さとう @paku99jihyo 言葉にするのが下手な人って、そもそも自分が何考えてるかよくわかってない人が多い。自分の思考の解像度を上げないと外に出す「言葉」には変えられない。
1 美学は芸術の哲学なのか? 2 芸術抜きの美学? 3 美学抜きの芸術? 4 ビアズリー、ディッキー、シブリー 5 美的なものと芸術的なもの、その後 参考文献 1 美学は芸術の哲学なのか? 博士論文(80,000 words)をあらかた仕上げて予備審査に出したので、ゴキゲンのブログ更新。 博論でも取り上げている話だが、私の専門である美学/芸術哲学への入門的な話題としてよさそうだったので、一部ネタを抜粋して再構成してみた。なにかというと、美学と芸術哲学の関係性についての話だ。*1 美学[aesthetics]は、なんの専門家でもない人にとっては「男の美学」「仕事の美学」とか言われるときの流儀やこだわりを指す日常語であり、もうちょっと詳しい人にとっては、芸術哲学[philosophy of art]の同義語だ。英語でも事情は同じらしく、aestheticsが専門だと言えば、artについてなんか
Microsoftが、2023年初頭から実施している大規模なレイオフにより、OpenAIの技術を製品に組み込む際のリスク評価を行うAIチームをレイオフしたことが分かりました。OpenAIの大規模言語モデルを組み込んだMicrosoftのBing Chatが脚光を浴びる中、同社が掲げる「責任あるAIの原則」を保証することを専門とするチームがなくなったことに対し、メディアからは懸念の声が上がっています。 Microsoft just laid off one of its responsible AI teams https://www.platformer.news/p/microsoft-just-laid-off-one-of-its シリコンバレー関連の情報を扱うニュースレター・Platformerに情報を提供した関係者によると、Microsoftが実施している1万人規模のレイオフによ
あまりに高精度なテキストを生成できるということで話題になった「GPT-3」のような最新の言語モデルは、言語処理能力を向上させる過程で自然に他者の心を推察する能力を獲得していたとする研究論文が発表されました。 [2302.02083] Theory of Mind May Have Spontaneously Emerged in Large Language Models https://arxiv.org/abs/2302.02083 Theory of Mind May Have Spontaneously Emerged in Large Language Models (PDFファイル)https://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/2302/2302.02083.pdf ヒトが他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念などを推測する心の機能を「心の理
広島県呉市出身。呉市立吉浦中学校を経て、1981年に広島県立呉三津田高等学校を卒業後、東京大学教養学部理科I類に入学。1984年、東京大学教育学部に進学。その後、西ドイツに渡る。1989年に東京大学教育学部教育史・教育哲学コースを卒業。 大学時代は堀尾輝久に師事、卒業論文のテーマはシュライエルマッハーとルソー。また統一教会に入信し、東京大学原理研究会にて活動していた[2]。 大学院受験に失敗し、1990年から世界日報記者、1992年には東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程に入学する。この頃合同結婚式で選ばれた配偶者とのトラブルがあったことをきっかけに統一教会を脱会する。博士後期課程に進学後、1995 - 96年ドイツのマンハイム大学に留学、1996年に博士後期課程を特例で2年次修了し、東京大学より博士(学術)の学位を取得。博士論文のテーマは「〈隠れたる神〉の痕跡 - ドイツ
皆さんは、自分の見ている前でいじめが起きているときに加害者と被害者のどちらに寄り添いたいと思いますか? 「当然、被害者だ」と答えたあなたは・・・たぶん、心の強い人です。世の中には、「加害者」と「被害者」が存在しているときに「加害者」のほうに加担することを選ぶ人が実は少なくありません。なぜそういうことになるのでしょうか? これには次のような理由があります。 △加害者と被害者、どっちに味方する? さて、世の中誰が本当の「加害者」で「被害者」なのかを見定めることは簡単ではありませんが・・・ここでは、単純に「いじめ」の加害者と被害者がいたとしましょう。 このとき、それを目撃したわたしたちは単純に図のAとBのように、「加害者側」に立ってそれを笑い飛ばすか、それとも「被害者側」に立って寄り添うかという選択を迫られます。 このとき、「加害者側」に立とうとするひとたちの動機はシンプルです。それは・・・ 被
