「たかが映画…」なんて台詞を平熱で吐くやつが、ぼくは大嫌いだ。単にそういった文化系のなんちゃらに興味が無いのならまだしも、あの映画のここがどーしたあそこがあーしたという話に花を咲かせているときに、「その話パス」とでも言いたげに話の腰を折るやつ。ぼくはそーゆー輩と遭遇するたびに「ああ、住む世界がちがうんだな」とか「ふーん、こいつバカなんだ」とか、あまり思いたくはないけど、そう思ってなんとか理由づけするしかない、そうでもしないと納得できない、といった嫌な気分にさせられる。「たかが」なんて言葉がぴたりと当てはまる物事なんて、この世にはもうひとつも在りゃしないんだ。 たとえば9.11。当時ぼくは中学生。その日1日をどう過ごしたかまでは覚えてないけれど、起き抜けにテレビから受けた視覚的ショックは未だハッキリと覚えている。事件発生は前の日の夜だけど、その頃からテレビがゲーム・映写機と化していたので、ぼ
ジャック・ケッチャム原作の映画『隣の家の少女』が、3/13よりシアターN渋谷で公開です。最初はレイトショーだけの予定だったのが、問い合わせが多いようなので、急遽2週目からモーニングショーも追加になりました。 わたしはプレスシート(たぶんパンフレットと同意語)に寄稿しています。深町先生(id:FUKAMACHI)も執筆されてます。まだプレスの実物観ていないので、深町先生の原稿が楽しみ。 問題作として有名な原作小説を読まれてる方も多いと思いますが、交通事故で両親を亡くした少女が、貰われた家の女主人に監禁され、その女性の実子や隣近所の少年少女から虐待を受けるというお話です。わたしは「なぜこういった小説があえて映像化されたり、後味が悪いと知りながら観てしまうのか」ということを、「女子高生コンクリート詰め殺人」などの類似した監禁虐待事件も含めて書いてみました。 複数の人間による虐待は、被害者はもちろ
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