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恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている[1]。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている[1]。 作風[編集] 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。1955年に死去する直前まで創作活動を続け、日本における抽
コンサート Concerts (2020.04.02)(NEW) 文 章 (2018.10.23) Articles (2013.11.01) Tweets 楽 譜 Scores (2019.05.18) (NEW) CD (2018.07.02) CDs (2015.06.05 ) 著書 (2017.10.03) 略歴 profile
北園克衛 北園 克衛(きたぞの かつえ、1902年(明治35年)10月29日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、三重県出身の詩人、写真家、デザイナー。中央大学経済学部卒。本名は橋本健吉(はしもと けんきち)[1]。実兄は彫刻家の橋本平八。代表的な詩集に『白のアルバム』『黒い火』などがある。「Kitasono」と署名していたことから<きたその>と表記されることが多いが<ぞの>が正しい(ローマ字ではなくフランス語の署名)。周辺からは「ゾノさん」と呼ばれていた。エズラ・パウンドは北園との往復書簡の中で「キットカット」(Kit Kat)と呼んだ。 1902年、現在の三重県伊勢市朝熊町に生まれる[1]。関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華ひらいた前衛詩誌文化の中心で活躍した、いわゆるモダニズム詩人の代表的人物。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(上田敏雄、上田保 (英文学者)と連
梅原 猛(うめはら たけし、1925年(大正14年)3月20日 - 2019年(平成31年)1月12日[1])は、日本の哲学者、評論家。位階は従三位。ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長。京都市名誉市民。 京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学文学部哲学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長(初代)、社団法人日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。 西洋哲学から日本の芸能や文学の笑いまで幅広く研究し、日本文化の本質を探究する。大胆で独創的な梅原日本学を確立。『隠された十字架』(1972年)、『水底の歌』(1973年)、『人類哲学序説』(2013年)など著作多数。 龍谷大学文学部の講師を経て、立命館大学文学部の講師、助教授、教授を
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尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。諱は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。 乾山記念碑、京都市東山区清水寺内、1920年建立 京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。6歳上の兄は尾形光琳である。貞享4年(1687年)、父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けた。遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁
芹沢 銈介(せりざわ けいすけ、芹澤銈介、1895年(明治28年)5月13日 - 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。静岡県静岡市(現・葵区)生まれで、静岡市名誉市民[1]。文化功労者。重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。 民藝運動の共鳴者でもあり、提唱した柳宗悦とともに日本各地を訪ねて民芸品や民具を調査した[2]。20世紀日本の代表的な工芸家として内外から高く評価されており、静岡市立芹沢銈介美術館[2]が開設されている。 実家の呉服商が焼失したため画家の夢を諦めて図案を学び、30歳代半ばから染色を手掛けるようになった[2]。オリジナリティあふれる作品群を生み出したほか、本の装丁など商業デザインも手がけた。ビジネス面での優れた企画力を持ち、第二次世界大戦後の布不足下では和紙の型染カレンダーを製作してヒット商品とした[2]。また、その選美眼で世界各地の民芸品や工
ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)は、イギリスの詩人、画家、銅版画職人。預言書『ミルトン』の序詞「そして古代にあの足は[1] (And did those feet in ancient time)」に1918年にヒューバート・パリーによって音楽が付けられたものが、聖歌『エルサレム』として、または事実上のイングランドの国歌として現在のイギリスではたいへんよく知られている。 生い立ち[編集] 1757年11月28日、ロンドン、ソーホー地区のゴールデン・スクエア、ブロード・ストリート(現ブロードウィック・ストリート)28番地に、靴下商人ジェイムス・ブレイク、キャサリン夫妻の間に第3子として生まれ、同年12月11日にピカデリー教区のセント・ジェームズ教会で洗礼を受ける。幼少期から絵の才能を示して絵画の学校に入り、1772年に彫刻
ウォルター・ホイットマン (英語: Walter Whitman, 1819年5月31日 – 1892年3月26日) は、アメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、エミリ・ディキンソン(1830年 - 1886年)と並んでアメリカ独自の詩の創始者とみなされており[1]、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる[2]。 ニューヨーク州ロングアイランドに生まれ、ジャーナリスト、教師、公務員として働き、南北戦争に志願看護師として従事する傍ら、詩を出版する。活動初期には、禁酒運動小説 Franklin Evans (1842年) も発表している。初め1855年に自費出版されたホイットマンの代表作『草の葉』(英語版)は、アメリカの叙事詩を市
