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ブックマーク / kenmogi.cocolog-nifty.com (55)

  • 茂木健一郎 クオリア日記: ステレオタイプの学歴信仰は、根拠がない点において、「血液型人間学」と大して変わりがない。

    ある人が、ある組織に関わっていることが、その人が未踏の境地に挑戦する上での「安全基地」になることは、ある程度はあるかもしれない。しかし、それはあくまでもその人がその組織とつながる人と共同作業をしたり、資金、資源的な支援を受けたり、「のれん」や「ブランド」を用いることができたりといった、具体的な行動と結びつくプロセスを通してでなければならない。 ある人が、ある組織と関わっていること自体が、その人のプライドになったり、あるいは劣等感につながったりするようなことがあると、それは一つの病理学へとつながる。何よりも、それは、科学的な態度とは言えない。何よりも、そのような態度は、その人の「安全基地」の構築にはつながらないのである。 日では、大学がその「偏差値」によって「輪切り」され、そのことによって「序列」があると思い込んでいる人が多い。このことが、いかに非科学的な態度であるかを認識することは、日

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 母校での授業で、思い切り噴火してみた。しかし、空噴火に終わった。訪れた認識。すべての問題は、個人的な問題である。

    母校での授業で、思い切り噴火してみた。しかし、空噴火に終わった。訪れた認識。すべての問題は、個人的な問題である。 ある出来事についてのすべての記述、評価は原理的に主観的なものだから、昨日こんなことが起こったという私のこれからの記述も、あくまでも私の眼から見て、そのようなことがあったように感じた、ということかもしれぬ。 年に一回の母校での授業。畏友にしてソウルメイト、池上高志がこのところずっと招いてくれている。 前日、池上がtwitter上でメッセージをくれた。 @kenichiromogi you know Japanese is strictly prohibited in the lecture. Use other languages. それで、ぼくは、どうかなあ、と思ったけれども、池上に次のように返事した。 good. i will use maths, baby talk, ge

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/06/17
    「すべての問題は、個人的な問題である。きっと、そうなんだね」――でも負けない。“馬を水場に連れていくことはできても…”を思い出した
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 連結した多様性のクラスター

    グローバリズムの進行によって、世界が「単連結」になっていくことは、必ずしもさまざまなものが均質化することを意味するのではない。 むしろ、世界中が一つに結ばれつつも、その内部で多様性が保たれるための方法論があるはずである。 世界中の人たちと向き合い、交流することで、「均質化」だけでなく、「多様化」のダイナミクスもまた、作用し得るはずだ。 一つのひな型が、脳である。脳の中の神経細胞のネットワークは、疑いなく「単連結」である。(そもそも、そうでなければ、一人の「人物」として、無意識のプロセスと意識のプロセスにまたがる統合された「人格」が形成されない。 その脳内の神経細胞の活動によって生み出される私たちの「心」の中に、さまざまなクオリアが生まれる。また、無限といってよいほどの観念が存在する。 脳の生み出す心の、そのような有り様を観察すれば、単連結になったがゆえに、むしろ多様性が育まれる、そんなメカ

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/06/14
    迷った時「それは多様性を増すか」が一つの選択指標となる。鳥瞰高度を変えることでも多様性は現われたり消えたりする
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「ガラパゴス化」を通して地球規模で連帯すること

    自分たちのやっていることが、その地域だけでしか通用しない「ガラパゴス化」の問題は、置かれた文脈に(過剰に)適応する日人において、特に顕著に見られることかもしれない。日が地理的に孤立していることや、自分たちだけでも何とか回していけるだけの「市場規模」を持っていることは、日の「ガラパゴス化」の劇症化に寄与していることだろう。 一方で、インターネットに象徴される相互依存関係の緊密化に伴い、イノベーションや競争のダイナミクスが世界規模で「単連結化」され、その中でさまざまなデファクト・スタンダードが錬成され、リンガ・フランカとしての英語の力が強まる現在において、「ガラパゴス化」を強いられているのは日だけの現象ではない。 たとえば、ドイツの人たちと話していると、組織や肩書きにこだわる傾向が、日人とは別の意味で見られる。フランス人には、「グランゼコール」など、ある定められた「エリート・コース」

