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ブックマーク / sengokukomonjo.hatenablog.com (52)

  • 文正の政変ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』の最初は三十八歳の新九郎が堀越公方の御所を襲撃するシーンから始まりますが、そこから十一歳の千代丸に戻ります。そしてその千代丸が伊勢宗家に同居する実父の伊勢備前守盛定の邸に引き取られてすぐに起きたのが文正の政変です。 『新九郎、奔る!』では伊勢家から見た文正の政変が描かれています。 伊勢貞親は足利義政の養育先であった縁で、貞親の嫡男の伊勢兵庫助貞宗(新九郎の従兄)が義政の長子の義尚(作中では春王)の養育先となっています。 ただ義政には後継者に足利義視がおり、伊勢家としては義視が将軍となった場合、旨味がありませんので、義視を排斥して義尚を後継者につけようと画策します。 とここまで書いてきて気づく方もいらっしゃるかもしれません。義視を排斥して義尚に跡を継がせようとしたのは日野富子ではないのか、と。これについては現状の有力な説では明応の政変後に作られた『応仁記』の

  • 伊勢氏とはーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』は伊勢新九郎盛時を主人公としています。伊勢新九郎盛時は『北条早雲』として知られる人物です。出家後は早雲庵宗瑞と名乗り、「伊勢宗瑞」と呼ばれています。実際には「北条」を名乗ったのは彼の子の氏綱の代からで、彼自身は「北条早雲」と名乗ったことはありません。 彼は従来は永享四年(一四三二)生まれで永正十六年(一五一九)に享年八十八歳で死去とされ、活躍も老年に差し掛かってから、と大器晩成の人物のように思われてきましたが、永享四年については今日では叔父の伊勢貞藤の生年と混同している可能性が強いと考えられています。今日では康正二年(一四五六)生まれで享年は六十四歳と考えられています。 長らく「北条早雲」は下剋上の始まり、戦国大名の走りのような扱いを受けていましたが、近年では室町幕府の政所を支えた名門伊勢氏の庶流と見られています。 ゆうき氏の『新九郎、奔る!』は近年の研究動

    kash06
    kash06 2022/01/16
    おぉ、伊勢氏を概観するエントリだ
  • 今川義忠にみる戦国大名化の契機ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    『新九郎、奔る!』第8巻の表紙は今川義忠です。 新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス) 新九郎、奔る!(8) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ] 今川家で最も有名な今川義元の祖父にあたり、北条早雲こと伊勢新九郎の義兄にあたります。今川義忠の突然の戦死とその後のお家騒動への関与が北条早雲こと伊勢新九郎の台頭のきっかけでした。 この今川義忠の時代に実は今川家の戦国大名化の契機があります。この辺を上手に『新九郎、奔る』第8巻では説明されています。 「戦国大名」はそれまでの「守護大名」とどう違うのでしょうか。 戦国大名とは何か、という問いの答えはまだ統一したものはありませんが、最大公約数的に見れば、数郡から数国規模の広い領域を支配し、家中と国衆を支配し、朝廷や室町幕府という観念的な権威以外には服さず、独自の支配を打ち立てている、ということになるでしょう。 戦国大名には守護もしくは守

    kash06
    kash06 2022/01/09
    一直線に進むのでなく、幕府との関係、在地との戦い、一族内の争いとある中で、一つずつ既成事実が積み上がって戦国大名化するのが見えて面白い。
  • 足利義教はなぜ北海道から沖縄までを支配したスーパーマンとなったのか - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    足利義教はしばしば織田信長のモデルともなった強力なリーダーシップを持った強烈な独裁者というイメージを持たれています。もっとも織田信長は足利義教のことを「悪御所」とディスっていますから、信長が義教のことを基的には評価していなかったことが伺えます。義昭に対して「義教様は悪御所と呼ばれてますが何ででしょうねぇ(何かを見た)」と皮肉をかましていますが、部下に殺されてしまうまでそっくりなため、信長が殺された時に義昭は「特大ブーメラン乙」と思ったでしょう。 義教はその強烈なリーダーシップを生かして北海道から沖縄まで支配したことになっています。 もちろん誤りです。琉球に関しては現在研究上琉球を支配したことになっている論拠である「嘉吉附庸説」は完全に否定され尽くしており、これを事実として取り上げる著作物は歴史の著作ではなく、政治イデオロギーを主張するものでしかありません。イデオロギーを主張するのはよいの

