自身の正しさ、誠実さを証明することに命をかける生き様から“鎌倉武士の鑑”と称され、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも主要人物として描かれる畠山重忠。史実では北条時政の策謀により事切れた同氏だが、彼はどのように鎌倉幕府と関わった人物だったのか。 ここでは東京大学史料編纂所教授を務める本郷和人氏の著書『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文藝春秋)より一部を抜粋。畠山重忠の乱へとつながる歴史の流れをひもとく。(全2回の2回目/前編を読む) ◆◆◆ 義時、重忠討伐をためらう 「畠山重忠の乱」は、京都で起ったある事件から始まりました。 元久元(1204)年11月に、京都にある平賀朝雅の館で宴会が開かれました。その席で、平賀朝雅と畠山重忠の嫡男・重保が口論になりました。畠山重保も時政の孫にあたり、親類同士でした。内容は伝わっていないのでわかりませんが、些細なことだったのでしょう。鎌倉武士同士の喧嘩
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