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/06/02
    鳥瞰高度を高めることで、「特殊性」という普遍性を見出す。本質を求めるならたどり着ける
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 直接性の原理

    最近、日の地方を旅していて思うことは、「ここもまた、文明の中心であるはずだ」ということである。 都会と田舎、という時の見方が変わった。インターネットが登場することによって、日のどこにいても、世界の文明の坩堝(crucible)の中に、身を投げ込むことが可能となった。 そのことに気付くということが、新時代に輝く上ではどうしても必要なことだと思う。 ハーバードのサンデル教授の「正義」に関する講義を、ネットで簡単に見ることができる。 http://www.justiceharvard.org/ インターネットの登場前だったら、ボストンに旅行して教室に潜るか、苦労して録画したビデオを手に入れなければならなかったろう。 しかし今は、直接つながることができる。そのことの重大な意味に、少しずつ多くの人が気付いていくだろう。 直接性(immediacy)が支配するということは、言い方を変えれば、媒介物

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 黒いTシャツは、暗闇に似ている

    私は、この数年、黒いTシャツを着ていることが多い。 リンゴ、アルベルト・アインシュタイン、バラック・オバマ、楽劇『トリスタンとイゾルデ』の歌詞(O sink hernieder Nacht der Liebe!)、キリン、シマウマのペア。 絵柄はさまざまだが、とにかく色が黒いTシャツを着ていることが多い。 なぜ、黒いTシャツを着るのか。それには、深い理由がある。 一日の仕事の中で、さまざまな人に会う。そんな時、黒いTシャツを着て、その上にジャケットを羽織っていると、何となくフォーマルに見える。 黒いTシャツを着て、ジャケットのボタンを閉じる。胸のあたりに見える部分は、模様が描いていないことが多い。だから、ジャケットと合わせて、全体としてフォーマルに見えるのである。 インタビューや、会合など、少しフォーマルにした方がいいと思われる機会は、ランダムに訪れる。朝出る時に、いちいち「今日はフォーマ

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/05/27
    アインシュタインの石鹸のエピソードを思い出した
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 日本の大学のガラパゴス化

    最近、さまざまな大学では、「就職」への対応を売り物にしているのだという。大学三年の秋から就職活動が始まるという日の企業の「慣行」に合わせて、一年生の時からキャリア教育をするのだという。 このような風潮は、二重三重に間違っていて、最終的には日の国益を損すると私は考える。 日の大学が、日の企業の予備校化するということは、日の大学のガラパゴス化をますます加速化させる。現状でも、日の大学は、日で生まれ、日語を母国語とする学生しかほとんど志望しない「日でしか通用しない商品」となっている。日の企業への就職の予備校となることは、つまりは、日の大学が日の企業に就職することに興味がある人以外には、進学することを検討するに価しない存在になることを意味する。 日の大学で学ぶ学生たちにとっても、就職予備校化は長い目で見れば致命的な欠陥となりうる。なぜならば、大学で身につけるスキルが日

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/05/26
    なぜ勉強するのか、の本質と、グローバル化は通底していると思う
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「あそこを超えたらホームラン」と決めた、ブランコの姿を見きわめること。

    子どもの頃、草野球をするのが好きだった。王貞治選手の真似をして、一足打法をした。 ぼくたちのルールでは、ブランコを超えるとホームランだった。小学校5年生の夏、一番熱心に草野球をした。確か、ホームランは50を超えたんじゃないかと思う。 それで、バットを全力で振り切る喜びを覚えた。三振しようが何だろうが、とにかくバットを思い切り振る。空振りしようが何だろうが、全力で振り切ると、爽快だということを、子ども心に知った。 草野球が楽しかったのは、その世界が青天井だったからだろう。室内で、上にガラスの天井があると思っていたら、バットを全力で振り切ることなどできない。頬をなでる風も、ぼくを照らす太陽も、すべて、バットを振り切ることを応援してくれていた。 大人になっても、質は変わらない。バットを全力で振り切ること。何よりも、そのような行為が出来る、青天井の環境を求めること。 「あそこを超えたらホーム