    足利義教はなぜ北海道から沖縄までを支配したスーパーマンとなったのか - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
  • 足利義教が琉球を島津氏に与えたというデマは潰す必要があります - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    足利義教が琉球を島津氏に与えた、というデマがあります。これはデマと言って何ら問題はありません。これは学問上ではすでに否定され、決着がついている問題ですが、いまだにネット上では信じられているデマでもあります。多くの義教関係の著作や琉球関係の著作で否定され続けているにも関わらず、まだ生命力を持っており、クマムシか、と思っていましたら、その供給源が一つ明らかになりました。 【今日は何の日】嘉吉元年4月13日(J 1441/5/3)足利義教,琉球を島津忠国の属国とする(島津家譜)。『日史総合年表 第2版』より。 #yk_nannohi — 吉川弘文館営業部official (@yk_sales) 2015年4月12日 吉川弘文館のお墨付きとなればいつまでたっても減らないわけです。『日史総合年表 第2版』(吉川弘文館、2005年)を基にしているので余計にタチが悪い、としか言いようがありません。吉

    足利義教が琉球を島津氏に与えたというデマは潰す必要があります - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2021/06/06
    捏造の根源が近世にまで遡るというのも、また複雑というか面倒な話だ!
  • ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します足利義昭編2 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    戦国IXAの武将を説明するシリーズの足利義昭編です。 前回の記事はこちらです。 sengokukomonjo.hatenablog.com 戦国IXAの足利義昭2012年バージョンの絵です。 前回は織田信長に擁立されて室町幕府15代将軍になったところ、つまり「天下布武」の実現まで見てきました。 今回は織田信長と足利義昭の関係について見ていきたいと思います。この時期の信長の方針は「天下静謐(てんかせいひつ)」つまり足利将軍家のもと、畿内の平穏が保たれることを目標としていました。 虚像の織田信長 覆された九つの定説 足利義昭が織田信長の傀儡(かいらい=操り人形)だった、という見方は根強いです。しかし虚栄心が強いくせに無能な足利義昭は信長を邪魔に思って排除しようとし、逆にやられた、というのが古典的な理解だったと思います。 それに対し「織田信長包囲網」を作ったりしてなかなかの人物だったのではないか

    ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します足利義昭編2 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
  • 織田信長と正親町天皇の関係はどうだったの? - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    大河ドラマ『麒麟がくる』、織田信長と正親町天皇の関係が悪化し、間に立つ明智光秀の心労が増している、という話のようです。 実際信長と正親町天皇の関係はどうだったのでしょうか。 従来、信長は自分の意のままにならない正親町天皇を退位させ、自分に都合の良い誠仁親王(さねひとしんのう)を天皇につけようとしてきた、とされてきました。大河ドラマもその方向で描かれている、と言っていいでしょう。 しかし現在の学界の多数説はその見方を否定しています。 詳しくは渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房)に収録された「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」をご覧いただければ嬉しいのですが、ここでそのアウトラインを書いておきます。 虚像の織田信長 覆された九つの定説 一言で結論から言いますと、信長は正親町天皇に対しては「しょうがねえ奴だなぁ」と思っていたのではないか、と考えています。実際正親町天皇の迷走ぶりはひどく

