9月2日、外国人特派員協会で行われた「あいちトリエンナーレ2019」の記者会見でディスプレーされた「平和の少女像」(Rodrigo Reyes Marin/アフロ) ●(人格として主体をもつ)「アーティスト」との契約であるべきところを(法人格のない任意団体と思しい)「委員会」を<みなしアーティスト>として契約しているらしいこと。 ●その、アーティストの皮を被った「委員会」にはアーティストは一人もおらず、評論家や編集者、大学教授などの集まりであったこと ●評論家や大学教授の集まりとノンプロの芸術監督が「キュレーション」を行い、16人の作家=作品を選び、そのセットをアーティストが一人もいない「委員会」の<作品>であるとして発表した。 これがどれくらい作家や作品を冒涜するのみならず、「表現の主体」を欠くトンデモない出来事であるか、確認するところからお話してみましょう。 極めて「全体主義的」な契約
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