1891年、マクシミリアン・エルンスト(マックス)は、ブリュールで聾唖学校の教師かつアマチュアの画家フィリップ・エルンストを父とし、ルイーゼを母として生まれる。父フィリップは厳格なクリスチャンであり、マックスを敬虔な信徒として教育するとともに、彼を絵画のモデルとして使っている(『幼児キリストとしてのマックス・エルンストの肖像』など)[2][3]。 1909年~1912年、ボン大学において、哲学、心理学、美術史を学ぶ[2][3][4]。フィンセント・ファン・ゴッホの絵画に触れ、画家を志す[2]。 1912年、アウグスト・マッケの「ライン地方表現主義者グループ」に参加[2][3]。ギヨーム・アポリネールとロベール・ドローネーとの交流をもち、「青騎士」グループとも接触[3][4]。 1913年、ジャン・アルプに会う[4]。 1914年、第一次世界大戦勃発。砲兵隊員として軍務につく[2][3]。
アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポーらとともにダダイスム、シュルレアリスムを牽引し、『リテラチュール (文学)』を創刊。文芸雑誌『シュルレアリスム革命』を主宰した。 1927年に共産党に入党。UIERのフランス支部「革命作家芸術家協会」の機関誌『コミューン』の編集長、共産党の機関紙『ス・ソワール(フランス語版) (今夜)』の編集長を歴任。1930年にハルキウで開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会にシュルレアリストを代表して参加したことを機に、社会主義リアリズムに転向。とりわけ、ナチス・ドイツ占領下で『グレバン蝋人形館』、『殉難者たちの証言』、『詩人たちの名誉(フランス語版)』(ポール・エリュアール編)を地下出版し、文筆活動によってナチズムに抵抗したレジスタンスの詩人として知られる。 戦後は、『ス・ソワール』紙のほか、ロマン・ロランらによって1923年に創刊された共産党系の雑
ニューマンはロシア系ユダヤ移民の子としてニューヨークに生まれた。ニューヨーク市立大学で哲学を学んだ後、父親の服飾業を手伝った。1930年代から絵を描き始めた。そのころの作品は表現主義風だったというが、後に彼はそれらをすべて処分した。 1940年代には最初はシュルレアリスムを試しながら、やがて独自のスタイルを築きあげた。その画面は、ニューマンが「ジップ zip」と呼ぶ細い縦線で巨大な色面が区切られるのが特徴である。ジップを用い始めたころの作品では、色面はまだらになっていたが、やがて色面は単色で平坦なものになった。ニューマン自身は1948年以降の「ワンメント Onement」シリーズによって自己のスタイルが確立されたと考えていた。 生涯を通じて、ジップは彼の作品の主役であった。1950年代の作品には、「ワイルド The Wild」(203cm×4cm、ニューヨーク近代美術館)のように、ジップそ
クルト・シュヴィッタース(Kurt Schwitters、1887年6月20日 ハノーファー - 1948年1月8日 ケンダル (en))は、ドイツの芸術家・画家。全名はクルト・ヘルマン・エドゥアルト・カール・ユリウス・シュヴィッタース(Kurt Hermann Eduard Karl Julius Schwitters)。 シュヴィッタースはダダイスム、構成主義、シュルレアリスムなど近代美術の様々な芸術運動で活躍した。また絵画以外にも詩、音響、彫刻、グラフィックデザイン、タイポグラフィ、パフォーマンスなど様々な手法を用いている。 最も有名な作品群は、廃物などを利用したコラージュ「メルツ絵画」であるが、その他にもインスタレーションの先駆けと言える「メルツ建築」(メルツバウ、Merzbau)、サウンドアートの先駆けと言える音響詩「ウルソナタ」(ウアソナタ、Ursonate)などを手がけた。
ベネズエラ国立カラカス大学「雲の羊飼い」(1953) ジャン・アルプ(Jean Arp)、ドイツ名ハンス・アルプ(Hans Arp, 1886年9月16日 - 1966年6月7日)は、現在のフランス・アルザス地方の首府ストラスブール(シュトラースブルク)出身の彫刻家、画家、詩人。 略歴[編集] アルプの父ユルゲンはドイツ人の葉巻製造業で、母ジョゼフィーヌはアルザス人である。アルザス地方の地域性からドイツとフランスの両方の文化、教育の影響を受けて育つ。幼い頃から絵を描くことを好み、造形芸術と詩に強い興味を持っていて、自然と芸術家への道を歩んだ。 模索からダダイスムに至るまで[編集] 両親からも熱心に支援を受けたアルプは1901年、シュトラースブルクの美術工芸学校へと入学する。だが、その伝統的な美術教育に拒否反応を示し、専ら新しい芸術表現の可能性を模索しながらパリの美術館を巡り、そして詩作を続
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月) エピクロスの胸像 エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。 現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。 エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。 当時アテナ
- ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner - <宗教戦争の20世紀> 21世紀に入り、あの9/11以降、世界は新しい段階に突入しました。それは「民主主義対テロリズム」によって世界が二分される時代と表現されています。しかし、その捉え方は本当に正しいのでしょうか?歴史はその判断をゆっくりくだして行くことになるでしょうが、すでに別の見方をするべきであるという意見がきかれます。それは、世界は今「イスラム原理主義対キリスト教保守派」の闘いに巻き込まれているとするものです。 ブッシュ率いる共和党の保守派グループは、アメリカ南部で力をもつキリスト教保守派グループと緊密な関係にあります。そして、彼らの信仰はイスラム原理主義以上に原始的で非科学的なものです。その基本は「聖書絶対主義」で、聖書に書かれている出来事はすべて聖書のとおりに起きたと考えられています。(聖書に書かれているのは、キリ
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。 1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた[1]。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家として
ハーブ・ルバーリン(Herb Lubalin, 1918年3月17日 - 1981年5月24日)は、アメリカの著名なグラフィックデザイナー、タイポグラファー(書体デザイナー)。ラルフ・ギンズバーグと共同でエロス誌(Eros)、ファクト誌(Fact)、アヴァンギャルド誌(Avant Garde)などの雑誌を手掛け、雑誌のクリエーティブ面やデザイン面を担っていた。アヴァンギャルド誌のためにITCアヴァンギャルド(ITC Avant Garde(英語版))というフォントをデザインした。この個性的なフォントはアール・デコのポストモダン的解釈であると称され、1990年代から2000年代にかけてのロゴデザインなどに影響が見受けられる。 ハーブ・ルバーリンは17歳でクーパー・ユニオン(Cooper Union)に入学し、すぐにタイポグラフィーのコミュニケーション手段としての可能性に魅せられていった。ガー
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