戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。 細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。 細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。 その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。 石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興
牛肉食がタブーだった時代 日本における食のタブーで有名なのは「肉食の禁忌」だ。幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人たちの多くが、日本人が肉を食べず、自分たちが食べるのを見るのも嫌がったと証言している。 だが、戦国時代の食を調べていくと、どうも違う実態が見えてくるのだ。当時の記録によると、戦国時代の日本人は、猪や鹿はおろか、犬、猫に至るまで食べていたのだ。それも卑しい庶民がではない。武士や貴族、果ては僧侶まで獣肉を口にしていた。ただ、食肉として牛を食べることはめったになかった。それはいったいなぜなのか? この問題に対する見解を、超有名な戦国武将が述べている。 「牛馬は人間に仕え有益なる動物であるに、何故に之を食ふ如き道理に背いたことをなすか」(『イエズス会日本年報』村上直次郎訳) 天正15年(1587)、豊臣秀吉が宣教師クエリヨに対して伝えた言葉である。同年6月19日に発布されたキリスト
久々のブログの更新です。 今年も、文学フリマ大阪は開催します。 今年の表紙を飾った「顔」は高山右近です。 戦国時代から江戸初期にいたる武将で、キリシタン大名として有名です。 洗礼名はジュスト、正義の人という意味だそうです。また、茶人として千利休の高弟であったそうです。 今年のキャッチコピーは「壁をぶち破れ」なのですが、信仰に生き、武将としても優れ、また文化人でもある彼の逞しさでもって、文学フリマ開催に向けて、高山右近は心強いシンボルとなるものだと思います。 そして、私はそんな右近パワーを得るべく、阪急電車に乗って高槻市を目指しました。 梅田駅に着くまでにすでに体力の半分以上は失われていました。 世は酷暑も酷暑。人間が生存できる暑さではありません。 山の方は、夕方ごろになるとさすがに涼しくなって驚いたことがあるのですが、都市は夕方こそその暑さを増す恐ろしさ。 太陽の光が日傘を貫くように差して
バチカン(ローマ法王庁)から「福者(ふくしゃ)」に認定されたキリシタン大名の高山右近(1552~1615)が城主を務めた高槻城(大阪府高槻市)で、織田信長も手を焼いたとされる右近の築いた堀や、江戸幕府が大規模な改修工事をした痕跡が新たに見つかった。高槻市教育委員会が1日発表した。 高槻城は1573~85年、右近が城主を務めた。その後、豊臣家を経て徳川家の直轄地となり、大坂夏の陣の2年後の1617年、西国大名への備えとして幕府が全面改修。明治の廃城後に堀は埋められた。現在は公園になっている。貯水施設を建設するため、市教委は昨年11月から発掘していた。 堀は幅約9メートルで、江戸時代の二の丸と三の丸の間の約75メートルにわたる内堀の下にあった。2010年には今回の調査地の南でも幅約19メートルの戦国時代の堀が見つかった。右近は1578年、信長に謀反を起こした主君の荒木村重に従い、一時織田軍に高
織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名で、キリスト教を禁教とした江戸幕府から国外追放され、フィリピン・マニラで病死した高山右近(1552~1615年)が、ローマ法王庁から、カトリック教徒の崇敬対象「福者(ふくしゃ)」として、早ければ年内にも認定される見通しになった。正式決定を前に、バチカンからイエズス会司祭が訪日し、その足跡をたどるなど、没後400年の節目の年に右近が再び世界から注目を集め始めている。 12歳で洗礼を受けた右近は、生涯を通じてキリスト教に強く帰依していた武将として知られる。高槻城主時代の領民のうち約7割がキリスト教徒だったとされるほか、秀吉の側近、黒田官兵衛(孝高)などに入信を勧めるなど、布教活動にも熱心だった。 秀吉からの棄教命令を拒否して大名としての地位や領地を失い、徳川家康によるキリシタン国外追放令により母国を追われたが、信仰を捨てなかった。 こうした信仰への真摯(
来年、没後400年を迎える戦国末期のキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)が、カトリックで最高の崇拝対象「聖人」に次ぐ「福者」の称号を受けられるよう機運を高めようと29日、香川県の小豆島で足跡をたどるビデオ撮影が行われた。 撮影に訪れたのは、右近の列福(福者として認定)を進める「カトリック中央協議会」(東京都江東区)から依頼を受けた業者。来年2月3日、神戸市内で開かれる列福に向けての集会で、小豆島に伝わる右近とオルガンチノ神父の潜伏先や、隠れキリシタンに関連する遺物などを紹介するのが目的だ。 一行は、多くの巡礼者が訪れている土庄町内のカトリック小豆島教会でステンドグラスや十字剣を手にした高山右近像を撮影。また、小豆島町では潜伏の地とされる中山地区や大十字架がある西村地区でも撮影した。今後は、南蛮寺を建立した金沢市やマニラへ向けて出航した長崎市なども訪ねるという。 右近は天正15(
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