著作権実際に法が整備されて運用されてみないとわからない。後述するが著作権法の非親告罪化には竹熊氏とは別の根拠から反対だ。 ここまでの流れ(今北産業用)竹熊健太郎氏が自身のブログに『【著作権】とんでもない法案が審議されている』というエントリを掲載。それが「非親告罪」ということになると、警察・司法が独自の判断で著作権侵害とみなした行為者を逮捕することができることになり、商業的な出版・放送・上演・演奏のみならず、コミケの二次創作・パロディ同人誌などにも深刻なダメージが加わる可能性があります。なんて書いたものだから多数のウエブログが一斉にエントリを書いた。以下、反応別に分類。読んだ印象で判断しているので「違うよ」という意見があるかもしれない。ちなみに貼ってあるのは何らかの意見が書かれているor2ちゃんねるコピペブログではないと判断したエントリのみ。あと、途中で飽きたので全部じゃないですww 1.「
はてなポイントと一緒に気遣いのメッセージをいただいたので(ありがとうございます)とりあえず近況を書いておくと、現在、このブログをはじめ、はてなブックマークや他ブログでのコメントなど、公開の場での発言・発信は一切停止しております。ここしばらくブログを更新しながら、ときどきいただく批判コメントやトラックバック等を参考にあれこれ考えた結果、「別に私が発言する必要なんてないんじゃないか」という結論に達しました。私はもともと「伝えたい」とか「共有したい」という感覚があまりなくって、書きたいことがメモ的に書ければいいので(長文になるのはただの癖)。また、表面的には個別のエントリ内容への批判の形で、事実ではないことや勝手に思い込まれた意図を前提に、まったく関係ないところに政治的スタンスを持ち出されたり人間的な信用を貶められるような道徳的な批判を何度もなされることにうんざりしたというのもあります。私自身は
週刊東洋経済TKプラス〜「ナショナリズムという日本の厄介な問題」 フランシス・フクヤマ ジョンズ・ホプキンス大学教授ナショナリズムをめぐる、現在の日本の状況は、アメリカを困難な立場に立たせている。 多くのアメリカの戦略家は、日米安全保障条約を拡大し、NATOのような防壁を構築することにより、中国を包囲したいと考えている。事実、アメリカは、冷戦終結の数日前から日本に再軍備を促し、軍事力の保持と交戦を禁止している憲法第9条改正を正式に支持してきた。 だが、アメリカはより慎重になる必要がある。極東におけるアメリカ軍駐在の正当性は、日本の自衛機能をアメリカが代行することにある。日本が憲法9条の改正に踏み切れば、新しいナショナリズムが台頭している今の日本の状況から考えると、日本は実質的にアジア全体から孤立することになるだろう。 憲法9条の改正は、安倍首相の長年の課題の一つである。安倍首相が第9条改正
「いいな」と思ったので、まあちょっと乱暴な言い方ではあったけど「女だね〜」と言った。そうしたら。「髪の毛長くないと女じゃないの?」と噛みついてきた女性がいたわけで。知らんよそんなの。なんでこう誰かをいいなと思ってなんかかんか言ったときに、それを相対評価としてだからどうだと出てくるヤツがいるんだよ、って感じ。ふむふむふふふんふん - S嬢 はてなここ読んで、あーこれ私もやってたかもなと思った。そういうこと言っちゃうとこあるんだよな。よくないよな。誰にともなく謝りたくなった。なんかな、女性による「こういう女にはうんざり」「こういう女がいて嫌だった」的な事例って、「あー私」と反射的に思っちゃうのが多いんだよな。男性による「こういう女は」は、恋愛対象として、性的対象として、パートナー対象としてどうか、自分たち男をそういう対象としてどう選別し、扱ってるかってのが入りがちなので、最初からそこにいない私
英語の欧州域内における非汎用性について: 緊張続きの欧州路の旅で、ほっとするところといえば、英語が通じる都市・地域である。英国を除くと、私が訪ねた7ヶ国11都市の中では、オランダだけがどこの地域でも英語が通じた。「どこの地域でも」というのは、オランダ国内のどういう場所でも、どういう人間でも、私が接した限りでは「すべて」通じた(英語で用が足りた)ということだ。これはスペインのバルセロナでも、イタリアのミラノでも、ドイツのケルンでも事情はオランダのようにはいかなかったということをも同時に意味する。バルセロナでは、滞在ホテルが中心街に近かった。ホテルの規模は小さく建物のほとんどはアパートだった。ホテルはそこ2階部分を占領するだけの八部屋ほどのものだった。そのためかオーナー・ファミリー総出で運営していることがチェックインの時点で即座に了解できた。彼らは、私たちのために精力的に動いてくれたし、そのサ
