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言語に関するnamgenのブックマーク (20)

  • δ(d) / λ(l)の差異 - 記憶の彼方へ

    昨日まで、英語のOdysseusはギリシャ系の語彙で、Ulyssesはラテン系の語彙だと私は思い込んでいた。英語のUlyssesはラテン語のUlissesの直系である。しかし、ラテン語のUlissesの素性はラテン系ではなくあくまでギリシャ系なのだということに気づかなかったのである。今夕、ストラスブール在住の言語学者小島剛一さんからの指摘によって目から鱗が落ちた。ラテン語のUlyssesはギリシャ語名Οδυσσεύςの方言形Ολυσσεύςから来たものだったのである。つまり、ギリシャ語名における「δ」と「λ」の一文字の差異が、ラテン語名ではOdysseusとUlissesの差異にまで広がり、その一見した差異の大きさの故に、よく調べる前に、Odysseusはギリシャ系の語彙、Ulissesはラテン系の語彙だと思い込んでしまっていたのである。しかし、Ulissesも歴としたギリシャ系の語彙なの

    δ(d) / λ(l)の差異 - 記憶の彼方へ
  • 言語の実像を作り直す (3) - 現在思想のために

    4 正統的言語探究が描出してきた言語イメージに拮抗しうる、ほとんど唯一の言語の像を提出した者の代表格として、メルロ=ポンティ(M. Merleau-Ponty)をあげることができます。 彼によれば、正しく概念化された限りでの発話――彼はそれを「語る発話」(parole parlante)、ときには「原初的発話」(parole originelle)とも呼んでいますが――は、<仕草>(geste)のようなものである、と言います。彼が言うgesteというものは、表情ないし表情をはらんだ身体の動きのことです。言い換えるなら、彼は言語という記号過程を身体の振る舞いになぞらえるわけです。あるいは、言語は所作の類比(analogie)だと言うのです。こうした異色の言語理解を、今後、「言語と所作の類比理論」(簡単には「類比理論」)と呼ぶことにしましょう。 先に確かめたように、言語はモノの一面をもちます。

    言語の実像を作り直す (3) - 現在思想のために
  • 菅野盾樹: 現在思想のために - 言語の実像を作り直す (1)

    〔すでに公にした、一連の「言語のイメージングをやり直す」(9日分)という考察を1時間程度の講演のスタイルでまとめてみました。以前の記述に比較して打ち出したい論点が鮮明になっていればいいのですが。〕 初めに私の問題意識について簡単に述べましょう。言語とは何か、という問いに対して人々はあらかじめ一定の了解を持っています。その了解は、一部は経験や常識に、一部は言語学や言語哲学などの学問知を源泉としています。ここで現行の<言語>という観念の内容を問い直してみたいと思います。 なぜそうした問いを立てるのかと言うと、20世紀以来の言語探究の動向のなかで、私なりに、例えば日常言語派の研究、あるいは言語行為論、語用論的探究(その延長としての関連性理論)、レトリック研究、コミュニケーション論、認知言語学ないし認知意味論の研究、などに触れるにつけ、従来の<正統的言語学>が依拠する言語観に限界があることを痛感せ

    菅野盾樹: 現在思想のために - 言語の実像を作り直す (1)
  • 言語の実像を作り直す (2) - 現在思想のために

    〔この講演で理論的ターゲットにしたのは、あくまでも<言語音>であって、<言語>ではない。単一の言語音では言語と呼びうるような記号系にはならない。大雑把に言うと、言語とは語彙と文法のセット(ソシュールのいう<言語記号のシステム>としてのラング)なのである。この講演の趣旨は、言語以前の(つまり沈黙裡の)記号環境に人間が<音>という素材を初めて記号化するに至った経過を、一編の形而上学的物語として綴ってみることにある。実際にこの話を人前で披露したところ、聴衆の中にはこの点に関して誤解する人がいたようである。以上を前置きにして前回の続きを掲げよう。〕 3 ソシュールの形相主義が20世紀以降の正統的言語学にいわば裏切られた誘因には、コミュニケーションとしての言語に関するソシュールの捉え方が影響したのではないでしょうか。(話が前後しますが、言語の機能にはさまざまなものがありますが、それらを二つのCで集約

