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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (28)

  • 『竹取物語』の他者 - heuristic ways

    『竹取物語』の大まかなストーリーは広く知られている。竹の中で見つけられ成長したかぐや姫が五人の貴公子に求婚されるが、かぐや姫は無理難題のプレゼントを要求して求婚者を次々に退け、最後は天人たちに迎えられて月に帰るという話である。 だが、今回初めてビギナーズ版の『竹取物語』(角川ソフィア文庫、武田友宏解説)を読んでみて思ったのは、かぐや姫がこの物語の登場人物たちにとって異質な他者であるだけでなく、『竹取物語』という「日最古の物語」自体が日の文学伝統にとっての「他者」なのではないかということだった。『日書紀』が日歴史にとっての「他者」であるのと同じような意味で。『竹取物語』や『日書紀』では、いわば「日の外から日を見る」という超越的・外在的な眼差しが徹底しているように思えるのである。  武田友宏氏によると、『竹取物語』はもともと『竹取の翁(おきな)の物語』と呼ばれていたらしい。とす

  • 「開発」に抵抗する主体 - heuristic ways

    鎌田慧『六ヶ所村の記録――核燃料サイクル基地の素顔』(岩波現代文庫、2011年)の5「反対同盟」に、鎌田氏が取材を始めた当初(1970年)の六ヶ所村の寺下力三郎村長へのインタビューが載っている。当時はまだ「開発」の具体的な計画内容が明らかでなく、ただブローカーや開発会社による土地の思惑買いが先行してどんどん進んでいる段階だった。 寺下村長は、「結局、わたしの考え方は、従来からここにおる農民と農地が、あまり移動するとかあるいは消滅するとかいう状況でないような開発計画をたててもらいたいと」いうことだと述べ、その理由として、住民が立ち退くことになった場合、「適応性のある人もあるでしょうけれども、半分以下あるいは三分の一ぐらいは、このままよそへ行くと脱落者になり」かねないからだと言う。「…わたしはこういってるんです。レベル以上を対象にこの開発計画に対処するか、それとも水準点以下の村民を基準にして開

  • ドイツの脱原発事情 - heuristic ways

    熊谷徹氏は、『脱原発を決めたドイツの挑戦――再生可能エネルギー大国への道』の「まえがき」で、「ドイツ政府は、福島事故をきっかけに脱原子力計画を加速し、二〇二二年一二月三一日までに原発を全廃することを決めた」が、日のマスメディアは、「原発全廃が、ドイツで進んでいるエネルギー革命の一部にすぎないことについては、ほとんど伝えていない」と言っている。 ドイツのエネルギー革命(Energiewende、エネルギー・ヴェンデ)とは、「二〇五〇年までに発電量の八〇%を再生可能エネルギーでまかなうという、野心的なプロジェクト」のことである。  ドイツではなぜ脱原子力政策の決定が可能だったのか。著者は、「緑の党がこの国に存在しなかったら、脱原子力政策が法制化されることはなかった」、「さらに、一九九八年に緑の党が初めて連立政権の一党として連邦政府に加わった瞬間に、この国で原子力時代が終わる運命が決まった」と

  • 漱石『草枕』をめぐって - heuristic ways

    何度目の挑戦だろうか。今回、私は初めて漱石の『草枕』(1906年)を読み通すことができた。 実はこの小説には、画工の「余」が「女」(那美さん)に向かって、小説というのは、「初から読んだって、仕舞から読んだって、いい加減なところをいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか」と言う場面がある。「筋を読む」気なら、初から仕舞まで読まなけりゃならないが、「只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んで」みるほうが面白いのだと。 漱石もこの小説に関しては、そういう読まれ方を望んでいたのかもしれない。  『草枕』の「筋」というか、物語(プロット)の骨格に関しては、柄谷行人氏が次のように指摘している。 たとえば、『草枕』では、一見すると、山中の桃源郷が描かれていてそこにも下界の現実が侵入してくるといったふうにみえる。だが、当はその逆である。招集されて満州の野で戦わねばならない青年や、破産したあげ

