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ブックマーク / oda-makoto.hatenadiary.org (24)

  • 水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    悪い癖でもあるのですが、ベストセラーや話題となっているにはどうも指が動きません。『バカの壁』はついこの間読んだばかりですし、『生物と無生物のあいだ』や『悩む力』は買う気もまだ起こりません。養老孟司さんや姜尚中さんのは『バカの壁』や『悩む力』以前のはたいてい買っていたのですから、ベストセラーに対する偏見としかいいようがないのですが。みんなが買っているものを読むのがいやなのか、いろいろ書評やコメントが出ているともう読んだ気になるのか、やっかみなのか。ただ、いちおう自分なりの理屈はあります。 『バカの壁』(それなりに面白かったです)のように、話題にならなくなってから機会があれば読むこともありますし、それでもっと早く読めばよかったと後悔することもほとんどありません。ひとそれぞれにそのと出会ういい時期というかタイミングというものがあるわけで、そのときが来たら自然と読むべきものは読むことにな

    水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2009/10/10
    「貨幣や資本主義のように純粋に形式的な論理によっているものに抵抗するのであれば同じように純粋に形式的な論理によるのでなければ勝てない」に対しては「普遍性を獲得し勝てなくてもいいので特殊性を」って話かな
  • 西ケニアにおける「女子割礼」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 2009-09-26

    アフリカの女子割礼について話題になっているようです。私は、ケニア西南部とタンザニア西北部の国境をまたいだ地域に住んでいるクリアという民族について、西ケニア側で現地調査をしており、1990年代後半に、クリア社会の男子割礼と女子割礼の調査をしたことがあります。 その成果の一部は、科研費の成果報告書ならびに博士論文という形で発表していますが、一般に読まれる形での発表ではありませんでした。アフリカの女子割礼への関心がすこしでも上がっているときに、現地調査したことのある人類学者として、現地の声を紹介する義務があるだろうと思い、緊急エントリーをアップします。 民族誌的事実を紹介する前に、まず、アフリカの女子割礼を廃絶するために人道的介入をすべきだという人権派と、現地の声や当事者にとっての意味を知ることが大切だという、文化相対主義的な立場をとる人類学者との間のディスコミュニケーションについて、私の意見を

    西ケニアにおける「女子割礼」について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 2009-09-26
    morutan
    morutan 2009/10/10
    外部の権威的文脈を無理やりもってくる(あるいは同化する)ことによって生きられた経験にもとづく文脈が無視されそこから生まれるはずだった変化を阻害する可能性がある、と。名誉男性的な話にも応用できそうだな。
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「もてる」という基準と「かっこいい」という基準

    きのう研究室に若手の人類学者のTさんが訪ねてきて、「人類学の失われた10年」についての話を聞きたいという。でも、話は、最近の若い研究者は、自分が評価されるときや人を評価するときの基準というか軸として、「もてる/もてない」という基準=軸しか考えていないのではないかという話になった。「もてる/もてない」という基準は、「売れる/売れない」ということでもあり、市場原理の基準である。そのような基準一色になっているのは、何も若い研究者だけではないかもしれないが、市場原理主義の蔓延という時代的な要因と、若い頃のほうが「もてたい」「売れたい」という欲望が強いという世代という要因とで、若い研究者のほうが「もてる/もてない」という基準に染まりやすいということはあるかもしれない。 私も若いころには「もてたい」「売れたい」という欲望が人並み以上にあったと思う。しかし、それ以上に気にしていた評価の基準があった。それ

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「もてる」という基準と「かっこいい」という基準
    morutan
    morutan 2007/07/14
    『「もてる」「売れる」に越したことはないが、それよりも「かっこいい」ことのほうが大事だったと思う。』
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 「疎外論」の落とし穴について