  • 現在思想のために

    4 ソシュールの記号概念 彼による記号の分析は――この点はうっかりすると見過ごしがちだが――実に重大な含意を伴っている。 第一に、彼の記号概念とともに、記号への指示論的アプローチからカテゴリー論的アプローチヘの転換が決定的に成就されたのである。第二に、この転換には、形而上学ないし世界観の更新が伴っていた。常識的実在論から内部存在論への更新である。どういうことか、しばらく説明を試みたい。 ソシュールは、ジュネーブ大学における有名な講義で、現に流布している言語理解を「名称目録(nomenclature)観」と呼んで厳しく批判した。この批判は例えば次の遺稿にも読むことができる。「言語哲学者たちの考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせる。つまりアダムはさまざまな動物を傍らに呼んで、それぞれに名前をつけたという。それは事物の名称目録という考え方である。これによれば、まず事物があって、それから記号

    現在思想のために
  • 極端大仏率Returns! :: E電と山犬

    E電と山犬 先日,ひさしぶりにトランプゲームをやった(「大貧民」のルールをやっと憶えたぞ。でもすぐに忘れるんだろうな…)。そのとき,ふと気がついたのだが,日語にはトランプの「スート」に対応する言葉がないですね。ルールの説明をするときにとっても不便。「あの,スペードとかハートとかの区別」とか言ったり,「例えばスペードに続いてはスペードしか出せない」とかいう個別の例で示したりすることで意志の疎通を計っている。 あきらかにわれわれの頭の中に概念を共有しているのに,それに適切な言葉がないって例は珍しいんじゃないだろうか?「切札」とか「ババ」とか,他の必要な単語は対応する日語があるのに「スート」はなんでないのだろう。花札とかのそれまでの日のカードゲームにはない概念だからだろうか? …と書いて,ちょっと考えると「姓名」の「名」,つまり英語で言う「Given Name」なんてのもそうだから,同じよ

  • ユクスキュル・ルネッサンス (3) - 現在思想のために

    環世界論は<合理性の基準に規制された知的な探究>という意味での<科学>ないし<学問>のパラダイム転換を要請する ユクスキュルの環世界論について考察するためには、トゥーレ・フォン・ユクスキュル(Thure von Uexküll)の論文が貴重な手がかりになる。ここでは、アクセスが比較的に容易で、筆者が参照できた三つの論文をあげよう。①「環世界論の研究」(思索社版『生物から見た世界』に所収)、②Introduction: Meaning and science in Jakob von Uexküll’s concept of biology (Semioticca, 1982 Vojume 42-1)、③Unit of survival (Semiotica, 2001 134-1/4 )、これらである。 〔トゥーレ・フォン・ユクスキュルはユクスキュルの実子でウルム大学名誉教授、医師。以下の

    ユクスキュル・ルネッサンス (3) - 現在思想のために
  • ユクスキュル・ルネッサンス (2) - 現在思想のために

    環世界論における<主体> <主体>概念を生物学に導入した功績は、確かにユクスキュルに帰せられるべきものである。しかし問題は、ユクスキュルが、古典的な<主体>とは一線を劃した<主体>概念を新しくどのように構想したか、それを詳らかにすることだろう。環境に属する生命体の研究という意味での<生物学>を構築するためには、理論構成の要素として<主体>概念が不可欠であるという主張は、確かに目覚しい意義をもつだろう。しかし思想史における<主体>概念の悪名高い多義性とその歴史的変遷については、初学者でも知っている。生物学にとってなぜそしてどのような意味で<主体>が必要なのか――この点を明らかにしなくてはならない。 前述のように、生命体としての人間が生きている<主体>は、認識活動がそのまま生命活動と重なり合うような形で把握されなくてはならない。しかも、人間にあっては、<認識>の様態が他の生命体とは異質な面をそ