  • 茂木健一郎 クオリア日記:  自分の身体性の有限を引き受ける覚悟さえあれば、確率は私たちを解放してくれる。

    たとえば、あなたが、ガンの告知を受け、「五年後生存している確率は、10%です」と言われたとしよう。 科学的に扱うことのできる「統計的真理」としては、それ以上のデータは得られないかもしれない。量子力学の「ダブル・スリット」の実験において、電子が二つのスリットのうちどちらを通過するか、確率的な記述が与えられることのすべてであるように、多くの場合、私たちは「統計的真理」以外の知識を得られない。 しかし、患者人にとっては、5年後に「10%生きていて、90%死んでいる」という状態はあり得ない。5年後には「生きている」か「死んでいる」かのどちらである。「10%生存している」というのは、たくさんの患者を集めてきた時の「アンサンブル」の性質に過ぎない。 統計的手法には致命的な限界があるが、一方で、生の行く末が「確率」で表されるということの中には、私たちを救済する側面もある。 早い話が、確率が100%でな

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/05/20
    「人間がある行動に投企するということの中には、必ず、確率を超えた意味合いがある」――行き先は保証されないが青い海へのパスポート
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 人間の根本的な感情の一つは、「恐怖」である。

    山下洋輔さんとお話していて、思った。人間の根的な感情の一つは、「恐怖」である。 生まれた赤ん坊は、おぎゃあおぎゃあと泣く。初めての肺呼吸。しかし、その根底にあるのは、わけのわからない世界に産み落とされてしまったという「恐怖」でもあるのではないか。 山下さんは、素晴らしい演奏をする。満場の聴衆の前で、ピアノの鍵盤を叩き、音を奏でる。しかし、そのパフォーマンスの背後には、やはり恐怖の感情があるのではないか、と伺ったら、「そうかもしれない」と山下さんは答えた。 アメリカ人にとって、最悪の社会的状況は、聴衆の前で喋ることだそうである。学会発表での最大の恐怖は、自分がバカだと思われてしまうことである。あるいは、バカだとばれることである。 恐怖は、ネガティヴな感情のようだが、実は、それは至上のパフォーマンスを引き出す上ではどうしても必要なことなのではないか。人前で自分をさらけ出すことに恐怖も何も感じ

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/05/18
    “不安”との関係が気になる。対象の明確でない恐怖の一種? 多様性戦略の障害であるし動機でもある、か
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 自らの選択によるシーラカンスも、静かな海で安泰としているわけにはいかなくなって来た

    人生には、偶有性が避けられないと言うと、「でも、静かに、一つの世界で生きるというやり方もあるのではないでしょうか」とおっしゃる方がいる。 それはそうである。生物の生きる戦略は、さまざま。たとえば、シーラカンスのように、何億年も前から同じような生態学的ニッチを占めてきたと思われる魚もいる。すべての生きものが、偶有性に向き合い、ダイナミックに変化しながら生きなければならないわけではない。 (正確に言えば、シーラカンスの生活の中にも、思わぬ出来事という意味での偶有性は存在するはずなのであるが。) ところが、残念なことに、世界が「グローバル化」するに従って、私たちの生活には必然的に偶有性が伴うようになってきた。いくら、どこか小さな村でかつての老子の理想のように生活したいと思っても、なかなかそうはいかない状況になってきたのである。 たとえば、直近では、ギリシャの財政危機に端を発した金融不安。ギリシャ

