皆様からの肝練り情報をお待ちしています。 「甲子夜話よりもっと古い文献や実際に行われていたという証拠がある」 「肝練りという単語の初出はこの作品ではないか」 「こんな作品にも肝練り行為が登場していた」 等、ご存じのことがありましたら当まとめのコメントへ是非。 続きを読む
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新宿駅西口の地下イベントコーナーで新宿駅の1/100立体模型を展示中である。 地下道がどうつながっているか、出口どうしがどれぐらい離れていたのかがよく分かる。 クリアしたあとのダンジョンを眺めているような楽しさである。自分が歩いた軌跡の答え合わせだ。 ここはこうなっていたのかー、とか言ったりして。 最高に面白かったので昨日見てきてすぐに記事を書いた。
叩かれる先生たち 数日前の茂木健一郎氏のブログ記事に限らず、かけ算の順序にこだわった教授法が不毛だとしてネット上で叩かれているのはよくみかける。Wikipediaにもページが設けられているし、この問題について考察した書籍も出ているようだ。 かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー) 作者:高橋 誠発売日: 2011/05/27メディア: 単行本(ソフトカバー) 要約すると、日本の小学校ではかけ算を「かけられる数×かける数」「1あたり量×いくつ分」という順序で考えるように教えることになっているらしく、「子どもが6人いて、1人に4個ずつみかんを配ります。みかんは何個必要でしょうか」みたいな問題を解く時に「4×6=24」と書けば正解だが、「6×4=24」だと不正解ということにされてしまい、そういうプリントを見つけた親が「こんなバカなことがあるか」と画像をTwitterでさらして教師を叩く
Sun MicrosystemsがOracleに買収されたのが2009年ですから、あれから7年が経ちました。 2013年、Javaは大人になったはずだった 僕は2013年に「イマドキのJavaとORACLEについて - arclamp」という記事をアップし、次のように書きました。 そんなわけで「ORACLEはJavaにコミットしているのか?」という質問が無意味なぐらい、ORACLEはJava技術だけではなく、Javaユーザーの方を向いているのです。 もちろん、ORACLEは(SUNに比べて)イノベーションが足りないとかスピード感がないとか批判もできるのですが、これだけエンタープライズのユーザーが増えた中では、Javaの後方互換性を保ちつつ、着実に進化していく、つまりは引き続き安心してJavaを使うことができるというのは大きな価値でしょう。 そう、Javaは本当の意味でオトナになったのかもし
中国の深センに、油絵ばかり売っており、数百円で買える村があるという。 まず「油絵ばかり売っている」という状況がよくわからないし、油絵ってそんな値段で買えるものなのだろうか? いったいどういうことなのか、実際に行ってみた。
通常、C言語の関数ポインタは、クロージャではない。したがって、関数を部分適用したり、カリー化したり、ローカル変数をキャプチャーした関数ポインタを返したりすることはできない。しかし、実際にC言語が動作する環境のなかには、そのようなことが実現できるものがある。PowerPC64 System V ABIは、そのひとつである。 PowerPC64 System V ABIは、Linux等において高級言語のコードをPowerPC64機械語に翻訳するさいの取り決めである。 多くのABIでは、関数ポインタは関数の最初の命令のアドレスに翻訳されるが、PowerPC64 System V ABIはそれとは異なる定義をしている。具体的には、関数ポインタは以下のような構造体 struct Funptr { void *jump_target; /* ジャンプ先 */ void *initial_r2; /*
12月11日に弊社より菅野完(著)『日本会議をめぐる四つの対話』を出版いたします。出版に先駆け、本書の「はじめに」を無料で公開いたします。ご一読いただければ幸いです。なお、Amazonからも予約可能ですので、ご利用いただければと思います(Amazonの予約はこちら)。 ――――――――――――――――――――― いつの頃からか我々の社会は、「嗤う」ことを覚えた。 田畑の泥や工作機械の油にまみれて働く人々を嗤い、日々の生活と我が子の安寧を守るため汲々として働く市井の人々を嗤い、田園や陋巷に身を置き都の華やぎに加わろうとしない人々を嗤うようになった。こうした嗤いは、人の世の常なのかもしれない。 だが、我々の住む社会はいささか特殊だ。我々の社会はいつしか嗤いの対象を、社会の全ての方面に向けてしまった。我々は嗤う。徹底的に嗤う。市民生活の向上を希求する声を嗤い、国策や企業活動によって被害にあった人
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