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ブックマーク / han.org (13)

  • 橋下発言にみるVictim blaming - Whoso is not expressly included

    差別研究には「victim blaming」(犠牲者非難)という有名な概念があります。ウィリアム・ライアンという心理学者が1971年に提起した言葉で、差別や犯罪などのつらい被害をこうむった人に対して、「あなたに(も)落ち度があったからだ」と非難する行為を指します。 日語ではvictim blamingをきちんと説明した文献がたいへん少ないので、あまり知られていませんが、池田光穂さんが「医療人類学辞典」の中で簡単に説明してくれていますので、まずは参照してください(→犠牲者非難)。差別や犯罪の被害にとどまらず、病気や事故などとても広範なつらい体験に対して観察される現象だということが理解できると思います。 もちろん、先頭車両に乗っていて衝突事故で怪我をした人に向かって、「一番前なんかに乗るからだ」と責める行為にいっさいの合理性はありません。原因不明の病気に罹った人に対して、「日ごろの行いが悪か

  • 「いのちを、守りたい(ただし朝鮮人は除く)」 - Whoso is not expressly included

    1月末、鳩山総理大臣の施政方針演説は、「いのちを、守りたい」という印象的なフレーズが多用されたことに注目が集まりました。その一部を引用します。 いのちを、守りたい。 いのちを守りたいと、願うのです。 生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。 若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。 (中略) 差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らしを、国際社会の責任として、すべての子どもたちに保障していかなければなりません。 演出過多を斜に構えて批評する向きもありましたが、演説内容そのものは高邁な理念の表明だと感じた人も少なくはなかったでしょう。しかし、今、この演説が壮大なハッタリにすぎなかった

    koisuru_otouto
    koisuru_otouto 2010/03/13
    もし高等教育の無償化から日本語教育だけが除外されていたり、英語教育(当然英語圏の高等教育以上のレベルのみ)だけに限られていたらどう思うか
  • 朝鮮学校除外は明白な「児童の権利に関する条約」違反 - Whoso is not expressly included

    まず、日政府が1994年に批准した「児童の権利に関する条約」から、2つの条文を紹介します。 第2条 1 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。 第29条 1 締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。 (a) 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。 (b) 人権及び基的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。 (c) 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。 (d) すべての人

    koisuru_otouto
    koisuru_otouto 2010/03/13
    日本民族の民族教育。
  • 橋下府知事の発言をめぐる諸問題 - Whoso is not expressly included

    このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しないわけにはいきません。あまりにもネガティブな感情が強すぎて、これまでどうしても冷静に論じることができませんでしたが、そろそろ執筆する準備ができたように思います。 何の話かといえば、高校教育の実質無償化政策から朝鮮学校を除外する案について、大阪府の橋下徹知事のレイシスト発言っぷりが際立っています。今回のエントリーでは、彼の発言の何が「問題」なのか、下記のテーマに沿って論じていきます。 他のどこでもない大阪府の知事であることにより発生する歴史問題 法律家でありながら超法的政治手法を利用するポピュリズム問題 以上を報道しない日マスメディアのレイシズム問題 1. 大阪歴史問題 この問題については、すでに優れたエントリーが書かれています。日朝国交「正常化」と植民地支配責任というブログの最新記事、橋下府知事を朝鮮学校に入

  • 差別をめぐる2種類の過誤 - Whoso is not expressly included

    「差別は客観的に定義できるか」から「差別問題の構築事例」まで、4回連続で差別の定義をめぐる議論を紹介してきました。 現時点では、「われわれカテゴリーの恣意的な動員」に注目する佐藤裕さんの定義と、坂佳鶴恵さんを筆頭とする社会的構築主義的な定義に、いろいろと有利な点が多いといえます。前者は差別する側の視点から差別を捉えることに成功していますし、後者は差別問題が生成されるダイナミズムをうまく記述することができる。しかし、それぞれ一長一短がありますので、決定版といえるような定義はまだ存在しない、と表現することもできます。 それは、言い換えると、何が差別で、何が差別でないのか、という問に答えることは、けっして簡単なことではない、ということです。今回は、それを前提として、議論をひとつ提起しておきます。 タイトルは、第1種の過誤と第2種の過誤です。 推測統計学の世界には「第1種の過誤」と「第2種の過誤