  • 外村大『朝鮮人強制連行』 - heuristic ways

    朝鮮人強制連行 (岩波新書)作者: 外村大出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2012/03/23メディア: 新書購入: 1人 クリック: 1回この商品を含むブログ (4件) を見る  このの帯には、「朝鮮人強制連行の歴史は、“朝鮮人のために日人が覚えておくべき歴史”ではない」という著者の言葉が紹介されている。 このを読むまで私は、戦時中の朝鮮人強制連行について事実関係をよく知らなかったし、自分にとってこの問題が何を意味するのかを考える具体的なとっかかりがないように感じていた。もちろん、私がそのような「人権侵害」を強いた旧宗主国の子孫であるという事実は認識できる。だが、私がいま置かれている状況や自分が抱えている問題との具体的な接点が見えてこなければ、そこにはどうしても切実さが欠けてしまう。たとえば、「戦時中に強制連行されて過酷な労働を強いられた朝鮮人がいる」という風に捉えるだけでは

  • 名前という政治的資源 - heuristic ways

    ナポレオン三世(シャルル=ルイ=ナポレオン・ボナパルト、1808−73)は、「偉大なるナポレオンの出来の悪いファルス」という戯画的イメージによって知られているが、鹿島茂氏は、『怪帝ナポレオン三世――第二帝政全史』で、いろいろ調べていくと、ナポレオン三世は「バカでも間抜けでもない」し、「ゴロツキ」でも、「軍事独裁のファシスト」でもない、「スフィンクスのような人物、つまりどんな定義の網もかぶせることのできない謎の皇帝、端倪(たんげい)すべからざる怪帝」として、改めて見直される人物ではないかと問題提起している。 マルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』で、ナポレオン三世を、「叔父のかわりに甥」という二度目の茶番(ファルス)として描いているようにみえるが、実は、「マルクスが一番憎んでいたのは、ナポレオン三世のクー・デタで一掃されたティエールらのオルレアン王朝派ブルジョワジー」だったと鹿

  • 「非武装」のトリック - heuristic ways

    村上春樹氏は、昨年6月にスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で行なったスピーチで、「戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?」と問いかけ、「我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった」と主張した(2011-06-13「なぜ核の惨禍を忘れたのか」参照)。 私も基的に村上氏のスピーチに共感を覚えたのだが、先日、大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』(岩波新書)を読んで吃驚した。 村上氏流の考えでは、われわれが原発建設を容認(黙認も含めて)することになったのは、「原爆体験」の記憶がいつの間にか風化し、「核に対するアレルギー」を忘却するにいたったからだということが前提になっている。 だが、そうではなく、むしろ逆ではないか。戦後日人は「原爆体験」の記憶を伝え、「核に対するアレル

  • 『平家物語』の故事 - heuristic ways

    角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス『平家物語』は、『平家物語』の全体像をとらえることができるように、「全巻の全章段について、内容を縮約するとともに、各巻を代表する説話を選び出し」たという初心者向けのダイジェスト版なのだが、これを読み始めたところ、いきなりこういう一節があって、へーっと思った。原文も載っているが、ここでは訳文を引用する。 先例を遠い中国歴史にたずねると、秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁の朱异(しゅい)、唐の安禄山(あんろくざん)がいる。彼らは皆、自分の仕える主君・皇帝の政治に反逆して、権勢の限りを尽くし、周囲の忠告に耳をかさなかった。やがて世の中が乱れてしまうことに気づかず、世の人々が何に苦しみ、何に嘆いているのか、まるで反省しなかった。だから、その栄華は永続せず、間もなく滅亡した者どもである。  これに続いて、「身近な日歴史に例を求めると、承平

    nagaichi
    nagaichi 2012/02/25
    南朝四百八十寺(しひゃくはっしんじと慣用的に読む)。『侯景の乱始末記』はまだ復刊しないのかっ! ↓梁の武帝な。
  • ケガレについて - heuristic ways