    ユクスキュル・ルネッサンス (2) - 現在思想のために
  • ピンカー 対 トマセロ (6) ”言語獲得”の「問題」 - 現在思想のために

    大脳への局在 言語的サヴァンの能力や言語的障害者の無能力が大脳のどの部分に起因しているかについて多くのことは分かっていない。もっとも、さまざまなタイプの失語症の研究、さらに大脳の働きを画像解析するあらたな技術が進んだおかげで、大脳と言語との関係についてはかなりの知識の集積がある。とはいえ大脳について知識が増せば増すほど、逆に、言語機能が大脳のどこに局在するかを正確には言えなくなっている。 ピンカーも文献を示しているが、大脳への言語機能の局在については、ヒトの集団〔大雑把に言えば<人種>〕によって著しい変異が認められるし、脳に損傷をこうむった子供は、大脳の普通とは異なる場所で言語機能を営むようになる。 しかしトマセロは、大脳への局在の議論が生成文法の生得説を強化するわけではないという。局在化を説明できるほかの仮設がたくさんあるからだ。 例えばBeverは、言語処理のある側面が、大脳機能の一定

    ピンカー 対 トマセロ (6) ”言語獲得”の「問題」 - 現在思想のために
  • 言語記号の恣意性は正しいか - caguirofie

    もくじ ささやかなソシュール批判→日 ソシュール批判のこと( memo のみ)→日 《言語記号の恣意性》に対する反証例(例示表)→[言語]ソシュール批判・補説 - caguirofie041023 《言語記号の恣意性》に対する反証例(上の表示に対する補説)→2006-12-22 - caguirofie061222 《maru =丸》について→2006-12-21 - caguirofie061221 日語において子音が相認識を持つ(音素がみづから意義素でもある)という仮説→2005-06-17 - caguirofie050617 言語記号の自然的な絆について→2006-05-09 - caguirofie060509(上と同じもの) [序説・にほんご]:序説・にほんご - caguirofie050805 ささやかなソシュール批判 ソシュールの思想 作者: 丸山圭三郎出版社/メー

    言語記号の恣意性は正しいか - caguirofie
    namgen
    namgen 2006/11/11
    あとで再読する必要。
  • ■ - 作品メモランダム

    ★ヴィルヘルム・フォン・フンボルト『双数について』(村岡晋一訳、新書館、2006/09、ISBN:4403120180) 非母語を学ぶなかで、母語には見受けられない文法要素に出くわすと、奇異な感じを受けるということがしばしばある。 サンスクリット、アラビア語、ギリシア語、ヘブライ語などの言語に触れると、「双数」(両数とも訳される)というものと出会う。 双数とはなにか。英語の名詞には単数形と複数形といった「数」の要素がある。双数とはそうした「数」の一種で、対象がふたつの場合に用いられる形である。 たとえば古典ギリシア語の場合、双数は対になった対象に用いられる。古典ギリシア語のνεανιαςという単語(「若者」という意味の名詞)を例にとってみる。νεανιαςは単数(主格)だが、これが複数(主格)ではνεανιαιとなり、双数(主格・対格)ではνεανιαと形が変わるといった按配である。 なる

    ■ - 作品メモランダム
  • 視えない絵画を知覚する(5) と空間認知 - 現在思想のために

    空間を記号系で表現する方式にはじつにさまざまな種類がある。言語による記述、地図による描写、座標、写真(インデックス)、フローチャートなどなど。 前回指摘したように、地図ひとつとりあげても、それに含まれる下位の記号系としての地図がまた多岐にわかれることになる。こうした実情を念頭に、最初の問い――盲人が経験する空間の構造を表現する記号系は「基的に」どのようなものなのか、という問い――をあらためて吟味してみるなら、それが一つの解答を要求する類の問いではないことが分かる。 この点を説明するには、地図(例えば<自宅からJRの駅までの地図>)と発話との比較が有益かもしれない。例示した地図の表現が種々さまざまであり、そのうちのどれを実際に使用するかは、<使用の目的>次第である。 発話にも似たような事情が伴う。聞き手に何かある行動の遂行をしむける発話(言語行為論でdirectiveに分類される発話)は決