    織田信長と正親町天皇の関係はどうだったの? - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2021/02/06
    「信長の死後、織田家は混乱し、羽柴秀吉によってようやく譲位のタイミングが作られた時には不幸なことに誠仁親王は病死してしまっていました。」 彼もまた、運命に翻弄された親王だったのだなぁ
  • 拙著『乱世の天皇』見どころ14ー評伝だけではない - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    引き続き今谷明氏にいただいた拙著へのレビューを取り上げます。 weekly-economist.mainichi.jp 冒頭に書いてあります「評伝の形式取りつつ室町期の特異な状況活写」ですが、要は後花園天皇の評伝というに止まらず、室町時代の朝廷と幕府の関係を描き出した、ということです。 これは裏があります。 私は自分の推しである後花園天皇について広めたい、というノリしかありません。 「あとがき」に拙著の刊行事情が書いてありますが、最初にお話を持ってきてくださった渡邊大門氏からは「単なる評伝ではダメ」(意訳)というアドバイスをいただいています。もうここから「評伝の形式を取りつつ室町期の特異な状況活写」という拙著の方向性は決まっていました。 さらに最初に担当いただいた藤原清貴氏からは「室町幕府と朝廷の特異な関係をしっかり描いて欲しい」(意訳)という注文が入りました。 さらにさらに最終的に担当い

    拙著『乱世の天皇』見どころ14ー評伝だけではない - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2020/08/29
    後花園天皇を中心に「評伝の形式を取りつつ室町期の特異な状況活写」したスタイルとのこと
  • 拙著『乱世の天皇』見どころ10ー読み仮名再び - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の見どころというか、苦労の跡です。 www.tokyodoshuppan.com 読み仮名にかなり力を入れている話をしていますが、僧侶の名前も悩みどころです。 例えば誰でも知っていると思いますが、源実朝を暗殺した「公暁」、もうこれはガチで「くぎょう」と読むと思っていたら、どうやら近年では「こうきょう」と読むらしい、という話があって、少々びっくりです。 私は僧侶の名前については悩んだ時は「呉音」で読む、ということを原則にしておりまして、先ほどの「公暁」も呉音です。近年は漢音だった、ということなのですが、実は意外と漢音で読まれる僧侶は多いです。 南都の興福寺の一乗院門跡に覚慶という人がいます。読み方は多くの場合「かくけい」「かっけい」となっていますが、呉音で読むならば「かっきょう」ではないか、と思います。しかし今までこの「覚慶」を「かっきょう」と読んでいるケース

    拙著『乱世の天皇』見どころ10ー読み仮名再び - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2020/08/13
    初学者としてはフリガナを求めるけど、研究者としてもカナを振りづらい!
  • 拙著『乱世の天皇』副読本2ー観応の擾乱 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    エントリは拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の副読として、歴史に詳しくない方が拙著を読むときに、あった方がいい知識を記しています。 www.tokyodoshuppan.com こちらと同内容です。こちらのサイトは小中学校向けに社会の情報を発信しています。場合によっては高校までカバーできるかもしれません。 yhatano.com 前回は「両統迭立」を見ました。鎌倉時代後半の天皇家が二つに分裂し、交互に天皇を出すようにした結果、後醍醐天皇が暴走して鎌倉幕府をぶっつぶした上に吉野に逃亡して南朝を作り、南北朝時代になってしまった、という話でした。 今回は室町幕府の内輪もめである「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)を見ていきます。高校生の日史ならば出てくるレベルです。小学校ではガン無視、中学校ではもしかしたら「室町幕府では兄弟の争いが起こり」程度に流されるか、全く無視するか、のどちらかでしょ

