なるメッセージソング

    Home 季節(いま)の歌 Happy Xmas (War is Over)〜ジョンとヨーコが出した異例の広告看板から生まれた切なるメッセージソング - TAP the POP それは1969年12月の出来事だった。 ベトナム戦争の真っ最中に、ジョン・レノンは結婚したばかりのオノ・ヨーコと共に、世界11都市に“WAR IS OVER “IF YOU WANT IT”(あなたが望めば戦争は終わる)と、異例の広告メッセージを発信した。 その3年後(1971年)に発表されたのが、「Happy Xmas (War is Over)」だった。歌は“Happy Xmas Kyoko, Happy Xmas Julian”と囁く声でスタートする。 この“Kyoko”は“Yoko”と間違われやすいのだが、ヨーコと前夫の娘の京子であり、“Julian”は、ジョンの最初のシンシアとの間にもうけられた息子ジュ

    Happy Xmas (War is Over)〜ジョンとヨーコが出した異例の広告看板から生まれた切なるメッセージソング
    kamezo
    kamezo 2023/12/23
    「あなた方が望めば戦いは終わる」というのは、もう一つのイマジンだよな。「一人で見る夢はただの夢だが二人で見る夢は現実になる」なんて言葉もあった。今もまだ国境はあるし戦いも終わらないけれど。
  • プラトーン〜誰のために戦っているのか分からなかったベトナム戦争の若者たち

    『プラトーン』(PLATOON/1986) 1987年、バブル経済が幕開けたばかりの春。新宿・歌舞伎町の映画館から出てきた時の、あの何とも言えない気分のことを今でも覚えている。 学校帰りに何となく観ようと思って友達と一緒に入ったものの、2時間後にはどうしようもない気持ちになっていた。みんな同じだったらしく、あまり会話も弾まなかった。戦争のことなどテレビ映画でしか知らない18歳の少年たちには、あまりに強烈な光景だったのだ。 理性の通じない所を地獄というのなら、ここがそうだ。 一週間でもう嫌になった。 1年も続ける自信がない。来たのが間違いだった。 そんなナレーションから始まる映画『プラトーン』(PLATOON/1986)は、1960年代後半のベトナム戦争の真実を描いた物語だった。監督/脚はオリバー・ストーンで、15ヶ月のベトナム徴兵の実体験をもとに制作された。退役してすぐの69年に構想し

    プラトーン〜誰のために戦っているのか分からなかったベトナム戦争の若者たち
    kamezo
    kamezo 2023/12/20
    『プラトーン』観てないんだよなあ。
  • 大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日

    Home TAP the DAY 大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日 - TAP the POP 大瀧詠一がエレックレコードとの契約で、プライベートレーベル「ナイアガラ」を設立したのは1974年9月だ。 自分のレーベルを持って作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニアを務めて、原盤制作から原盤管理までを行うことは、音楽の道を志した頃から抱いていた夢だった。 そして1975年5月25日、はっぴいえんど解散後の初ソロ・アルバム『NIAGARA MOON(ナイアガラ・ムーン)』を、ついに自分のレーベルから発売したのである。 広告のキャッチコピーは、こうだった。 ナイアガラレーベル期待の第二弾!! はっぴいえんどからナイアガラへ そして、今甦るポップスの数々 それから1か月後の6月25日、細野晴臣の2枚目のソロ・アルバム『TROPICAL DA

    大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日
    kamezo
    kamezo 2023/12/19
    〈大瀧は「自分で作った意識がない」と細野に語り、ついには「『ナイアガラ・ムーン』を作ったのは細野晴臣さんなんです」とまで口にした〉
  • サックスにボビー・キーズが加わってさらなる進化を遂げたローリング・ストーンズ

    1969年は、ローリング・ストーンズにとって一つの大きな転機だった。 6月にはリーダー的存在だったブライアン・ジョーンズが、度重なる問題行動によって解雇され、一ヶ月後の7月3日に27歳で亡くなった。 それと入れ替わるようにして、新たなギタリストのミック・テイラーが加わり、ストーンズは新たなバンドサウンドを確立させつつあった。 この頃にミック・ジャガーとキース・リチャーズが、これからのストーンズに必要だと考えていたのが、ホーン・セクションだ。そんなときにサポートとして加わったのが、テキサス出身のサックス・プレイヤー、ボビー・キーズだった。 ストーンズとボビーの出会いは、1964年に遡る。その年、初のUSツアーで全米各地を回っていたストーンズは、テキサスでボビーと同じステージに立っている。両者が出会う前、ボビーのストーンズに対するイメージは非常に悪かったという。 当時の俺は、「ラバー・ボール」

    サックスにボビー・キーズが加わってさらなる進化を遂げたローリング・ストーンズ
    kamezo
    kamezo 2023/12/02
    ストーンズのブラスって意識したことなかったけど、伝統的なR&B、R&Rのスタイルなだけでなく、その後のEストリートバンドやブルーデイホーンズにもつながる存在だなあ。
  • ジョージ・ハリスンが「ルーシー」という女性名をつけた伝説のギターの身代金

    ビンテージギターの第一人者として知られるノーマン・ハリスが書き下ろした自伝には、エリック・クラプトンがビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」で弾いたギターにまつわるエピソードも登場する。 1973年のある朝。ノーマンは、ユニバーシティーミュージックを経営する友人であるデール・ロスマンから、「レス・ポールが盗難にあって代替品を探している重要な顧客が店に来ている」という電話を、自宅のアパートで受けた。 もう少し詳しく状況を聞こうとすると、「つべこべ言わずにここへ来い、しかも急いでだぞ!」と強引な口調で催促された。それに対してむっとしていると、電話の向こうでビートルズの曲名を持ち出して、デールがこう言った。 「ドント・レット・ミー・ダウン(僕を失望させないでくれよ)、ノーム。君に会わせようとしているのはあのジョージ・ハリスンだぞ」 ノーマンは期待と不安が入り混じ

