(中脇 聖:日本史史料研究会研究員) 長宗我部元親と土佐一条家の関係 戦国時代(諸説あるが、おおよそ1455年の享徳の乱から1573年の足利義昭の京都追放までの時期をいう)、土佐国(現在の高知県)を統一し、四国全体をほぼ統一しかけた大名長宗我部元親については、高校の教科書などに記される「長宗我部元親百箇条」(長宗我部掟書)という分国法やゲーム(信長の野望・戦国BASARAなど)、司馬遼太郎さんの小説(『夏草の賦』)などで、名前だけはなんとなく憶えているという読者が多いのではないだろうか。 この長宗我部元親が実は、土佐一条家(同家については、前回記事「貴族のイメージを覆す!戦国時代の「闘う」貴族、一条兼定の実像」を参照して下さい)に仕えていた「家臣」だったという学説がある(秋澤繁さんが提唱されたこの学説を「御所体制」論という)。戦国時代の末期、土佐一条家の当主だった一条兼定を土佐国から追い出