こんな書込みを読んだ。 無農薬栽培の不幸|農家こうめのワイン 確かにスーパーなどに行くと、無農薬野菜とか有機栽培とかという言葉がやたら目につく。以前もちょっとネタにしたのだが、植物は化学物質を生産して身を守るらしい。(スチュワーデスが見える席 - 記者のつぶやき:ITpro 参照) そういう目で植物を見ると、普段口にしている野菜・果物などは、品種改良によって(有害な)化学物質を少なくしたものと考えていいのかもしれない。となれば、虫や病気などに弱くなるのはやむを得ないことのように思えてくる。自分で身を守れないのであれば、誰かが守らなければやられてしまう。例えるなら、野菜とか果物はセキュリティソフトが必須のWindowsみたいなもので、誰かの力を借りないととんでもないことになるのだろう。 自然の物は安全というのは単なる思い込みに過ぎない。代表的な例が毒キノコで、これはいろんなサイトでも書かれて
このサイトは基本毎日更新だ。毎日更新といっても、以前書いたように、1日1エントリを書き上げているのではなく気分によって書き溜めしたりストックを吐き出したりしているだけなので、厳密には「毎日1エントリ公開」ということになる。 毎日更新と決めたのはサイトを立ち上げてすぐだったような気がする。最初は「何日続くかな?」というような軽い気持ちで更新していたのだが、しばらく続けていると更新を途切れさすのがもったいなくなってきた。半ば義務化してしまうまで、そんなに時間はかからなかった。 毎日更新の対外的なメリットはいろいろなところで書かれているから、特に俺があれこれ書くまでもないだろう。だからここでは、毎日更新にすることで「内面的にもたらされること」について書いてみよう。 1、自分の調子を知ることができる 繰り返すが、このサイトのエントリは毎日書いている物ではない。しかし、毎日1つのエントリを公開するた
Linuxからアホ話まで、何でもありでござる 2009年12月14日 既存商品を値引販売するのはよく考えてから [うんちくん] 今だにコンビニ弁当を値引き販売すればどうなるかというエントリにコンスタントにアクセスがあるので、ちょっと調子にのって値引販売について書いてみる。 今はデフレでどこもかしこも安売りばかりだが、一番目につくには50%割引とかという単純な値引販売だ。この値引販売については、以前にもいくつか書いたことがある。 商品価値は値段で決まる 安売りはだめだっていっただろ 「100円マック」でも儲かるなんてレアケース これだけでは、なぜ値引販売はよく考えて行わないと大損するのかわからない人も多いだろう。 俺も以前経営者から「売上確保のために安売りしたらどうか」と言われたことがある。その安売り方法が安直な割引販売だったので、これはまずいと思い「参考までに」と経営者に提出したのがこれに
先日、心の友が「ブロクとかで『長文なのでスルー推奨』とか書いている奴がいるけど、あれってなんなの?」と言ってきた。「読ませたくないなら書かなきゃいいし、長文が申し訳ないなら短くまとめりゃいいじゃん。」と言うのだ。 誰でも見れるブログに書くことは、その時点で誰かに読まれることを承認していることだよな。というか、もっとはっきり言えば読んでほしいから書くんだろ? 読まれたいクセにスルー推奨なんて矛盾しているよな。 長文を読んでもらうのが心苦しいのであれば、短くまとめればいい。まとめられないのであれば数回に分けて書けばいい。誰にでも読めるところに書いたクセに「読まないで」は無いだろう。おかしすぎる。「嫌よ嫌よも好きのうち」じゃないんだからさ。 こういうこと言う奴は、本当は見てもらいたくて仕方ないんだよな。こんないい事書いてるんだよ見て見てと言いたいんだよ。だけど、書いてみたら長くなっちゃったし自分
Linuxからアホ話まで、何でもありでござる 2009年11月26日 俺はアンタのやったことを一生忘れない [Man of Kind] 先日、はてなのほってんとりで何かを読んで思い出したので書いておく。ちなみに読んだエントリはtwitterのつぶやきだったのだが、内容はまったく覚えていないのが素敵。記憶力が確実に落ちてきていて泣ける。 あれは中学1年か2年のころだったと思う。その時は運動会の全体練習で、全校生徒が校庭に体育座り(俺の地方では「あんざ」と言った)をさせられていた。 その頃の学校は「体罰」なんて言葉はなく、校内暴力さえなかった時代だ。教師は絶対権力者であり、教師が生徒を殴るなど日常茶飯事、それも平手ではなくグーで思い切り殴られることさえあったのだ。出席簿や数学の定規、定番の竹刀など、道具を使って叩かれることも珍しくなかった。 俺たちは体育座りをして教師の指示を待っていたのだが、
Linuxからアホ話まで、何でもありでござる 2009年11月22日 「褒めて伸ばす」は本当に有効なのか [これでいいのか] 先日「がんばることを賞賛する危うさ」というエントリをあげたが、元来が天邪鬼な俺は「褒めて伸ばす」というのもかねてから非常に疑問に思っている。 どんな事に対して褒められるかにもよるのだが、競争という要素を多く含んだものの場合、結果を褒められても意外にうれしくない。スポーツなどはその最たるもので、勝ったときは褒められるより一緒になって喜んでもらったほうがうれしいし、負けて悔しいのに「よくやった」と言いわれてもなんだかなーである。 成果とか結果が求められるものの場合は出来ることが最低限のハードルなので、変に褒められると「俺ってこの程度に見られていたんだ」となりかねない。結果だけを見ての言及は単なる成績発表と同じだ。成績発表などは変なコメントはつけずに結果だけの発表で十分な
最近「頑張ってください」という有難いコメントを二回もいただき恐縮至極である。であるが、実際のところ、俺は頑張っているという意識はほとんどない。だから「頑張ってください」と言われてもピンとこないのが本音だ。それで照れ隠しにjojoの名台詞「オー! ノーッ おれの嫌いな言葉は一番が「努力」で二番目が「ガンバル」なんだぜーッ」と書いてみたりしている。 実際、俺は「一生懸命」とか「努力」とか「頑張る」という言葉はあまり好きではない。その言葉に「嫌いな事に無理をして取り組む」というニュアンスが感じ取れるからだ。しかし、世の中には好きなものに熱中している姿をみて「頑張っているね」という人があまりにも多い。 好きなことをやっているときには、時間がたつのを忘れることがよくある。寝食を忘れて熱中するときさえある。それほど集中しているのだ。「好きこそものの上手なれ」という言葉のとおり、好きなものの上達が早いの
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