    NHKの大河ドラマ『平清盛』第一回で、盗賊を討伐した平忠盛(中井貴一)らが、血と泥にまみれた姿で京の町を意気揚々と凱旋しているとき、輿に乗った公卿の藤原忠実(國村隼)一行が通りかかり、「血で汚れた姿で都を歩くな」と冷たく言い放つ場面があった。 川尻秋生氏は、『平安京遷都』で、「武士とは一種の殺し屋でありながら、武力を必要とした都の人々に、眉をひそめられながらも用いられた必要悪であったといえるだろう」と言っているが、この当時の武士は盗賊の討伐といった「汚れ仕事」の担い手として、半ば蔑視されていたということだろう。 川尻氏は、平安時代はケガレの観念が広がった時代であり、たとえば「天長七(八三〇)年に施行された『弘仁式』では、人間や家畜の死のケガレ、肉、弔問・病気見舞いのケガレなどが規定されている」という。そしてその後の『貞観式』(八七一年)では『弘仁式』より項目が増え、「ケガレの伝染について

  • 平将門をめぐって - heuristic ways

    私が平将門に興味をもつようになったのは、5年くらい前に大岡昇平の『将門記』を読んで以来のことだが、最近、将門について、二つのことが気にかかっていた。 一つは、将門が天慶二年(九三九)、坂東八カ国を制圧したとき、「巫女が神がかりし、八幡神が菅原道真を通じて将門を「新皇」とする、という託宣を下した」(網野善彦『日社会の歴史(中)』)のはなぜかという問題であり、もう一つは、高橋富雄氏が『平泉の世紀』で指摘している「平将門と藤原清衡」、「坂東と奥州」の関係はどこまで根拠があるものなのかということだった。 図書館で川尻秋生『戦争の日史4 平将門の乱』というを借りてきて読んでみると、それなりに納得の行くところがあったので、ここでポイントを整理しておきたい。  その前にまず私が驚いたのは、当時の利根川や鬼怒川は現在とは流路が異なり、「そもそも、現在からは想像しにくいかもしれないが、当時の常陸(ひた

  • 契丹と女真など - heuristic ways

    しばらく前から韓国ドラマ『千秋太后(チョンチュテフ)』(2009年、全78話)を見ている(今のところ22話まで見た)。これは、第5代高麗王・景宗(キョンジョン、在位975−981)の晩年から第6代・成宗(ソンジョン、在位981−997)にかけての時代を描いたもので、ヒロインのファンボ・ス(後の千秋太后)は、景宗の皇后で、成宗の妹、さらに第7代高麗王・穆宗(モクチョン、在位997−1009)の母である。 この時代の高麗は、宋朝に朝貢しており、宋と敵対関係にある契丹の圧迫を受けている女真族の侵入に悩まされたり、契丹に滅ぼされた渤海の遺民たちの処遇などの問題を抱えている。 高句麗滅亡(667年)から渤海建国(698年)までを描いた『大祚栄(テジョヨン)』にも、契丹や突厥などの北方遊牧民族が出てきたが、「日史」という観点からは、こうした大陸の諸国家や北方の諸民族との関連が見えにくい。 だが、杉山

  • 余談〜KamakuraとAmerica - heuristic ways

    中世初期の歴史を調べていて、私が興味深く思ったのは、複数の研究者たちが、たとえば「武士たちのいわば独立戦争」(郷和人)とか、源家の「明白なる宿命(マニフェスト・デスティニー)」(高橋富雄)といったように、アメリカ史の用語をアナロジカルに援用しているということだった。 私がそこに引っかかったのは、以前、渡辺京二氏の『日近世の起源』を読んだとき、渡辺氏が佐藤欣子『取引の社会』(中公新書、1974年)を参照しながら、「このアメリカ司法の当事者主義は、日中世の当事者主義的な法慣行になんと似ていることだろう」と、驚きをもって指摘していたのが記憶に残っていたからである。渡辺氏は、「鎌倉幕府法を見るかぎり、中世日には、裁判を国事とする観念はきわめて希薄」であり、「そこでは、権利も正義も各人が闘って実現すべきものであり、(中略)訴訟自体がいちじるしく当事者の決闘に類似していた」と言っている。渡

