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子猫殺しに関するmaki_laxのブックマーク (2)

  • 命の重さに定価はない : 404 Blog Not Found

    2006年08月24日19:50 カテゴリValue 2.0 命の重さに定価はない もしその人が当に他人の生命も同じ程度に貴重だと思い、かつそれを実行しているとしたら、その人が今まさにそこに生きているという事実そのものが詭弁だということにはならないだろうか? 志村建世のブログ: 加藤周一氏に見る生命観 自分の生命が貴重だという意識は、たいていの人が持っているでしょうが、他人の生命も同じ程度に貴重だという実感を持っている人は、どれくらいいるものでしょうか。「他人」ばかりではない。それが子だろうが、社会の周辺の人々だろうが、我々は常にどの命を奪い、どの命を救うかの「値踏み」を強いられる。 私には、来「市場価格」であるべき「命」を「他人の生命も同じ程度に貴重」というのは、「自分の生命も他人の生命も、たいして貴重ではないと思っている」のと、「値踏みを放棄」しているという点においては変わらぬ詭

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  • 「子猫殺し」への批判とその批判可能性 - 死に舞

    たまたま倫理や道徳のことを勉強をしていることもあってなんだが、話題になってることに口を挟みたい。特に自分が規範的意識が強いとかではないのだが、友人ともいえる人が自分の考えからあまりにも遠いところにいるのは道徳を訴える動機として駆り立てられるし、何よりもこんな中学生の作文みたいので何か言った気になってのが当にアホだと思うので突っ込みたくなる。 問題となってるのは8月18日付の「日経新聞」に掲載された「子殺し」と題された坂東眞砂子という作家の文章である。一時的なソースがないため、直接引用はしないが特に問題はないだろう。 この話は以下の2点で批判することが可能である。1は彼女自身に対する批判、2は1の批判が妥当なことである理由と、彼女への道徳的批判を妥当ではないと主張する人への批判だ。 現代の功利主義的道徳から言えば、の嬰児殺しはの避妊手術よりも悪である。 自らの非道徳性を認めることの道

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