    ジョージ・ハリスンが「ルーシー」という女性名をつけた伝説のギターの身代金
    kamezo
    kamezo 2023/11/28
    すげえ。1973年当時だって、50年代のGibsonやFenderは貴重品だ。あー、でも80年前後のオールドギターの本に、あの稀少なコリーナのVが数百ドルと出ていた気もする。1500ドルが安いかは難しい。
  • 暗く、寒い日々の中でジョージ・ハリスンが待ち望んだもの

    ♪ ほら、太陽が顔を出した ほら、太陽が顔を出した 最高な気分さ ♪ イギリスの冬は暗く、長い。だからこそ、春の日差しを待ちわびるのだ。 ジョン・レノンも「アイ・アム・ザ・ウォラス」の中で、「イングリッシュ・ガーデン(英国式庭園)に座り、太陽が顔を見せるのを待っている」と歌っている。 そう、ジョンがそう歌ったように、その時、ジョージ・ハリスンはギターを手に、庭にいた。彼の家ではない。親友エリック・クラプトンの家の庭である。 1967年。ビートルズのメンバーは、冬の空のように屈とした日々を過ごしていた。彼らを育て上げたマネージャー、ブライアン・エプスタインが突然この世を去ってからというもの、メンバーは音楽のことではなく、会計やビジネスのことで頭を悩ますことが増えていた。 ジョージはそんな日々から逃げるようにして、エリック・クラプトンの家を訪れていたのである。ドキュメンタリー映画『ザ・マテリ

    暗く、寒い日々の中でジョージ・ハリスンが待ち望んだもの
    kamezo
    kamezo 2023/11/28
    ジョージが天啓を受けた瞬間の、美しい奇跡のようなエピソード/しかし「バッジ」に似てるって? 初耳だ。後で確かめてみよう。
  • 27歳のエルトン・ジョンと34歳のジョン・レノン、マジソン・スクエア・ガーデンでの共演

    1974年の3月25日に27歳になったエルトン・ジョンは、その年11月28日に行なわれたマジソン・スクエア・ガーデンでのコンサートについて、こう振り返っている。 「誰もがそれを信じられなかったくらい、当に感動的な夜だったよ」 アンコールに参加してくれたジョン・レノンが、一緒に3曲も演奏してくれたのだから無理もない。 その発端となったのは、1年と少し前に、ジョン・レノンとの間でちょっとした軽いやり取りがあったからだ。 アルバム『心の壁、愛の橋(Walls and Bridges)』を制作していたジョンを、エルトンがスタジオに訪ねたのは1973年9月のことだった。 エルトンはそのときに、レコーディング中だった「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You Thru the Night)」を聴いて、ピアノを加えたらどうかと提案した。 ジョンがそのアイデアを喜んで受け入れてくれたので、エ

    27歳のエルトン・ジョンと34歳のジョン・レノン、マジソン・スクエア・ガーデンでの共演
    kamezo
    kamezo 2023/11/27
    そうか、これがジョンの最後のステージになるのか。ううむ。
  • 発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった

    Home TAP the SONG 発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日人の歌になった - TAP the POP 1967年のクリスマスにレコードが発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」が驚異的なヒットを記録し、京都のアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズは日中から注目される存在になった。 そしてプロとして1年間だけ活動する道を選んだとき、フォークルのセカンド・シングルに決まったのは「イムジン河」だった。 後に加藤和彦とコンビを組んでフォークルやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当する松山猛が、この歌に出会ったのは少年時代にさかのぼる。 京都に生まれ育った松山は中学生の時、いがみ合いやけんか騒ぎが日常茶飯事だった日の学校と朝鮮学校との間を仲良くできないものかと考えて、学校同士でサッカーの対抗試合を行うことを思いついた。 銀閣寺の側

    発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった
    kamezo
    kamezo 2023/10/17
    加藤和彦追悼記事の一つ。有名なエピソードだが、やはり著作権的にはアウトだろうし発覚した以上は発売も無理なんだろうなあ。原詩・原曲クレジットと日本語詞や改作としてのクレジット併記ができていればなあ。
  • レスポールとレス・ポール~ある偉大なギタリストの軌跡~

    1952年に発売されたギブソン社にとって初となるソリッドボディ(中が空洞になっていない)のエレキギター、ギブソン・レスポール。 ジミー・ペイジやデュアン・オールマン、スラッシュ、ザック・ワイルドなど数多くのギタリストに愛用され、ストラトキャスターと並んでロック・シーンを彩ってきたロック界を代表するギターの一つだ。 このギターの名称は、当時全米で最も高い評価を受けていたギタリストの1人、レス・ポールからきている。 レス・ポールことレスター・ポルスフスは1915年、五大湖に面するウィスコンシン州のウォーカシャという町で生まれる。「ポルスフス」と言うのは舌を噛みそうになる、というの主張により、間もなくしてポルフスとなった。 楽器をはじめたのは8歳の頃、下水管工夫が休憩時間にハーモニカを吹いているのを興味深そうに見ていると、その工夫がハーモニカをレスに譲ってくれたのだ。 夢中でハーモニカの練習を

    レスポールとレス・ポール~ある偉大なギタリストの軌跡~
    kamezo
    kamezo 2023/08/13
    レスポール・モデル開発のくだりが通説と全然違うのだが、参考文献に挙げられている伝記ではこうなってるのかしら。不思議。