    拙著『乱世の天皇』副読本2ー観応の擾乱 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
  • 拙著『乱世の天皇』見どころ6ー後花園天皇の晩年 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    後花園天皇(厳密には上皇、以後全て後花園天皇に統一する)の出家は帝王不徳の責めを感じて出家したのは事実ですが、それはいわゆる引責辞任というようなものではありません。後花園天皇は閉眼の直前まで、さらには死後もなお「戦い続けた天皇」でした。 拙著『乱世の天皇』は事実上後花園天皇の評伝です。あまり知名度はありません。何しろ「後花園天皇と応仁の乱」という演題でご来場の皆様にお尋ねしたところ、80人中二人しかご存知なかった、とか、亀田俊和氏の『観応の擾乱』(中公新書)の出版が決まった時に「あの亀田さんが『観応の擾乱』を出すとは素晴らしい!」と感動していた弟も後花園天皇について「誰や?」と言っていた、とか、後花園天皇推しの私の周りには「後花園天皇、誰?」感がただよっています。 室町時代の天皇というのは長らくマイナーな分野で、私からすれば意外と一般書も出されている、という印象ですし(今谷明氏の『室町の王

    拙著『乱世の天皇』見どころ6ー後花園天皇の晩年 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2020/07/28
    後花園天皇といえば、この本……。
  • 拙著『乱世の天皇ー観応の擾乱から応仁の乱』(東京堂出版)刊行のお知らせ - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    拙著が発売されます。 乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで 皇統の分裂を引き起こした後嵯峨上皇による後深草天皇から亀山天皇の譲位を皮切りに天皇家は自律性を失い、幕府を倒壊に追い込み、日社会を動乱に巻き込みました。その余波は足利義満による統一後も続き、天皇権威は地に堕ちました。そこからの天皇権威の復活の過程を貞成親王・後花園天皇の生涯を軸に叙述します。 室町時代、とりわけ天皇家に関心のある方には強くオススメです。もちろん後花園天皇をとりまく足利義教・後小松上皇・伏見宮貞成親王・称光天皇・足利義政など濃いメンバーにもご注目を。第8章では北海道や琉球、朝鮮、明など当時の東アジア世界にも目配りしています。特に研究の少ない室町時代の北海道史にもご注目ください。 天皇権威を復活させた足利義教 天皇から叱責された足利義政 そして、最期まで戦い抜いた後花園天皇 室町戦国時代における天皇家の頽廃と、そこ

  • 渡邊大門編『考証 明智光秀』(東京堂出版)発売のお知らせ - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    渡邊大門編『考証 明智光秀』(東京堂出版)発売開始です。 私も第四章「明智光秀と京都支配」を書いております。よろしくお願いいたします。 www.tokyodoshuppan.com 考証 明智光秀 内容紹介 出自や正確な生年月日さえも未だにわかっていない明智光秀。しかし、光秀が戦国の世に生きた証しは少なからず残されている。書では光秀に関する14のテーマを取り上げ、一次史料を駆使しながら、伝説や物語とは一線を画した等身大の光秀像を描く。 目次 第一章  明智光秀は美濃土岐明智氏出身なのか(木下聡) 第二章  明智光秀と足利義昭・細川藤孝(山田康弘) 第三章  明智光秀と近江(渡邊大門) 第四章  明智光秀と京都支配(秦野裕介) 第五章  明智光秀と信長配下の部将との関係──筒井順慶・細川幽斎を中心に(片山正彦) 第六章  明智光秀の丹波攻略(渡邊大門) 第七章  明智光秀の丹波支配と国衆(

    渡邊大門編『考証 明智光秀』(東京堂出版)発売のお知らせ - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
  • 鉄道から歴史を見る!戦争と平和を走り抜けたスハネ30 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    yhatano.comここで書いた記事をこちらでもシェアします。 鉄道趣味をやっていますと、結構社会にも関わってきます。というよりも社会科の先生の中にはかなりの鉄道オタクが入り込んでいると私は確信しています。私も鉄道が好きです。 今日取り上げるのはスハネ30という車両です。 1 「スハネ」って? ここで「スハネ」というのはどう言う意味かを簡単に述べておきます。 最初の「ス」は客車の重量です。軽い方から順に「ナ」「オ」「ス」「マ」「カ」と重くなっていきます。ちなみに語源は「中型」「大型」「スチール」「マキシマム」「濶大(かつだい)」から付けられている、という説が有力です。 次の「ハ」は等級です。もともとは一等車は「イ」、二等車は「ロ」、三等車は「ハ」でしたが、二等級制への移行で一等車が「ロ」、二等車が「ハ」となり、現在ではグリーン車が「ロ」、普通車が「ハ」です。ちなみに堂車は「シ」、荷物車