  • 日本中世初期の国際的背景 - heuristic ways

    中世史はわかりにくい。 郷和人氏が指摘している一一七〇年代の「平家政権と高麗の武人政権の類似」(『武士から王へ』)についてもっと知りたいと思って、いろいろ調べているが、日国内だけでもなかなか事実関係がややこしくて、どんどん深みにはまっていくわりには、どうにも「理解」が追いつかない。そんな感じで、このところ停滞している。もっと時間をかけてじっくり勉強していく必要があると感じている。 ただ、調べていくうちにふと気づいたのは、「平家政権と高麗の武人政権の類似」が特に注目に値するのはむしろ、それ以後の歴史が違っているからだということだった。 姜在彦(カン・ジェオン)氏は、『朝鮮儒教の二千年』の中で、こういうことを書いている。 (藤原一族の)摂関政治下における中央と武士団との関係は、高麗創業期における中央王権と地方豪族とのそれによく似ている。だとしたら高麗が地方割拠的な「旧臣宿将」を排除また

    nagaichi
    nagaichi 2012/01/03
    朝鮮は中国から科挙と州県制を入れてたんだね。封土をめぐって一所懸命やるより、官僚として王朝に俸給もらうほうが人生計算できてウマーだぜが、中華王朝式。日本はなぜかこれが定着しなかった。
  • 足尾鉱毒事件と水俣病 - heuristic ways

    石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』(講談社文庫)の中に数ヵ所、足尾鉱毒事件への言及がある。 昭和三十八年、石牟礼氏は小冊子「現代の記録」を出し、「水俣はじまっていらいのチッソの長期ストライキ、その記録」を書くが、資金難のため「一冊きりで大借金をかかえる」(p 299)。その後に、「それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期について思いをめぐらせる」という文がある。 「あとがき」では、足尾鉱毒事件谷中村残留民の高田仙次郎のエピソード*1に触れ、「私はこの章のある「思想の科学」日民主主義の原型特集号(一九六二年九月号)を座右にひきよせ、水俣病にかかわる自己の対話のよすがとしている」と記している。「谷中村の怨念は幽暗の水俣によみがえった」と石牟礼氏は見ていたのである。 第七章「昭和四十三年」の「いのちの契約書」という節には、氏が西日新聞に書いた「まぼろしの村民権

  • メモ〜川と堤防の話 - heuristic ways

    小松裕『田中正造――二一世紀への思想人』で言及されていた富山和子『水と緑と土』のことが結構気になったので、図書館で借りてみた。まだ最初のほうを少し読んだだけだが、そこで語られている近代日の河川法制定(1896年)以降の「川と堤防」の攻防の展開は、まさに「矛」と「盾」の故事成語を地で行くような話で*1、ほとんど知的な興奮を覚えた。すなわち、どんな大豪雨時の川の流量にも耐えられるように設計された堤防と、どんな大規模な堤防をも越えてしまう川の大洪水との「矛盾」。興味深いのは、今日われわれにとってお馴染みの言葉になった「未曾有」とか「想定外」という問題が、すでにここで現われていることである。 長くなるが、いくつかに区切って引用しよう。 まず第一ラウンド。 利根川の全水系にまたがる大改修工事が着手されたのは、明治三十三年であった。このときの計画高水流量は、埼玉県栗橋地点で毎秒三七五〇立方メートルと

  • 荒畑寒村『谷中村滅亡史』など - heuristic ways

    G.K.チェスタートンのブラウン神父シリーズのある有名作品(1911年発表)に、「木を隠すなら森の中へ」云々という有名な言葉がある。正確には、次のようなセリフらしい(某サイトより引用)。「賢い人は葉をどこへ隠す? 森の中だ。森がない時は、自分で森を作る。一枚の枯れ葉を隠したいと願う者は、枯れ葉の林をこしらえあげるだろう。死体を隠したいと思う者は、死体の山をこしらえてそれを隠すだろう」  足尾銅山の経営者はまず、「銅山の廃棄物(捨石)を隠すには川の中へ」と考え、それを実行したわけだが、川に大洪水が起きると、そのためにかえって近隣の地域と住民に鉱毒の被害が拡大してしまった。では、鉱毒の被害を隠すためには? 荒畑寒村『谷中村滅亡史』を読むと、奇想天外なまでに大掛かりで、ポウの「盗まれた手紙」の大臣を思わせるほどに大胆不敵な犯行の手口(トリック)が、フィクションではなく、現実に組織的に実行されたと

