奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第37回】 「スケジュールの空白」に耐えられない僕の、最高の夏休み
先日のブログにも挙げたアスペルガー症候群の映画を見てきました。アスペルガーという障がいをもちながらの恋愛、仕事を絡めて描いています。 Adamは、おもちゃ会社に勤めるアスペルガーをもつ男性です。その彼が日々一生懸命自分の世界を周りに崩されながら、自分自身でも周りに、あわせようと必死になりながら生きています。 一番の理解者であるお父さんが亡くなったところから、物語が始まります。1人になった障がいの彼が、アメリカ流のレイオフ(仕事を首になる)になり、どのように先を見据えて生きてゆくのか?アスペルガー症候群が苦手な変化をどのように受け止めるのか? 相手の気持ちを読みにくい彼が、恋愛という彼女の気持ちを読むことをどうやってすすめてゆくのか? 盛りだくさんの内容ですが、話は静かにそして冷静に着々とすすんでゆきます。 自閉症を育てている私には、もう主人公のアダムの代わりに発言したくなります。 「だから
「また一緒に仕事をしようね」のコメントを拝見していて、 自分は「物事を文字通りに受け取ってしまう」ため 社交辞令と本音の区別がつけられないのだと分かった。 自分は社交辞令を本音と受け取ってしまい、 あとで気付いてボロボロになるという経験を繰り返してきた。 そのため、ボロボロになるまいとして、 全ての言葉を社交辞令と思い込もうとしているのではないか、と気付いた。 相手が本音で言ってくださった言葉も社交辞令と思い込むため 自信を持ってよいところでも自信をつけられない。 そのため自己評価が低くなる。 自己評価が低いため、ますます相手の言葉(特に誉め言葉)を 社交辞令としか受け取れなくなる。 悪循環が繰り返され、自己評価の低さが強化されていく。 社交辞令と本音の区別がつけられない問題は、根が深そうだ。
先月は定型発達者について考えることが多かった。 というわけで、年が明けてもしつこく定型発達者研究シリーズを続けてしまおう。 普通に会話しているつもりでも、訳のわからないうちに定型発達者の機嫌を損ねてしまったという経験のあるアスペルガー者は多いだろう。 そこには言語というものの根幹に関する理解の違いが関わってくる。 アスペルガー者は言語を事実や用事の単なる伝達手段として使っているが、定型発達者は言語を感情のやりとりに非常に多用しているのである。 さて、10日ほど前だっただろうか、息子から、とある質問をうけた。 ○○を断るときに定型発達者的にはどういう回答になる? というものだった。 飯を作っている最中にいきなり言われても急には出てこない。 当たり前だ、この辺は頭脳にデータベース化して普段、定型さん対応しているのだ。 で、家の中ではデータベースを起動していない! 急いで起動し頭の中を検索し答え
さて、前稿「大学時代の超アスペルガー的大失敗」を書いたのは、 「こういうケースにアスペルガーは極端に弱いのでは」 ということを書きたかったからだ。 世の中いろんな人間がいる。 この「教授」のような人間は少なからずいる。 まあ、体育会系って気もするが、そうでなくてもゴロゴロしている。 「そこをなんとか!」で済まない人間対応をどうするか。 別に私は往生際が良い方ではない。 アスペルガーも成長する。 だからこそ「そこをなんとか!」と各教科の教授まわりをしてお願いしまくっていたのが、これで何とかなるところまでは上手くいっていたわけだ。 だが、「そこを何とか!」でお願いするだけではダメな人がいる。 初っぱな「ダメだし」しておいて 「なぜもっと熱心にお願いしないんだ」 「なぜもっと熱心に説得しないんだ」というタイプ。 さすがにこのタイプに当たるとアスペルガー者は弱い気がする。 何らかのお願いをするとき
自閉症スペクトラム指数(Autism-Spectrum Quotient: AQ)自己診断 原論文の著者である、若林先生から、著作権違反であるとの御指摘を頂きましたので、テストプログラムの運用を停止します。 若林先生、申し訳ありませんでした。 また、これまで御利用頂きありがとうございました。
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