    黄色い犬さん、養田さん、macbethさん、コメントありがとう。3人のコメント、とりわけmacbethさんのコメントを読んで、「感情労働とキレる客」以降の3回エントリの議論では、「疎外論」のもつ落とし穴について充分に留意をした書きかたになっていなかったかなと反省しました。 たとえば、アーリー・ホックシールドに倣って、19世紀のイングランドの工場労働者が彼自身の身体と肉体労働から疎外されていたのと同じように、20世紀のアメリカの客室乗務員は、彼女自身の感情と感情労働から疎外されていると書きました。しかし、それは、疎外される以前の「来の自分の感情」、「ほんものの私」が喪失されるということを非難するためではありません。疎外論の落とし穴というのは、そのような「喪失の語り」(ジェームズ・クリフォードの言い方を借りれば「消滅の語り」)になってしまうということです。私が強調したかったことは、むしろ、そ

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 「疎外論」の落とし穴について
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:セネット『人格の腐食』あるいはネオリベラリズムによる「経験の喪失」

    リチャード・セネットは、『それでも新資主義についていくか』(ダイヤモンド社、1999年、原著は1998年刊行のThe Corrosion of Character,つまり『人格の腐』というタイトルです)のなかで、新資主義(ネオリベラリズム時代のグローバル化した市場原理主義の資主義)の特徴を「ノー・ロングターム」(長期的展望はいらない)というモットーに見ています。セネットは、「ロングターム」という思考が必要とされた要因を市場がかつてなく消費者主導になっていて、消費者が変化を求めているために、企業が毎年同じことを同じ方法で繰り返すことが許されなくなっていることや、「せっかちな資」が素早い投資リターン(報酬)を求めていることに求めています。その変化に企業が適応するために、「ノー・ロングターム」をモットーとして雇用と組織をフレキシブル化しています。そうなると、働くほうも、今日のアメリカ

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:セネット『人格の腐食』あるいはネオリベラリズムによる「経験の喪失」
    morutan
    morutan 2007/06/10
    終身雇用から「キャリアアップ」なフレキシブルな労働へ移ることによってもたらされる指針の喪失について。勝ち組も負け組みもなく人格の指針がなくなる。その空隙にバックラッシュが忍び寄る
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「感情マネジメント」についての再論

    morutanさん、chinalocaさん、黄色い犬さん、コメントありがとう。このようにコメントをいただくとブログが続きますね。 さて、みなさん、前回のエントリには納得しかねるところがあるようです。とくに「キレる客」の部分についての疑問が多く出されていますが、この部分は講義の直前に『AERA』を読んで思いついたもので、私自身もちょっと疑問を感じてはいます。でも、ここは擁護してみましょうか。まず、いくつか出された疑問に答えておきましょう。 morutanさんは、「[店員にキレた客が]実生活ではそれほど感情労働しているようには思えないので。アエラの記事がいうように甘え的なところ(あるいはもっと別の何か)もあるのではないか、と思いました」と書かれています。消費社会において、「消費者がものすごい甘えを許される環境ができている」という「答え」は、間違いではありません。私も合格点ぎりぎりは出しました。

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「感情マネジメント」についての再論
    morutan
    morutan 2007/06/01
    ここでの「キレル」の定義としては、単に「怒る」とは違ってなんらかの抑制が切れるということみたい。そして感情管理の場合はその抑制も抑制と思っていないほどに自己規律が働いている、と。憧れの搾取によって
  • 感情労働」と「キレる」客

    久しぶりのブログへの執筆です。忙しくて、自分でネタを考えて書く暇がありませんでした。これまでけっこう書くことができたのは、書き込んでもらったコメントをネタにして書いたりしていたからですが、こちらが書かないとコメントももちろん書き込んでもらえず、コメントを書き込んでもらえないと書くネタがなく、という悪循環でご無沙汰したというわけです。 きょう沈黙を破って(?)書こうと思ったのは、ある偶然の一致のせいです。きょうの朝、電車の中の雑誌『AERA』のつり革広告で「『感情労働』時代の過酷――ひと相手の仕事に疲れ果てるとき」という記事の見出しが目に留まりました。ちょうど偶然にも、きょうの講義で「感情労働」の話をする予定だったので、参考になるかなと乗換駅の売店で早速買って電車の中でぱらぱら読んでみました。記事そのものは講義の参考にはあまりなりませんでしたが、まあ、その日の朝に読んだ雑誌を資料になるかなと

