会計は金融、ビジネスの根底にあり、軍隊を作ったり都市を建設したり、大規模なリソース管理したりといった活動を可能にする。実際、会計こそまさに世界が価値あるもののほとんどを追跡管理する手法だ。 会計はお金より昔からあり、もともと古代コミュニティが限られたリソースの追跡と管理に使っていた。7,000年以上も前のメソポタミアに会計記録があって、物々交換を記録している。時代とともに、会計は取引の言語となり、情報インフラとなった。会計と監査は、エジプトやローマのような大帝国の建設も可能にした。 会計が拡大するにつれて、羊だの穀物の山だの材木の束だのを数えるだけでなく、リソースの計算と管理にあたって、その交換価値を使いお金という抽象的な単位に基づいて計算するほうが、筋が通るようになった。交換だけでなく、お金は支払い義務の記録や管理も可能にした。だから初期の簿記は、個人同士の約束や取引を記録しただけだった
「もはや計画は不要になった」 「もはや計画は不要になった」 MITメディアラボ・伊藤穰一氏が語る、"インターネット後の世界"と"新しい原理" | ログミー[o_O] なんと刺激的なタイトルだろうか?多くの組織論がよりよい計画の作り方と、その計画の実行の方法に血眼になっているというのに! 多くの会社組織は計画の立案とその共有と実行を日々全力で取り組んでいる。 その計画の妥当性正確性をいかに上げていくのか?は大きな課題だし、その計画を指示して進捗を管理することはマネージメントの肝だ。 そして、その計画の正確かつ効果的効率的な運営こそがマネージャー評価のコアだ。 「良い計画」の作成と共有と実行と評価を極めていくことに異論を挟むのはとても困難だ。 その一方で、計画のための計画、計画の目的や価値が失われてもなお、当初の計画達成する為費やされている多大なコストと組織的情熱に得も言えぬ違和感を感じている
メディアラボに着任して最初に学んだ言葉のひとつに「antidisciplinary」(脱専門的)というものがある。新設の教員職の求人情報に、必要条件として記載されていたのだ。異なる専門の人々同士が連携することを「interdisciplinary」(学際的)と言うけれど、脱専門的なプロジェクトというのは、いくつかの専門分野の総和ではなく、真新しい何かを意味している。「脱専門性」という言葉自体、定義が難しい。僕自身は、従来の学界的な意味での専門分野の区分けに適合しない何か、もしくは誰か、すなわち独自の語句、フレームワークや手法をもつ研究分野、の意味に解釈している。研究者の多くは、論文審査(ピアレビュー)のある著名な専門誌への掲載回数でその実績をはかられる。論文審査は通常、ある人が属する専門分野の実力者たちが、その人の仕事をレビューして、重要かつ独創的であるかどうかを判断するというものだ。この
2年前のものなので古いですが、↓の動画をみまして、伊藤穣一氏が言っていることを何点かメモしました(発言そのままではなく要約です)。 IT業界のことはよく分かりませんが、日本人は個々には良い物をつくっているのに、全体としてしっかりとしたアーキテクチャを構築してスケーラブルな仕組みを作るのが苦手だとか、それをやるためにはけっこう(職人気質ではダメで)政治的な駆け引きも大事なんだとかいう話は、ITに限らずなんでも当てはまる話のような気がします。 政治の世界でもつねにルールメイキングで負けているというか。 伊藤氏は他のインタビューでも、日本はニコニコ動画とかをはじめとしてUGCのレベルが異常に高いのだが、スケーラブルなアーキテクチャを作ってそういう能力を世界に広めるようなことは全然できてない、みたいなことを言ってたような。 GDD 2011 Japan: VC パネル: 起業家精神、起業支援とベン
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