  • 茂木健一郎 クオリア日記: アメリカの大学の入試制度について

    このところ、アメリカの大学の入試制度について、いろいろ面白いことというか、知らなかったことを知るに至った。 TEDx TokyoをオーガナイズしているPartick Newellから聞いた話は、Harvard大学の入試について。 東京に住むパトリックの友人は、日の高校生の志願者をいろいろとインタビューし、ハーバードに合格させる権限を持っているのだという。 その彼が、残念ながら日の高校生にはハーバードが求めるような(英語で)自分の考えを述べて、議論できるような人がいなくて、ごく少数しか合格させられないのだと嘆いているのだという。 そして昨日。TEDx Tokyoの会場で、Azby Brownに会った。金沢工業大学で、田森佳秀の同僚だという。 AzbyはYale大学の卒業生で、Azbyもまた、日の志願者をインタビューし、Yaleにレポートを送って合格させる仕事をしている。 そのAzbyが

  • 茂木健一郎 クオリア日記: イギリス新首相誕生と、「お茶の間の真ん中にあるべきもの」

    ラーメン二郎を「完」して、その結果、思考能力を奪われたせいか、夜、めずらしく早く眠ってしまった。 (ラーメン二郎の顛末については、私のツイッターアカウントを参照ください) http://twitter.com/kenichiromogi 午前3時過ぎに目が覚めた。ラップトップで、BBCのネットにつなぐと、イギリスの政局について、生放送を見ることができた。 ちょうど、保守党と自由民主党の連立協議が大詰めに差し掛かり、劇的な変化が起きるところを、BBCの報道特別番組が時々刻々と報じている。 ゴードン・ブラウンがダウニング街10番の前に出てきて「辞任」を表明し、そのままジャガーに乗ってバッキンガム宮殿に行く。 エリザベス女王に辞任を申し出、対抗政党の保守党の党首に組閣を要請するのが適切であると助言する。 ゴードン・ブラウンは、バッキンガム宮殿を出た後、労働党部に向かい、スタッフたちに感謝の言

  • 茂木健一郎 クオリア日記: もぐら叩きの立場は案外気楽だが、一つひとつの穴から首を出すもぐらは、大変だ。

    人間というものは、一度には一カ所にしかいることはできない。 もぐら叩きの立場は案外気楽だが、一つひとつの穴から首を出すもぐらは、大変だ。 人間として生きる上で一番大切なことは、自分の身体、存在の有限性を認識し、それを引き受けることだろう。 このところの、日の新聞の普天間基地をめぐる報道を見ていると、そんなことを思わずにはいられない。 鳩山由紀夫さんのこの件をめぐる発言や政策決定が、ベストなものだったとは思わない。 しかし、批判をするだけの新聞各紙が、日の社会のためによいことをしてきたとも思わない。 ある案が出てきた時に、影響を受ける地元の方々が反対を表明することは、当然のことである。 どのような案を出しても、必ず誰かが影響を受け、負担を強いられる。普天間基地の移転はそのような性質の問題である。 このような問題について、対案を出さずに、ただ批判するだけの新聞には、共感することはできない。

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 脳のトリセツ 鳩山首相と女子高生

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 偶有性の海に飛び込め!

    池上高志と意見が一致していることは、後に大成するやつは、若い時に生意気だということである。 向こう見ず。授業や講演会の時には、真っ先に手を上げ、立ち上がって質問する。そういうやつだからといって、後に輝くとは限らない。しかし、スタートラインに立たなければ、どうしょうもない。 所眞理雄さんのお誘いを受けて、慶應大学の矢上キャンパスで授業をした。日吉から、谷を越えて、えっちらほっちら行った。 教室に入ったら、皆の目が輝いていた。そうして、ぼくは授業をした。一生懸命に話した。 そうして、たくさんの学生たちが、立ち上がって質問してくれた。いきいきと、活発な議論が起こった。 ぼくは悟った。ぼくは、もっともっと、こういうやつらのために頑張らなければならない。一緒に努力を続けなければならない。 「ぼくは、これから、日がなぜ「終わって」しまっているのか、脳科学の立場から説明したいと思います。新卒一括採用、

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/04/30
    「もっともっと、こういうやつらのために頑張らなければならない。一緒に努力を続けなければならない」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 日本の新聞

