⇒はてなブックマークプラス 特定ユーザーのブコメは非表示にできるとかの機能があったら、いいのに。 と、見ると、あれか、プラスがついてないぶこめをdegradeする働きがあるのか。ふーむ。
⇒はてなブックマークプラス 特定ユーザーのブコメは非表示にできるとかの機能があったら、いいのに。 と、見ると、あれか、プラスがついてないぶこめをdegradeする働きがあるのか。ふーむ。
まあ、そうでしょう。身を引くべきだということ。結論からすれば。そして、それは小沢はもうわかっているでしょう。 以下は野暮で。 政治家に不祥事が持ち上がった時、問われるのは法的責任だけではない。重い政治責任を負わねばならない。政権をうかがう大政党の党首となれば、なおさらである。 それは違う。今回のケースでは不祥事を決めたのは検察で、検察の道理というのを朝日というジャーナリズムがどう判断するかによる。そこを短絡的に世論と一体化した正義であってはいけない。今回の流れでは、小沢聴取報道をネグっていたあたり、あまり朝日は褒められたものではない。 民主党の小沢代表の公設第1秘書が、西松建設の違法献金事件で起訴された。政治資金規正法違反の起訴事実は、逮捕容疑とほとんど変わらず、あっせん利得や収賄など別の容疑に広がることはとりあえずなかった。 つまり、朝日内部でそこが割れていたのだろうと思う。ただ、この事
生きているもんだという驚愕感がある。 私は20歳まで生きられないなと思っていた。ティーンエージで自殺してもなんら不思議でもなかった。ただ、50歳まで生きて見ると、そうでもない、いわく言い難いものが自分を守っていたとしか思えないものがあると思うようになった。スピリチュアルになってしまうのもどうかと思うけど、今どれほど生きづらい人でも今気がつかない大きな力のようなものをいつか感じる可能性はあると思う。 邱永漢も言っていたが、青春で無謀な人生を選んでも、身体は50歳までは生きられるがそのあたりで死ぬ。むちゃくちゃやっても50歳まで生きられるという人生もあるのだろう。下天とはそういうものなのでしょうね。信長も謙信も50歳で終わりと思って生きていたいようだし。 無謀な人生というのは、意外とテンプレで、飲む・打つ・買う、つまり酒、賭け事、女。それと加えるなら自意識過剰。 自意識過大というか自分の才能に
NHKが比較的わかりやすい⇒NHKニュース 小沢代表の団体会計責任者逮捕 西松建設による裏金事件に関連して民主党の小沢一郎代表の資金管理団体が、法律で禁止されている企業献金と知りながら西松建設から2000万円余りの献金を受けたのに収支報告書にうその記載をしたとして、東京地検特捜部は、政治資金規正法違反の疑いで団体の会計責任者で小沢代表の公設第1秘書や西松建設の前の社長ら3人を逮捕しました。 つまり、政治家個人が、企業からの献金を受けてはいけない、ということ。 なのに、小沢一郎秘書は、企業献金ではないと、ウソこいたから、タイーホ。 東京地検特捜部の調べによりますと、大久保秘書は「陸山会」が平成18年までの4年間に実際には西松建設から2100万円の献金を受けたのに、西松建設のOBが代表を務める2つの政治団体からの寄付だったと収支報告書にうその記載をしたとして政治資金規正法違反の疑いが持たれてい
ネタ⇒常に意識してむなしい『ほかの人に好かれるための9か条』 - finalventの日記 まあ、あれなんですよね、好かれる努力をして努力の結果好かれるようになったとき、それをポジティブに感じられる人はいいけど、たぶん普通に、なんておれはブ男・ブスなんだろ、なんで自分なダメなんだろと、そう運命を受け止められるくらいの普通の内省力のある人なら、好かれる努力の結果を、ああ、俺ウソついているな、私そのウソがばれたら嫌われるんだろうな、と心のどこかで思う。 身だしなみとか声とか、そういう変えられる部分が変わって、人から好意をもたれるようになるのは、まず最初に、そうではない自分というのを受容してくれる他者との関係があって、いわゆる好かれる特質というのはその関係の変化に付随するものだと思う。 たぶん、だから。 嫌われるようにひねくれることはないけど、今の正直な自分の気持ちのままを広げられる関係性のなか