    感情労働」と「キレる」客
    morutan
    morutan 2007/05/30
    「スマイルはゼロ円ではないね」って話
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 中野麻美『労働ダンピング』を読む

    中野麻美『労働ダンピング:雇用の多様化の果てに』岩波書店(岩波新書)、2006年 Isbn:4004310385 労働問題を扱う弁護士でNPOの「派遣労働ネットワーク」の代表をしている中野麻美さんは、まず、それまで労働基準法で違法とされていたけれども、1986年に施行され1999年に改正された「労働者派遣法」によって可能となった労働者供給事業(人材派遣)の実態から書いています。それは、規制緩和による雇用の多様化・液状化を端的に示しているものとなっています。中野さんは、労働者派遣が導入されたときは、「契約位」に専門性を活かして働くことができるという「選択の自由」が謳い文句だったが、実際の派遣労働はそれとは無縁のものになっていると言います。施行当初は、労働法で安定した雇用と賃金の守られていた正規雇用が派遣労働者に置き換えられていくことにならないように、派遣の対象業務が専門性の確立した業務に限

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 中野麻美『労働ダンピング』を読む
    morutan
    morutan 2007/05/16
    「自己責任」的にいろいろなノルマを背負わされる労働者の実態。それは擬制が崩れたことによる犠牲。後段のポランニーの議論が興味深い。※欄の「少子化による反撃」というのも (cf.中国の一人っ子政策、夕張)
  • 正月に化粧について考える(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    「うー」さんと「黄色い犬」さんからコメントをもらったので、続きを書かなきゃと張り切ってはみたものの、「答えは次回に」ってもったいぶった割には、ちゃんとした答えではないので、かえって書きにくくなってしまった。でも、気を取り直して続きを。 さて、女性が化粧をしたり、スカートやハイヒールを履いたり、ダイエットしたり、補正下着をつけたり、美容整形をしたりするのは、「女性は自己実現のためにキレイを目指さなければならない」という「キレイ・イデオロギー」によるのだとしたら、そして、そのイデオロギーが、ジェンダー規範を強化し、女性を抑圧しているのだとしたら、そのことを暴いたラディカル・フェミニストの言説は、その後のフェミニストたちを含めた女性たちになぜ受け容れられなかったのだろうか。 そのことは、大きく言えば、ラディカル・フェミニズムの「個人的なことこそが政治的である」というテーゼが結局は受け容れられなか

    正月に化粧について考える(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/04/22
    「自己実現の為にイデオロギーを忌避しなさい!」なんてお説教がうざいって話。そんなん着るぐらいなら日常の「かわいい乙女ライフ」を楽しんだほうがいい。んで、この「日常」ってとこに生権力的なびみょーさがある
  • 正月に化粧について考える(1) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    この時期になると、女性の化粧について考えさせられることがある。年末年始に女性の化粧が目立つから、というわけではなく、化粧をテーマに卒業論文を書く学生がだいたい2年に1人はいるから。 ということで、今年もまた女性の化粧について考える機会をもらった。女性の化粧について卒論を書く学生(たいてい女子学生だが)は、「どうして女性だけが化粧をするのか」という「問い」を設定したがる。女性だけが化粧をするようになったのは歴史的なことであり、男性が化粧をする文化は少なくなかったことを知ると、その「問い」は、「近代になってどうして女性だけが化粧をするようになったのか」というように変わる。こういった「問い」には、結局は1970〜80年代にフェミニズムが提示したような、「美の鎖」とか「美しさのイデオロギー」によって男性が女性を支配しているからという「答え」しか出てこない(たまに「女性のほうがきれいだから」といった

