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内田樹に関するnekosichiのブックマーク (2)

  • 人間が人間であるための神について - 内田樹の研究室

    前に「辺境ラジオ」で名越康文先生と西靖さんとおしゃべりしたときに、「うめきた大仏」の話が出た。 これは海野つなみさん(このペンネーム、今はちょっと口に出しにくいですね)というマンガ家さんが投稿してくれたものである。 大阪駅の北ヤード開発はずいぶん前から衆知を集めて議論されていたのだが、いまだに話がまとまらないようである。 昨日もある雑誌から「北ヤードの再開発について」、三菱地所の役員ふたりと鼎談して欲しいというご提案を頂いた。 もちろん私が「うめきた大仏」構想の推進者であるということなどご存じないままに出た案であろうから、「私の話を聞いたら、不動産会社の役員さんたちは激怒されることでしょう」とお断りした。 「激怒」くらいで済めばいいが、そのせいで「誰だ、ウチダなんて野郎を連れてきたのは!」と上司に叱責されて起案した担当編集者が進退伺いとか減俸処分とかいうことになっては気の毒である。 でも、

  • 原則的であることについて - 内田樹の研究室

    原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている。 原則的にふるまうのはよいことであると言われるけれど、これは半真理であり、取り扱いに注意がいる。 というのは、原則的であることが必須である局面があり、原則的ではない方がよい局面があるからである。 その見極めがむずかしい。 例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。 無原則な親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。 あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。 子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。 そういう親は「乗り越えやすい」からである。 親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。 それでよいのである。 親はそのためにいるの

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