For the practice of wearing a kilt without undergarments, see True Scotsman. No true Scotsman or appeal to purity is an informal fallacy in which one attempts to protect an a posteriori claim from a falsifying counterexample by covertly modifying the initial claim.[1][2][3] Rather than admitting error or providing evidence that would disqualify the falsifying counterexample, the claim is modified
オイゲン・ヘリゲル オイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel、1884年3月20日 - 1955年4月18日)は、ドイツの哲学者。海外では日本文化の紹介者として知られている。特に弓道を通して禅をひろく海外へ紹介した[1]。 1884年3月20日、リヒテナウに地元校の教頭の三男として生まれ、父の転勤でハイデルベルクに移る[1]。1903年にギムナジウムを卒業し、1907年よりハイデルベルク大学で神学を学び、1908年よりヴィルヘルム・ウィンデルバント、エミール・ラスク、ハインリヒ・リッケルトから新カント派哲学を学んで1913年に博士号を取得、1914年~1916年、第一次世界大戦に従軍後、ハイデルベルク大学に戻り私講師として哲学を講義した[1]。 1923年には日本人留学生の大峽(大巌)秀榮とアウグスト・ファウストによる禅のアンソロジー“Zen: Der lebendige Budd
イスクイル (Ithkuil, Iţkuîl) は、1978年から2016年にかけて、アメリカ合衆国の言語学者ジョン・キハーダ (John Quijada) によって作られた非常に複雑な人工言語である[1]。 イスクイルは現在4種類のバージョンが存在する。最初のバージョン(イスクイル I)は2004年、Ilakshと呼ばれる簡易バージョン(イスクイル II)が2007年、現行バージョン(イスクイル III)が2011年に公表されている。また2017年から、新たなバージョンであるNew Ithkuil(イスクイル IV)がキハーダによって制作されている[2][3][4]。 イスクイルに関する著者の説明によると、「仮説的言語のための哲学的設計」であり、アプリオリな哲学的言語と論理的言語の中間にみえる。作者は、どのように人間の言語が機能できるか、機能するかもしれないかを示そうとする。イスクイルは
ディオゲネスの胸像 ディオゲネス(英: Diogenes、希:Διογένης Diogénēs、紀元前412年? - 紀元前323年)は、古代ギリシアの哲学者。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。シノペ生れ。シノペのディオゲネスとも。 犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、「犬のディオゲネス」と言われた。また、大樽を住処にしていた。翻訳によっては、「甕(かめ)」とも訳されるが、これは古代ギリシアの酒樽が木製のものではなく、甕であったためである。そのため、「樽のディオゲネス」ないし「甕のディオゲネス」とも言われた。 「ディオゲネスは銀行家(Τραπεζίτης:トラペジテス)のヒケシオス(Ικέσιος)の子でシノペの人。彼の父親は市(ポリス)の公金を扱う銀行家(έπιµελητής:監督者)であったが、“通貨(ノミスマ)を変造(パラハラクシス)した
この項目「キュニコス派」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:en:Cynicism (philosophy)20:10, 20 January 2022) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2022年2月) あるキュニコス派哲学者の像(カピトリーノ美術館所蔵) キュニコス派(キュニコスは、英語: Cynicism、古代ギリシア語: κυνισμός)とは、アンティステネスを開祖とするヘレニズム期のギリシア哲学の一学派。小ソクラテス学派の一つ。犬儒派(けんじゅは)とも呼ばれる[1][注釈 1]。 キュニコス派にとって、人生の目的とは自然に与えられたものだけで満足して生きることにある[3]。理性的生物として、厳格な鍛錬を積
「意識のハードプロブレム」とは、1994年、第一回の意識に関する国際会議(ツーソン会議)で、哲学者デイヴィット・チャーマーズが提起したものです。彼は、意識を二つの問題に分けました。 一つは、イージープロブレムで、物質としての脳はどのように情報を処理しているのかという問題です。 これは、現在、脳科学の分野で、fMRIなどを使って盛んに研究されているものです。 もう一つが、ハードプロブレムで、主観的な意識体験はどのように発生するのかといった問題です。 主観的な意識体験とは、自分が見ている、感じているという意識して感じることができる部分です。 どうすれば、そんな意識が発生するのか、これがハードプロブレムの問題です。 なぜ、ハードプロブレムかというと、脳の観測からは見えてこないからです。 リンゴを見つけて、手で取って食べるまでの脳の信号処理の流れを完全に解明できたとしても、「リンゴを食べよう」と思
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