    正月に化粧について考える(1) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/04/22
    テロリストに親和性を持ってしまう被害者のように、女性は「キレイイデオロギー」を信奉していく、か・・。ちょっとびみょーかな
  • オリエンタリズムと対話的自己について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    黄色い犬さん、養田さんコメントありがとう。 前回の4月18日のエントリは、たしかに、人を怒らせてしまうだけの言い方になっていたかもしれませんね。その辺りは反省したいと思います(なかなか直りませんが)。来ならば、内藤朝雄さんのブログで直接に表現の非礼さを謝るべきなのかもしれませんが、ちょっと覗いたら私の書いたこととはもう関係なく展開されているみたいなので、内藤さんはこっちのブログをもう読んでくれないかもしれないけど、ここで非礼を謝ります。 黄色い犬さんのいうように、「オリエンタリズムがわかってるかわかってないかなんてことじゃなかった」のですが、分かりやすくと思ってサイードに由来する「オリエンタリズム」という語を使ったことで、「オリエンタリズムにならないように政治的に正しくしましょう」みたいなこととして受け取る人が他にもいるのかもしれないなと思いました。サイードが正しいか正しくないかなんてこ

    オリエンタリズムと対話的自己について - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/04/22
    あら?優越ゲームにおける俯瞰的自己について言及されてるわ(他者からの対話を受け付けないメタ的位置取りのひきょーさ) | っつーか、※欄に内藤センセが。「あれは政治活動だ(一緒にやらない?)」、と
  • 自分のアイデンティティのために他者を他者化することをオリエンタリズムという - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    私はインドの専門家ではないし、もう誰か取り上げて批判していると思うので、放置しておいてもいいかなとも思ったのですけど、「釣り」にしてもちょっとひどすぎる「他者」の利用の仕方なので、あまり気は進まないけど、社会学者の内藤朝雄さんの「伝統を大切にする社会」というエントリを取り上げておきましょう。 内藤さんは、インドに関する朝日新聞HPの2つの記事、 子供の5割、性的虐待経験 2割「深刻な被害」 インド http://www.asahi.com/international/update/0413/TKY200704130356.html 異教徒との結婚にヒンズー組織激怒 学生2人の保護命令 http://www.asahi.com/international/update/0415/JJT200704150002.html を並べて、次のように言います。 ところで、インドやヒンズー教の神秘主義を

    自分のアイデンティティのために他者を他者化することをオリエンタリズムという - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/04/19
    『つまり、自分が批判しようとしているものと「思考の退廃」(オリエンタリズムと同じ白黒の単純な二元論)という点では同じになってしまっているわけです』 | 内藤さんの脇の甘さがモロに露呈している・・
  • なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    大学でも新学期が始まりました。私が学生の頃は、授業が格的に始まるのはゴールデンウィーク明けという感じでしたが、いまはそうもいきません(昔も学生が連休明けから行けばいいやと思っていただけで、授業はあったのでしょうが)。さて、文化人類学入門という意味合いの概論の講義(つまり1年生向けの講義)での最初の授業のガイダンスのときに、文化人類学って何だと思っている学生に対して、毎年以下のような話をします。今年もきょう最初の講義で話してきたので、ここに再録しておきましょう。 ☆ ☆ ☆ 文化人類学を学ぶことは何の役に立つのか、という質問を受けることがあります。その答えは、役に立つというのがどういう意味で聞いているのかにもよります。まあ、ふつうこういった質問は、直接に何かすぐに役にたつ(「お金になる」とか「もてる」とか)ということを想定しているのでしょうから、その答えは何の役にもたたないということになる

