「批判的工学主義」のミッションとは何ですか?1──定義・マニフェスト編 | 藤村龍至 What is the Mission of "Critical Engineering-ism" ? 1: Definition / Manifesto Edition | Ryuji Fujimura 二〇〇〇年以降、東京の都心部では高速で大規模な開発が進み、湾岸地区ではタワーマンションが、バイパス道路沿いにはメガショッピングモールが、それぞれ大量に建設されている。それら都市・建築をめぐる量、規模、変化の速度に対して、社会学者や哲学者は建築家の議論の遅れを指摘するものの★一、現実の都市空間への働きかけとしては「脱空間化」★二といった建築家不要論や、「高速道路やタワーマンションはほぼ自動的に設計される」★三といった諦観に留まっている。 商業空間や不動産開発の場面に代表されるように、人々の心理を巧みに刺激
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、 「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」 などと問われる場合もある[注釈 2]。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問
2024.2.20 第十章 絶滅――小説の破壊的プログラム(後編)|福嶋亮大 2024.2.16 第十章 絶滅――小説の破壊的プログラム|福嶋亮大(前編) 2024.1.30 第九章 環境――自然から地球へ(後編)|福嶋亮大 2024.1.26 第九章 環境――自然から地球へ(前編)|福嶋亮大 2024.1.16 勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(後編) 2024.1.9 勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(前編) 2023.12.22 第八章 超‐感覚的なものの浮上――モダニズムの核心(前編)|福嶋亮大 2023.12.20 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第38回 第5章-4-5循環のバリエーションを考える:4つの観察モデル|井上明人 2023.12.8 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第37回 第5章-4 「循環」概念
リバタリアニズム(英: libertarianism)は、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場である[1][2]。経済的な自由を重視する新自由主義と似ているが、リバタリアニズムでは個人的な自由をも重んじる[3]。他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は基本的に自由であると主張する[4]。リバタリアニズムを主張する者はリバタリアンと呼ばれる。日本語では完全自由主義、自由人主義、自由至上主義、自由意志主義などの訳語がある。 なお、哲学、神学、形而上学においては決定論に対して、自由意志と決定論が両立しないことを認めつつ(非両立説 incompatibilism)、非決定論から自由意志の存在を唱える立場を指す[5]。この意味では自由意志論などと訳される場合が多い。 語源と歴史[編集] Le Libertaire
ホッブズは『リヴァイアサン』という本の中で、国家(やその権力や社会秩序)がどこから生まれるかという謎にひとつの答えを出した。 それも「神様のような人間以上のものがうまく設計したのだ」というご都合主義ではないやり方でだ。 原子論が「自然は運動する原子の集まりだ」と考えるように、ホッブスは社会を人間のあつまりだと考えた。 そして人間の性質からはじめて、人間の集まりで何が起こるか、人間と人間が関わりあうことから何が生まれるかを考えた。 どんな人間にもあてはまる性質は、「死にたくない」という欲望と、「おれが、おれの方が」という欲望を持っていることだ。 「おれが、おれの方が」という欲望は、死ぬまで無くならない。 だから、このままだと、いろんなものを取り合って、人間は死ぬまで争い、どんどん死んでいくことになるだろう。 だが人間には「死にたくない」という欲もあり、そして多少はものがわかる能力もある。 こ
2010/10/197:0 「消極的義務」の倫理 ――「トロッコ問題」の哲学者フィリパ・フットとその影響 小山エミ ◇「トローリー(トロッコ)問題」という思考実験◇ 今月三日、イギリス出身の倫理哲学者フィリパ・ルース・フットが九〇歳で亡くなった。あるとき「女性の哲学者はどうして少ないのか」というシンポジウムに参加してみたら、発表者が全員男性哲学者だった、というような冗談みたいな男性優位社会でもある哲学界において、二十世紀中盤におけるアリストテレス的な徳倫理の復権に大きく貢献した哲学者の一人であり、前世紀を代表する女性哲学者の一人として記憶されることになるだろう。 「あなたは路面電車の運転手で、時速六〇マイル(約九六キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業
昨日のエントリ「右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である」に対するはてなブックマークのコメントで、経済学者の松尾匡(ただす)氏による「右翼と左翼」の用語解説にリンクがあった(bando_alphaさんによる)。 松尾匡のページ - 用語解説:右翼と左翼 http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html <世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「ウチ」に味方するのが右翼である。 それに対して、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「下」に味方するのが左翼である(図1)>。 <ところがややこしくなるのは、まずもって、右翼も左翼も自分の切り分け方を当然の土俵のように思い込んで、相手との対抗軸を組み立てていることにある。お互い敵である相手が、自分と同じ切り
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