    視えない絵画を知覚する(5) と空間認知 - 現在思想のために
  • 続カタカナ表記 - 平野啓一郎 公式ブログ

    トラックバックを見て、Danさんが、以前、江島健太郎とcnetでやりとりした時にコメントをくださった方だと今頃気がつきました。 「新潮」11月号から始まる長篇『決壊』の連載第一回目のゲラを見直しながら、カタカナ表記問題をまた考えてしまいました。どうも、僕の発想には、小説を書くという習慣から来ているものもあるようです。 作品を書くと、最後に校閲をするのですが、その際、表記について、例えば、「はなした」、「話した」など、平仮名と漢字とが場面によって混在している場合には、統一するか、そのままにするか、という方針の確認があります。僕は、どちらかというと統一したい気持ちが強いんですね(今回の作品では、むしろ、場面ごとに不統一のまま残そうかとも考えているのですが)。そうすると、カタカナ表記の際に、vの音を、「ヴ」という表記で統一したい気持ちに駆られます。これは、rの音を機械的にラ行に対応させているのと

    続カタカナ表記 - 平野啓一郎 公式ブログ
    namgen
    namgen 2006/09/22
    うはっ!
  • 視えない絵画を知覚する(4) 盲人の空間認知 - 現在思想のために

    <盲人の絵画>に関するケネディの研究で最も注目に値する観察の一つは、盲人が<遠近法>(perspective)を――少なくともその基構造について――晴眼者と同様に理解している、ということだろう。というのも、従来、遠近法はもっぱら視覚に固有な空間の構成法だと信じられてきたからである。 そもそも<遠近法>は、<視点>と<視線>という要因――いずれも視覚的な要素――によって成り立つと思えるからだ。(この点はperspectiveが<透視画法>と訳されることにもうかがわれる。そもそも英語の perspective はラテン語のperspectivus に遡る。これは、perとspect-から成る語であり、per=through + -speicio =to look、つまり<前方を透かして見る>を意味する。) ある女性の被験者(三歳のとき全盲となった)は、一個の立方体とL字形の積み木の配置をいろ

    視えない絵画を知覚する(4) 盲人の空間認知 - 現在思想のために
  • 視えない絵画を知覚する(3) 共感覚と音象徴 - 現在思想のために

    話を進める前に、前回の記事で取り上げた<共感覚>について補足しておきたい。 視覚障害者の「絵画」という主題とのかかわりでなぜ<共感覚>が問題化されるかといえば、絵画は視覚藝術であるという誤った認識を生むのが、<感覚様相の縦割り理論>だからである。つまり、この種の理論を克服するには<感覚様相>なる観念を脱構築する必要があり、その際に<共感覚>というリアルな現象が多大のヒントを恵んでくれるはずだからだ。 <共感覚>を異常で例外的な病理現象ときめつけるのはきわめて不十分であろう。もちろんそれを<病理現象>に分類するのには一通りの道理がある。メスカリンなどの薬物作用や特殊な意識状態にある被験者にこの種の現象が頻出するのは事実だからである。 しかし、前回確認したように、人の日常的知覚においては、あらゆる個別的様相における<感覚>がそのまま<共感覚>という様態で実現される。例えば対象が視覚のうちに出現

    視えない絵画を知覚する(3) 共感覚と音象徴 - 現在思想のために
  • 視えない絵画を知覚する(2) 感覚様相と共感覚 - 現在思想のために

    感覚のメレオロジー、あるいは換喩論理(metonymic logic) ケネディの論文「盲人はどのような絵を描くか」が立証したのは、直接には、視覚障害者(先天盲と早期失明者)も――この助詞には価値の含意はない――絵を描く能力をもつ、という事実である。これは多方面に影響するところの多い知見だろう。 まずそれは、<絵画>という表現とは何か、という問いに対して決定的な効果を及ぼす。従来、絵画は視覚藝術(visual arts)だとされてきた。しかし盲人も絵を描くことができるのだから、この言い方は通らない。もちろん、ケネディの論文に掲出された「作品」が藝術の域に達しているかどうかは疑問かもしれない。しかし逆に、それを藝術ではないと断定する根拠も明確にはないのだ。(もちろんこれは個別の作例によりけりだが。) 我々の身近で盲人のアーティストがセミプロの画家として活動しているのをご存知だろうか。京都在住