    鉄道から歴史を見る!戦争と平和を走り抜けたスハネ30 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2020/02/08
    1つの車両の生涯を軸に見ると、日本社会の急変が恐ろしいスピードで悪化したり復興したのだろうな。改めて、恐ろしい速度だ。
  • 洛西用水 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    東寺百合文書でも有名な文書の一つ、ツ函341号文書です。 hyakugo.kyoto.jp ここで詳しく紹介されています。今回はこれについて話してみました。 これは何回か話している題材ですが、いつもうまくこの文書の面白さを伝えることが十全にできずに苦戦しています。まだまだ改良の余地があります。 東寺百合文書ツ341 洛西用水は桂川の水を川の西に広がる水田に導く疎水です。嵐山の渡月橋にある井堰から取り入れられた水は二の水路を流れ、再び桂川に戻ります。6世紀、秦氏がこの地を開拓した頃に起源をもち、現在まで農業用水として機能してきました。中世、この地には多くの荘園があり、洛西用水の水利をめぐって争いが東寺百合文書に記録されています。琵琶湖疎水が観光化しているのに対し、洛西用水は実用一点張りのため訪れる人は限られています。中世の文書をもとに、秦野裕介先生が洛西用水の水利をめぐる荘園住民の争いを解

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  • 御室仁和寺の動画 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    ユーチューバーの秦野です。 最近アップされている動画を貼り付けておきます。 「そうだ 京都、行こう」便乗企画で、京都の社寺をディープに解説するシリーズです。 第一回目は御室仁和寺です。 動画へのリンクです。 www.youtube.com www.youtube.com 吉田兼好はいなかった、という小川剛生氏の中公新書『兼好法師』を取り上げています。結論から言いますと、私もこのの結論に関しては今の所同意です。 これからこのブログでもリンクを貼り付けることにします。 これは十一月七日に録画された動画です。 仁和寺へは京福電鉄嵐山(らんざん)線(通称嵐電(らんでん))が便利です。四条大宮駅・西院(さい)駅から帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅で北野線に乗り換えます。「御室仁和寺駅」という非常に趣のある駅があります。 randen.keifuku.co.jp そこで下車すれば便利です。 仁和寺のサ

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  • 関東下知状(『朽木家古文書』422 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    古文書入門です。 関東下知状です。文末が「下知件の如し」という書止文言があるためにこの名があります。判決(裁許)を伝えるための文書なので『史料纂集 朽木文書』では「関東裁許状」と名前が付けられていました。 とりあえずは写真です。 www.digital.archives.go.jp 関東下知状 朽木家古文書 国立公文書館 翻刻です。 駿河彦四郎有政与姉平氏〈号弥鶴〉、相論亡父時賢遺領 武蔵国比企郡南方石坂郷内田・在家事 右、就訴陳状、欲有其沙汰之處、如有政去年十二月廿六 日避状者、任女子等所帯譲状、可去与云々、爰如氏女所進建 長六年八月廿四日・文永八年九月十日譲状者、石坂郷内恵 加佐次郎在家・同田壹町五段・右衛門太郎在家・同田壹町云々、 者、任彼状、向後無違乱可令領知之状、依鎌倉殿仰、下知如件 建治三年正月 日 武蔵守平朝臣 相摸守平朝臣(花押) 読み下しです。 駿河彦四郎有政と姉平氏〈弥