  • 差別問題の構築事例 - Whoso is not expressly included

    前回のエントリー「差別と政治、差別の政治」は、社会的構築主義のスタンスから差別を定義したらどうなるか、というテーマでした。 具体的にいえば、現在はまだ「差別」だとみなされていない事象でも、クレイム申し立ての運動によって「差別だという共通理解」を広げられれば「差別問題」を構築できる、という話です。あるいは、現在はまだ「道徳」の課題だとみなされている差別問題も、運動の方向次第では「犯罪」として法的処罰の対象に加えられる可能性がある、という話です。ですから、差別問題に実践的に関わっておられる方々からすれば勇気の出る説明様式だろうと思います。 また、学術的にも、「不当性」の難問から逃れられることが理論面での大きな強みといえます。僕自身の学術的なスタンスとはイマイチ相性が悪いのですが、それでも、特に社会問題の発生を説明するときは、社会的構築主義の有効性を認めないわけにはいきません。構築主義的なアプロ

  • 差別と政治、差別の政治 - Whoso is not expressly included

    前回のエントリーでは、実践面からいえば、どういう行為が「不当」なのかについての議論を国会と裁判所に丸投げしてしまうのも一つの合理的な解決策だと紹介しました。合理的というより、それ以外に方法がないといいますか。 しかし、実をいうと、「机上の空論とはこのことか!」と謗られてもしかたがない暴論だと、ぼくは思っています。佐藤さんの議論は、学術的には美しいんだけど、いつも実践面が弱いんだよなぁ。 だって、人権侵害の被害を回復したり、被害の発生をなくしたりするのが実践的な目標ですよね。人権侵害かどうかの判断を国会や裁判所に丸投げしたうえで、その目標が実現されるためには、国会や裁判所が人権侵害をしないという前提がなければなりません。でも、ぼくの知るかぎり、国会も裁判所も、少なくともぼくの判断では、たくさん人権侵害を重ねてきましたからね。とてもそんな信用はできないわけです。差別と政治というのは、どうもウマ

  • ではどうすれば差別を客観的に定義できるのか - Whoso is not expressly included

    不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。 前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。 「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」 つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。 この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当

  • 差別は客観的に定義できるか - Whoso is not expressly included

    ある学問分野において、もっとも基的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いいですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重なでもあります。 このの中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです

  • 偏見と差別の関係 - Whoso is not expressly included

    差別についての研究には、ずいぶん多様なアプローチがあります。学問分野は心理学、社会学、経済学政治学、等々と多岐にわたっているし、手法もミクロなものからマクロなものまで様々です。 その中で、直感的にわかりやすいためでしょうか、(一昔前の)心理学分野の研究は一般にもよく知られているように思われます。偏見理論、社会的比較の理論、権威主義的態度、あたりです。とりわけ、偏見理論は差別についての通俗的解釈ともよく合致するため、道徳教育の一環として行われる人権教育においても頻繁に言及されています。 ここでいう偏見理論とは、「偏見」という心理的な準備状態があるから「差別」という行為が発生する、という前提を含む研究群の総称です。一般には、「差別意識が差別を生む」という表現のほうがなじんでいるかもしれません。「差別は心の問題である」というとき、偏見理論が想定されていることが多いように思います。 でも、当の心

  • 差別論を学ぶ心構え - Whoso is not expressly included

    これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと 3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。 1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず

  • 差別の存在を認めない傾向とは - Whoso is not expressly included

    なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業

    koisuru_otouto
    koisuru_otouto 2010/02/17
    自分は高い教育を受けてる訳じゃないので(頭悪いし)、自分の理解が及ばない 高度な議論が進んでいることに対する疎外感は覚える/差別論で検索して見つけたhttp://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000114.htmlとも関連する話なのかな
  • 差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある - Whoso is not expressly included

    昨日紹介した講演は、記憶の中では結構上手にこなしたことになっていたのですが、テープ起こしを読んでみると何を言っているのかわからない箇所がたくさんあります。もう少し上手にしゃべれるといいんですけどね。 わかりにくかったからというわけではありませんが、今日も同じテーマを違う角度で書いておきます。 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」 なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも

    koisuru_otouto
    koisuru_otouto 2010/02/14
    「朝鮮学校の生徒を仲間として応援したい(日本)人なんていない。だから朝鮮学校は地域代表と認められるべきではない」という圧力が下敷きにある前提が共有されているかどうか、という問題
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