ポルトガルのカルタに次いで、オランダの対日貿易が始まると、そのカルタも日本に伝来している。オランダのカルタ文化はフランスのそれから濃厚に影響を受けており、フランス式のカルタ、つまりクラブ、スペード、ハート、ダイヤの四紋標、五十二枚で構成されるもの、あるいは、構成は同じだし紋標も同じだが、図像にオランダに独特の地方色を帯びたカルタが使われていた。これは、こん棒、剣、聖杯、金貨の四紋標、四十八枚構成のポルトガルのカルタとはまるで違うものである。 オランダのカルタの伝来を伝える文献史料は少なくない。たとえば、『雍州府志』は伝来の場所が長崎だとしているが、この港がポルトガル船に開かれたのは元亀二年(1571)であり、天正八年(1580)に長崎と茂木がイエズス会に寄進されて天正十六年(1588)に豊臣秀吉に没収されるまではポルトガルの支配下にあって南蛮文化の流入には好都合であったし、その後南蛮貿易の