    関東下知状(『朽木家古文書』422 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2019/10/22
    すっかり読み方を忘れてしまい、ごとくんばは無事に読めていたけど、「云々てえれば」を読めていなかった。そうだ云々てえりだ。
  • 後花園天皇から成仁親王への手紙 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    後花園天皇の皇子はどんな人?父帝との関係は?調べてみました。 後花園天皇には皇子が一人しかいませんでした。嘉楽門院大炊御門信子所生の成仁(ふさひと)親王です。母親の大炊御門信子は実際には大炊御門家の姫ではなく、地下の楽人の娘です。医師の和気氏の養女になって後花園天皇の下臈となり、唯一の皇子を産んだことから大炊御門家の養女となって国母となりますが、他の上臈たちに皇子が生まれれば生家の身分の低い信子所生の成仁親王は門跡に入室する運命でした。しかし結果として後花園の唯一の皇子であったため、彼が儲君となります。 この後花園から成仁へ送られた手紙が今日残っています。「後花園院御消息」と言われ、『群書類従』などに収められています。 『大日史料』にも収載されていて、そこには頭注で内容が書かれていますので、その頭注をみていきましょう。 アウトラインを示しておきます。 「言動は重々しくしなさい」 「連歌の

    後花園天皇から成仁親王への手紙 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2019/10/01
    「誓いありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ」何という真摯な思い。「なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである」ローマ人への手紙7章のパウロか。
  • 日本の武士はなんであんなに「間抜け」なのか - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    こんな話を聞いたことはありませんか。 元寇の時、日武士はモンゴル軍の前に進み出て「やあやあ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは」 モンゴル軍、ドッと笑う。と、いきなり一斉に取り囲んで殺してしまう。 日武士って間抜けすぎ、としか言いようがありません。 というか、これ、当なのでしょうか。 考えてみれば蒙古襲来の時の日武士って間抜けに描かれているような気がします。集団戦法と個人戦のネタもそうですが、そもそも武士が戦っても埒があかず、結局二度とも「神風」という自然現象に助けられた、ということになっています。 しかし近年の研究ではそれを覆す成果が出されています。文永の役では武士が戦ったゆえにモンゴル軍は撤退した、というのは今や多数説となったとみていいでしょう。ポイントは一日か、もっと長期化したか、という点です。 弘安の役でも台風にやられるまでに日側がかなり奮戦して

    日本の武士はなんであんなに「間抜け」なのか - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座
    kash06
    kash06 2019/08/16
    別の段に出てきた海域アジア、または悪党、得宗の研究が蒙古襲来研究にも繋がっている。90年代のこれらの研究に、現在の研究結果の萌芽があったのだろうかと思った。
  • 大モンゴルウルスに対峙した人々1 北条氏とその周辺 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    8月1日(木)のオンライン日史講座でのまとめです。 北条氏について、皆さんはどういうイメージをお持ちでしょうか。陰険、陰謀、北条政子、暗殺。あんまりいいイメージないですね。なんとなく謀略と暗殺でのし上がり、最後は暗君の北条高時によって滅びてしまったクソみたいな一族、というイメージでしょうか。 北条時政は源頼朝の義父という地位を利用して権謀術数でライバルを滅ぼし、初代執権に、北条義時は同じく有力御家人を滅ぼして侍所も支配下に入れ、将軍も暗殺して実権を掌握(ちなみに私はその考えを支持しません)、承久の乱で後鳥羽上皇を流罪に処して朝廷も圧服した独裁者、北条泰時は御成敗式目、北条時頼は得宗専制、北条高時は無能で暴虐で自業自得、というイメージでしょうか。 唯一評判のいいのが北条時宗でしょう。国難に敢然と立ち向かい、日を救った救国の英雄、現代日に必要な愛国者、ビジネスマンも見習うべきリーダーシッ

    大モンゴルウルスに対峙した人々1 北条氏とその周辺 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座