    なぜ帰宅後にすぐ手を洗うのか - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/04/14
    「人間の行動は機能の合理性だけではなく、文化的な慣習(合理性)によって選択されている」、ということについて。そう考えると経済合理的な情報が多くなったとしても人間の行動は容易に変わるものではない
  • 東浩紀/北田暁大『東京から考える』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    久々の、そして2回目の「読書ノート」です。今回取り上げるのは、 東浩紀/北田暁大『東京から考える:格差・郊外・ナショナリズム』日放送出版協会(NHKブックス)、2007年 isbn:9784140910740 です。刊行されてからまだ2ヶ月ちょっとなので、新しいといえば新しいなのですが、けっこう話題になっているので、すでに「遅れてやってきた読書ノート」という感じになっているでしょうね。 このは、ポストモダンとリベラルを足すと、ライフスタイルの多様性を許容するという意味で政治的に正しく「人間工学的に正しい」バリアフリーでセキュリティの高い「安全で清潔な街」、どこでも変わらない「個性のない街」、すなわち、「郊外的」で「ファスト風土」的で「ジャスコ的」な平板化された街になるのは仕方ないのだとなるというお話のです。まあ、一言でいえば、ネオリベラル的な「環境管理社会」への移行は、政治的意思の

    東浩紀/北田暁大『東京から考える』を読む - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/04/09
    あと、個人的には「自動律の不快」とか思い浮かぶ
  • 「ネオリベラリズムの文化」文献 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    明日は大学の入学式です。そろそろ授業の準備をしなくてはならない時期になってきました(当はもっと早くしていなきゃいけないんだけど)。講義のひとつは、副題が「ネオリベラリズムの文化」です。まあ、コマロフ夫の『千年紀資主義』の副題をパクったのですが。そのために文献を新たに何冊か読んでいるのですが、なかなか読書ノートを書く時間がないですね。寸評ぐらいの読書ノートでもあったほうがいいとは思うのですが(なにせこのブログのタイトルに「ときどき読書ノート」とありますから)。 読書ノートはまだ書けないのですが、「ネオリベラリズムの文化」の講義の参考文献として挙げようと思っている文献表を、何かの参考になればと思い、載せておきます。学部学生向けですので、手に入りやすいものを中心に選び、読みにくい専門書はなるべく避けてあります。 【世界編】 C・レヴィ=ストロース『レヴィ=ストロース講義』平凡社ライブラリー

    「ネオリベラリズムの文化」文献 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「アダム・スミス問題」と真正性の水準

    macbethさん、コメントありがとうございました。なるほど、macbethさんは「個の代替不可能性」と社会的連帯ということを受苦の場面から考察していたのですね。前回の記事は、macbethさんのコメントの趣旨を取り違えていたようです。そして、その趣旨のように、「個の代替不可能性」が露になるのは受苦の場面です。そこで、受苦(passion)と同情(compassion)の場面に立ち戻って考えてみましょう。 macbethさんは、 小田さんの「個の代替不可能性」に関する説明・注釈のなかで、子どもを失った親への「子どもはまたできるよ」(あるいは失恋した男(女)への「他にも女(男)はいるよ」でもいいですが)という慰めが無効(不当といってもいいと思いますが)だと指摘されていました。その通りだと思いますが、その一方で子どもを失ったことや失恋からようやく癒えて、再び元気よく生きていけるようになるとは、

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:「アダム・スミス問題」と真正性の水準
    morutan
    morutan 2007/04/08
    <市場合理性において「関係性」の論理は排除されるのか?>というところでアダム・スミスの目指したものが出てくる。他者の境遇への共感(想像力)。それを可能にする条件としての境遇の交換可能性
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:交換の四角形

    このブログで「コメントへのコメント」ってカテゴリーを設けていたのですが、これまでの30記事のうち、半分の15の記事がこのカテゴリーに入るものとなっています。ということは、皆さんがコメントを下さるからブログが続いているということで、コメントがなかったらたぶんいまごろは開店休業状態になっていたでしょうね。感謝。 それと、いまのカテゴリー分けがあまり意味のないことになっていますね。当は内容で分類すればいいのでしょうけれども、分類できないような内容だし。それに最初に作った「読書ノート」ってカテゴリーに入る記事はその後ほとんどないし。まあ、カテゴリー分けなんてこのブログにはいらないってことですかね。 結局、私の思考は、人の言ったことを勝手につなげて働くようで、だから、コメントへのコメントとか読書ノートみたいなことを書くことになるようです。そこで、きょうも、黄色い犬さんとのやり取りとmacbet