  • 朝鮮通信使と徳川期の儒学など - heuristic ways

    姜在彦『朝鮮通信使がみた日』を読んで、私が個人的に感動したエピソードの一つは、伊藤仁斎(1627−1705)の『童子問』などの著作が早くも一八世紀の朝鮮に伝わり、読まれていたということだった。 伊藤仁斎の第二子で、伊藤東涯の異母弟に当たる伊藤梅宇(1683−1745)が、享保度(1719年)の通信使のとき、福山藩の儒官をしていて、瀬戸内航路の港町鞆ノ浦(とものうら)で書記・成汝弼と筆談した記録が残っているらしい。そのとき梅宇は、父(仁斎)が「平素言論したところを集めて一書となし、名を『童子問』とした。明日芳洲公(雨森芳洲)に託してお贈りしたい。幸いにして貴国に伝わることは、先人も願うところであろう」と成汝弼に伝えたという。 梅宇も「朝鮮の文人たちの著作をよく知っており、成俔〔ソン・ヒョン〕の『慵斎叢話』、徐居正〔ソ・コジョン〕の『東人詩話』、柳成龍〔ユ・ソンリョン〕『懲■録』*1などにつ

  • 中世の当事者主義 - heuristic ways

    以前少しだけ読みかけて、そのままになっていた郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書、2009年)に再挑戦しようと思って、最初から読み返してみたら、ちょっと吃驚したことがあった。 第1章「古代天皇は厳然たる王だったか」の2「権力は徹頭徹尾、受け身である」という節で、中世の当事者主義について書かれていることが、渡辺京二『日近世の起源』(原著2004年)を思わせるような内容だったのである。もちろん、これは別に「剽窃」や「盗用」を意味するのではなく、両者が参照・依拠している典拠がたまたま同じだったということのようだ。渡辺氏は、笠松宏至の『日中世法史論』『法と言葉の中世』『徳政令』などを参照・引用文献として挙げており、郷氏も「代表的な法制史家、笠松宏至」に言及している。渡辺・郷両氏がそれぞれ互いのことを知らずに、共通の参考文献を基にして同じようなことを書いたということかもしれない。*1

    nagaichi
    nagaichi 2011/09/09
    「自力でその法令の非実在を証明せねばならぬ羽目に追いこまれた。」悪魔の証明だわ。
  • 小熊英二『私たちはいまどこにいるのか』 - heuristic ways

    このの発行日は2011年3月10日。その3カ月後の6月11日、小熊英二氏は脱原発デモに参加している。《日中、7千人が参加し全国最大規模になった新宿のサウンドデモでは、「社会学者の小熊(おぐま)英二さんです」と紹介されてあいさつした小熊さんが「楽しくやりましょう!」と呼びかけた。》(「6・11デモ 新旧混在 労組の旗と若者の音楽」朝日新聞、6/20) 「3・11以後」という言い方があるが、私はむしろ今問われているのは、3・11以前の平常時にどれだけのことを考え、どんな風に自らの言動に対する「社会的試練」(小林秀雄)を経験してきたかということだと思う。*1 小熊英二氏は、「あとがき」(二〇一一年一月)で、こんなことを書いている。 またドイツなどでは、七〇年代からの経済の低迷や失業率の増大があっただけでなく、八〇年代には中距離核ミサイル配備による欧州核戦争の危機、チェルノブイリ原発事故といった

  • 「沙也可」をめぐって - heuristic ways

    司馬遼太郎『韓(から)のくに紀行』を読んでいて、「あ!」と思ったことがある。 豊臣秀吉の「朝鮮ノ役」=壬辰倭乱(イムジンウェラン)のとき、兵三千人をひきいる日の武将が朝鮮側に降伏し、朝鮮側の将としてその後、武功をたてたということが、『慕夏堂記(モハダンギ)』(正確には『慕夏堂文集』)という朝鮮の古い漢文に記されており、しかもその子孫たちが今も「降倭(こうわ)の村」に残っているというのである。 私が「あ!」と思ったのは、「沙也可」(サイェガ、サヤカ)というその武将の名に、どこか見覚え(聞き覚え?)があるような気がしたからである。司馬氏は、「沙也可とは日名を朝鮮漢字に音(おん)だけうつしたものだが、サヤカなどという日名はちょっとありそうにない」ので、「サエカに似る名なら、たとえばサエモンと考えるとどうだろう」と言っている。「可は筆記する場合に門とよくまちがう」ので、もとは「沙也門」(サイ