    視えない絵画を知覚する(2) 感覚様相と共感覚 - 現在思想のために
  • 視えない絵画を知覚する (1) 盲人の絵と感覚 - 現在思想のために

    絵画とはなにを言うのだろう。この問いに応じるのはそれほど安易な仕事ではない。例えば、<絵画>をこう定義してみる――空白の平面を図形や色彩でうめてゆくことで何かしらの視覚的イメージ表現する方法であると。だいたいはこれでいいのかもしれない。ただひっかかるのは――以下に掲げる理由で――主として<平面>それに<視覚的イメージ>の二点である。じつはその他の要素はまあ付帯的なものだから、絵画の定義に関してこの二点を問題視するのは、実際には絵画がなにかがまるでわかっていないことに等しい。 まず絵画が平面的かというと、必ずしもそうではない。いわゆる日画では問題になりにくいが、油彩画の場合、文字通りに平面的な絵などはないといって過言ではない。(もちろん平面的な絵画はりっぱに存在している。それを否定するのではなくて、一般的にいって絵画が平面の表現かどうかが問題なのである。)絵の具を厚く塗り重せることで効果を

    視えない絵画を知覚する (1) 盲人の絵と感覚 - 現在思想のために
  • 言語音のシンボル機能への展開 - 現在思想のために

    <言語音の誕生 ――共鳴する身体>と題したブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060610)において、初発の言語音の生成を機能論的観点から分析する道筋をしめしたのだったが、その際、初めての言語音が一面ではアイコン(類像)他面ではインデックス(指標)として機能することを指摘した。しかしながら、パースの記号分類学における第三の記号タイプ、すなわち<シンボル>については放置せざるを得なかった。 あらゆる記号機能が少なくとも胚種として原初の言語音に内属しているのでなくては、それがいつか生起するということはありえない。もちろん問題は十全に展開をとげた言語体系ではない。われわれが形而上学的顕微鏡で拡大しようとしたのは、言語体系が音声質料から立ち上るために深く穿たれたいわば蟻の一穴にすぎない。 ところが、このあまりに小さな音声がすでに多面的な機能をそなえていなく

    言語音のシンボル機能への展開 - 現在思想のために
  • へのひとつのmutantをめざして - 現在思想のために

    きっかけは何でもいい。以前からブログを立ち上げようとはおもっていた。 私生活をさらしておのれを顕示するのは趣味ではないし、匿名をいいことに他者の言説に与太めいた批判をたれながすなど傍目ながらウンザリする。 書く動機ははっきりしている。すこしばかり年季をいれてなど読んできた自分自身の職業生活のよどみ――そこに攪乱を持ち込みたいのだ。 梅田望男『ウッブ進化論』に読み取れるヴァーチャル世界への楽観的構えは、インターネットに対する悲観論がかずあるなかでは新鮮だった。グーグルを一方的にもちあげるのではなく、現状のありのままの確認のうえにたった評価は妥当なもののようにおもえる。はじめは正直眉につばをつけつつ読み進めたのだが、読了したときには半ば説得されていた。たしかにWeb ver.2がありうるかもしれない、ということだ。 ブログをものするに際して、この<はてなダイアリ>を場所として選んだのはこの読

    へのひとつのmutantをめざして - 現在思想のために
    namgen
    namgen 2006/08/31
    prologue
  • 人気、人形、人情、人数、人間、人民(にんみん): 極東ブログ

    昨日のエントリ”極東ブログ: 国民による国民のための国民の政府”(参照)でいろいろ愉快なコメントをいただいた。歴史認識についてはゆるりと議論すればいいし、他の意見の相違の類は面々のおんはからいにするがよろしかろう、多事争論ではあるが、にしても基的な部分でテキストが読まれてないっていうか、昨今の人は言葉の持つ歴史の感覚っていうのはなくなっているのかなと思うことはあった。特にこれ。 どうせ「人民はアカっぽい」とかいう意図を込めてるんだろうが、ミエミエ。finalventなんてミラーワールドでモンスターに喰われちゃえ。 妄想メソッドやんとか言わない。左翼って私の知らない心とか批判してくださるのがテンプレだし、その土俵は野暮過ぎ。そんなことはどうでもいいのだけど、”どうせ「人民はアカっぽい」”という発言にちとびっくりこいた。エントリを読んで貰えばわかると思うけど、「これは近代日の造語ではない

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