「音速滑走対体」が全国から注目された名城大学には、戦後初の国産旅客機YS-11の開発に参加した土井武夫氏(1904~1996)も教授に迎えられました。音速滑走対体に挑戦した小澤久之亟(きゅうのじょう)教授(1905~1988)は重爆撃機「飛龍」の設計者ですが、土井教授も戦時中、戦闘機「飛燕」など多くの戦闘機を生み出したことで知られ、名城大学には小澤教授と同じ理工学部交通機械学科の教授として1966年に就任しました。 理工学部の杉村忠良教授(航空工学)は1968年から助手として、母校でもある名城大学での教員生活をスタートさせました。小澤教授はすぐに3 回目の理工学部長(1969年4月~1971年3月)、学長(1971年4月~1972年3月)となったため、杉村教授は、小澤教授が担当するゼミ生の卒業研究等の指導をしながら、「航空工学の分野では大先輩である土井教授から教員として育ててもらった」と言