    近頃の学生は、新聞をとらなくなったという。 確かに、私の周囲でも、新聞の宅配をとっていないという学生が多い。 インターネットで十分だという人もいる。しかし、私は、新聞の将来を必ずしも悲観していない。 ネット上のニュースにおいては、クリック数を稼ごうと好奇心をそそる見出しをつけることも多い。その際のクリック数と、ニュース来の意義の重さは必ずしも一致しない。 新聞においては、一面のトップに何を持ってくるか、社会面をどのようにレイアウトするかといった紙面つくり自体に「情報」がある。ニュース・ヴァリューに関するこのような情報性は、ネット上のニュースサイトではなかなか得られない。 一方、日の新聞の現状に問題がないかと言えば、うそになる。 以前から不思議だと思っているのは、記事を書くのが事実上「社員」の「記者」に限られていることである。だからこそ、記事に「署名」がなくても用が足りると考える。しかし

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 戦争に比べれば

    いよいよ日に帰れそうだ、ということになった時に、「いや、まだ油断はできない」「まだ早いぞ」と思いながらも、この数日の出来事を振り返っていた。 二つのことが思い浮かぶ。一つは、偶有性である。このようになる、と思っていても、明示的ないしは暗示的に仮定されている前提が崩れて、計画を練り直さなければならない。その度に、違った角度からものを見なければならない。瞬発的に判断し、行動しながら考えなければならない。 つまり、偶有性というものは、客観的な性質ではなく、認識において、あるいは行動において能動的に獲得され、経験されるものである。理論的には以前から考えていたことが、この数日間で身にしみた。 ここ数日は、すなわち、行動における偶有性のレッスンだったような気がする。 もう一つは、「文脈の強制」である。 もう開き直って、楽しんだら、と言うひともいた。確かに、そのような考え方もあったろう。しかし、火山の

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/04/22
    「強制された文脈」
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ミュンヘンの自画像

    アイスランド火山噴火の影響により、依然としてミュンヘンに足止め中。 思えば、ポーランドの旧都クラクフで朝ご飯をとり、部屋に戻ってきてミュンヘンへの飛行機のキャンセルを知って以来、ずっと対応策に走り回ってきた日々だった。 火曜日のローマへの列車の足を確保し、ミュンヘンからのルフトハンザがその時まで飛ばなかった場合の対応策もできた。 それで、少しはほっとしようと、旧市街のバイエルン州立歌劇場の横にあるレジデンツを訪れた。 フラッシュを焚かなければ、撮影可。 ふと思いついて、いろいろな場所にある鏡に自分を映して遊んだ。 それでも、疲労が溜まっていたのであろう。夜は、「堕落」して、日料理店に行ってしまった。 握りのセット、枝豆、味噌汁、キムチ、それに日酒。 店を出て歩く。ミュンヘンの街に、ほんの少し血気が差したように見えた。

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/04/19
    いざというときにどう楽しむか、のサンプル(その2)
  • 茂木健一郎 クオリア日記: さようなら、チェコおじさん。

    思えば、すべては午前2時30分に目が覚めてしまった、その時に始まった。 ウェブを立ち上げてニュースを見ると、アイスランドの火山Eyjafjallajokullの噴火でイギリスなどヨーロッパ北方のフライトが影響を受けているという。 幸い、私が乗る予定のポーランドのクラクフからミュンヘン、ミュンヘンから東京のフライトは予定通りとある。 安心して、また眠った。 再び目が覚めて、すぐに急ぎの仕事をした。終わらせて送らないと、原稿が「落ちて」しまう。 お腹が空いていたが、必死になって書き上げた。 ほっとして、ホテルのレストランで朝をとる。 部屋に帰ってきてウェブを立ち上げる。「念のため」と思い、クラクフ空港のサイトを見る。 Cancelled 画面から文字が飛び込んできた。乗る予定だったミュンヘンへのフライトがキャンセルになっている。一方、ミュンヘンから成田のルフトハンザのフライトは飛ぶと表示され

    kikai-taro
    kikai-taro 2010/04/19
    いざというときにどうなるか、というサンプル