日本人の多くが海外で生活すると、必ず気付くことがある。「居心地がいいなあ」という感覚だ。それを換言するとどうなるか。おそらく、「風通しがいい」であり、「誰からも邪魔されない」でもあり、さらに「誰からも何に対しても押し付けられない」という解放感とでもいうべきものである。かかる他からの「圧力の無さ」がどれほどわが身の自由を担保するものかは、体験してみるまでは実感を得るのは難しいかもしれないが、日本を離れて海外で暮らす人々に共通した感覚ではないだろうか。 この経験は、私にとって20代のアメリカが端緒であった。当時は、アメリカに滞在しているそのこと自体が開放感で胸一杯になり、幸福感に満たされたものである。それが40代となる豪州在住時には、現地の人々によるあまりの行動の自由度の高さに、周囲から何らかの示唆を得られるまで、ともすると忘れてしまいがちになるほどそれに伴う責任の重さを強烈に自覚させられる契
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真面目に復讐を考える「そういえば、今日もあかねに臨時スタッフとしていたんだけど、とある人と過去16年間を振り返ろうみたいな話をしていて、思い出したことがあるんだよね。思い出したことというのは、俺の大学時代の話でもあるんだけれども、俺はとあるサークルに所属していたんだよね。で、そのときのサークルの先輩というか、OBがやたら頭のおかしい人で、けっこういじめられていた記憶があるんだよね。そのとき、頭がおかしくなっちゃってね。二年生のとき、ずっと夜起きてコンビニ行って、そして引きこもるって生活をやっていたのね。で、一時期から電気代とかガス代とか払えなくなっちゃったりして、で、近くのスーパーにある100円均一でろうそくとか買い占めたりしていたわけよ。その理由というのを隠しても仕方ないんだけど、パチンコとかスロットにはまっていて、それが原因していたってのもある。ここでなんかへたなパチプロもどきみたいな
ろうどうたいへんここでよく話の出る早稲田の「あかね」という部分から話をしたほうがいいかもしれない。今日はイベントがあって、途中から大勢で押し寄せてきたひとには不愉快なことをさせてしまったかもしれない。それは申し訳ない。それはともかくとして、やはり、なんていうか、自分の正直な感覚としては、スタッフとして、イベントをやるというのはどうも疲れるという印象が強すぎるなあと思ったりもしたのでした。それは、イベントというものを客として眺めることと、スタッフとして眺めることの重要性みたいなところで行き来しなきゃいけないんだなあと思ったりもしたのだった。それが疲れるのは、別に人がたくさん料理を頼んで「キムチチャーハン作らなきゃー」とか、伝票のつけ忘れがあったりして「うわー」となることでもない。いや、それは結構重要なんだけどね。でも、それはあまり嫌いではない。問題は、スタッフ目線からやると、やっぱりなんだか
石原都政に批判的な人々に今求められているのは、繰り言を言うのではなく、なぜ石原氏が支持されたのか、ということと、なぜ反石原氏の声は届かなかったのか、ということの考察であり、さらに言えば、反石原を説いてきた自分の論理の再検討ではないか。自分の論理の根幹を変える必要は当然ない。しかし少なくとも今やそういう論理は少数派になりつつあり、少数派としてどう主張していくのか、ということを考えなければならないはずだ。反石原の論陣を張る者にとって今必要なのは石原都政の継続を選択した東京都民批判ではなく、むしろ石原都政を継続させた反石原陣営の総括である。東京都知事選の結果の感想 - 北条時輔ファンサイトとりあえず左派の人は、現実の「世間」に対して行動するなら、自分たちがもはやほとんどの人にとっては蛆虫以下の気持ちの悪い存在、もしくはカルト宗教団体以下の危険物でしかないということを自覚して行動したほうがいいかも
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