村木君は同じ大学の同じサークルで一学年後輩だった。と言っても彼は浪人していたから年は同じだ。仲良くなったのは私が先に卒業、就職してからのことだ。 村木君は厭世的で論理的で、軽い大学生ノリが嫌いで、人とは一線を置いていつも人を観察していた。女の子を好きになったことがないから実験的に好きになれそうな子を意識して好きだと言ってたら本当に好きになりすぎて辛くなった、などと報告して来たりしてちょっと変わった人だと思った。彼は漫画と油絵を描いていて私はそれが好きだったし、媚びない愛想笑いもしない気風が好ましく思えた。 当時「電子メール」や「eメール」と呼ぶのが普通だったメールで、頻繁に長文のやりとりをするようになった。村木君は議論が好きだった。私が全く興味がない政治や歴史に関心があるようだったけど、私は恋愛の話ばかりしていた。私が「振り向いてくれない人が好き」と言ったら「アイドルでも好きになれば」と返
わたしが探求したい晩年の経験とは、不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らい続ける、ある種の意図的に非生産的な生産性である(28-29) [rakuten:book:12244124:detail] まだ一章を読んだだけなので本全体について何が言えるわけでもない状態で、文脈も何も滅茶苦茶な自由連想みたいな話で恐縮なのだけれども、この本に出てくる「晩年のスタイル」は、わたくしには圧倒的に「クィア」なものとして響く。それは、「クィア」の学術的な、あるいは政治的に有効な定義にかかわるのではなく、むしろ、わたくしにとってクィアという語が含み持つ感覚、あるいは誤解を恐れずに言えばわたくしにとってその語のいわば「原型」を形作った二人の人物に、かかわっている。 この章を読んだのがクィア学会立ち上げ大会直後だったこともあるのかもしれない。「晩年」についての記述を読みながら、雑務に追われる中でこころの片
フェミニズム今はもう平気で観れますけれど、あの連載が始まった時は、心の底から怒りが沸き上がって来ましたね。あんな風に勝手に私の名前を使われるなんて、思ってもいませんでしたから。武さんが自分の少年時代のことを漫画で描くつもりらしい、というのは聞いていましたけれど、ああいう形で私たちのあの時代が描かれるというのは、正直ショックでした。すぐにのび太さんとスネ夫さんに連絡を取ったのですが、のび太さんはただただ驚いているという様子で、スネ夫さんは連絡が取れない武さんに対して怒りを抑えられないという感じでした。それは私も同じ気持ちでしたので、その後も何度か武さんに連絡を試みましたが、一切つないではもらえませんでした。それから1年も経たないうちに、スネ夫さんが自殺したという連絡をもらって、本当にやりきれない思いで一杯になりました。その時わたしは既に独り身でしたので、子供もいませんし、同じマンションの住人
理系女子とかサバサバ女とかって、大抵寧ろ女っぽいよねー っちゅー話は結構よく出る。男でも、女でも。 その事に異論があるわけではないんだけど、ちょっと、なんつーか、違和感を感じるのは、 「てか私理系だからーとか、サバサバだからーとかいう女に限って、女の嫌な部分でまくりじゃんねw」 「サバサバとかどこがだよ、まるっきりおまえメスじゃんって女結構いてめんどくせーw」 とかいう言い方ね。 なんというんですかね、うまくいえないんですけど…… 「寧ろ、女っぽいよね」というのが、単なる事実指摘ではなく、貶し言葉になってるのが、気になるのですよ。 「女らしくないからっていってるけどそんなことないよ」という単なる指摘ならまだ分かる。しかし、世に溢れる「理系女子とかサバサバ女ってむしろ女っぽいよね」という視点は、そっちでなく、 「女らしくないからっていってるけど、お前全然メス臭だしてっからw勘違いすんなw」的
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