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:交換の四角形
    morutan
    morutan 2007/04/08
    分配 / 再分配 、贈与交換 / 市場交換 の2つの座標軸による交換の4象限マトリックス(あとで描こう)。若者のマインド(関係性への価値基準)は市場交換的なところに向かっているようだが
  • 「選ぶこと」と「自己選択」のあいだ - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    黄色い犬さん、macbethさん、コメントありがとう。黄色い犬さんは、 ところで、<選択的コミットメント>と「拡散」(忠誠の)との違いがまだよくわかりません。<選択的コミットメント>っていうのは関係を断片化して、そのつど都合の良い断片を選択することですよね?これをレヴィ=ストロースのいう「エンジニアの思考」に、「拡散」のほうを「ブリコルールの思考」に比してもいいですか?あるいは「拡散」は選べないものだと言ってもいいんでしょうか? と書いていますが、私の言ったことはもっと単純で、〈選択的コミットメント〉という用語は、「忠誠」(これは交換論でいえば再分配の関係に当たります)とか「義理」(これは贈与交換によって生じます)とかというときの「拘束」がない関係を指しているから異なっているということでした。つまり、いわば「しがらみ」を拡散しているわけで、「しがらみ」とはならない関係をつくるための〈選択的

    「選ぶこと」と「自己選択」のあいだ - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/03/19
    「包括的~」=全部載せサービス、「選択的~」=選べるサービス | 前者は「しがらみ」付き。でも、「選ぶしがらみの可能性」というのも考えさせられる(cf.絆)
  • 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:如何にして「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」へシフトするのか

    Macbethさん、ようこそ。コメントありがとうございます。コメントのなかでmacbethさんは、 「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」あるいは「《顔》のある関係」の重要性はその通りだと頷けるものでした。それら(非真正性社会に包摂された真正性の島)がますます退縮するネオ・リベラリズム期の世界資主義という現実のなか、如何にして「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」へシフトする(あるいは真正性島の領土を拡大する)のか、その具体的な実施案(あるいはそのヒント)をお持ちでしたら、是非お教えください。 と書かれています。「真正性の島」の領土拡大というのは難しいことです。というのも、その性質上小さな島のままでしかありえないからです。領土拡大して大きくなると真正なものでなくなりますから。それと、真正な社会は固定した領土をもたないものでしょう。それはどこにでも作ることは可能ですが、固定

    小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」:如何にして「『個の代替不可能性』を基盤とした社会的連帯」へシフトするのか
    morutan
    morutan 2007/03/16
    「しがらみ」はびみょーな感じだけど「真正性を有している島への行き来」ならなんとなく納得できる。でも、そんなとこあるのかなぁ・・。
  • 「ニューエイジ運動」との連続と不連続 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」

    現在のスピリチュアル・ブームについての文献というのは、まだあまりありませんね。当たり前ですけど、研究はかなり遅れてやってくるんですね。香山リカさんのと信田さよ子さんの『論座』(2006年6月号)の論文くらいしかまだチェックしていませんが、両方とも研究とは呼べないものです。香山さんにしろ信田さんにしろ、臨床心理士でカウンセリングをしているわけで(精神科医の香山さんが臨床心理士の資格を取ったことは今回はじめて知りましたが)、スピリチュアル・カウンセラーを名乗っている江原啓之さんはいわば商売敵(「同じ穴のむじな」と言ったら怒るでしょうか)だから、反応が早いのでしょうね。現在のスピリチュアル・ブームは、「オカルト」文化や「ターミナル・ケア」(死生学)をはじめとする「スピリチュアル・ケア」から出てきたわけではなく、広い意味での「セラピー/カウンセリング文化」の中から出てきたわけで、その点からすれば

    「ニューエイジ運動」との連続と不連続 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
    morutan
    morutan 2007/03/10
    ニューエイジ的スピリチュアルブームでは既存の関係のスイッチ(複数性)ではなく、別の小集団に依る(ジャンプする)ことによってちゃぶ台返しするということ。複数性を選ぶにはどうしたらよいか、質問してみた