なんか共感を求めているあたりが、ばっちい感じがするんだよな、俺的に。 追記 起 ⇒はてなブックマーク - ワロスとかwとかネットにありがちな嘲笑なんけど - finalventの日記 2008年08月10日 p_shirokuma 共感を求めることがばっちい、のではなく、嘲笑を経由して共感を求める、というのがばっちい、と仰りたいんだと思うことにした。 ええ、そういうつもりで思ったことでした。 っていうか、Twitterステータスの放言程度のことなんだけど。 追記 承 2008年08月10日 welldefined そんなの場合によりけり。"俺的に"と書きつつ共感を求めるようなケースだってあるし。 皮肉のつもりなんでしょうね。もうちょっとネガなひねりはできなかったかな。 2008年08月10日 FTTH # |ω・)…… ワロスw これもね。ベタだな。ネガコメ乱造に甘えているんじゃないかな。
⇒404 Blog Not Found:News - ガキにはケータイ持たせるべからず言う前に 何をするべきか、何をするべからずかグダグダ言う前に、まず先立つものをなんとかしろよ。 ぶくま⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:News - ガキにはケータイ持たせるべからず言う前に で、元エントリだけど、子どものケータイを持たせるべきかという問題と日本国は教育にもっと公費を充てろよという問題がごっちゃごちゃ。 前者の問題が、後者に包括されるという前提でもあればまだだけどというか、そういう前提を強いている主張だけど。 つまり、よくあるごみ箱議論、ガベージ議論になっている。 せめて、問題を切り離したらどうだろうか。 でないと、ケータイを持たせるかどうかという問題が消えてしまう。 たぶん、ネット的にはというか、はてな的には、「ケータイをガキに持たせない、あんたたちバカです
自分は生き延びているから違うかもしれないし、自殺というのは結果であって、プロセスは多様かもしれないし、それをいうなら同じプロセスでたまたまダセーで生きていることもあるかもしれない(俺っぽい)し。 でも。 僕は自殺というのは自己分裂じゃないかと思っている。 「僕は死ぬ」というのじゃなくて、分裂した自分が「死ね」と言っているのだと思う。そのボリュームを下げるとなんとか生きられるというか、そもそも他者が示した死を僕は確信できないんだよね。 分裂した自分というのは、いちおう無意識といってもいいのだろうと思うけど。 けどというのは、ネットとかやっていて、死ね死ねよく言われるのだけど、それも、結果的には自分の無意識と同質のプロセスなんじゃないかと思う。 ある人は別の人の死の分裂を引き受けるというか。 引き受けさせてしまった私のカルマは深いというか。 生きるというのは、してみると、ダセーでなければ、統合
また殺人事件の判決を一般国民はどうみているかを調べると「重い」は3%「妥当」は17%しかなく、「軽い」が80%に達した。 光市事件のような未成年者が犯した殺人では裁判官と一般国民の考える「適正な処罰」に相当大きな差がある、と推測できる調査結果だ。 死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある。 読み応えのある指摘だが、私の判断は保留なのでクリップ。
⇒うさんくさい - jkondoの日記 例えばはてなブックマークの人気エントリーを読んでいる人はほとんどいない(昨日の彼は「そういえば最近はてブというのを見ることがあるけど何なの?」という感じだった)。だから、なんだかよく分からないネットでちょっと話題の揉め事とか、意味も分からず怒っている人の存在すら知らないという人ばかりだ。 はてなブックマークは意味論的に、いやもっと簡単にいうと、カテゴリー的に分けて、多様な関心のインタフェースを作らないともう使えないレベルになっている。 それと、やっかみにとられるかもしれないけど、一部のブロガー/ニュースサイトのファンぶくまみたいのが実際にはもうノイズになっているので、そこを実質抑止というか別カテゴリー化する仕組みがないとね。もちろん、そこが話題の焦点になることが多いので抑止だけでいいわけはないけど。 ついでにいうと、ネガコメ論がはてな村的に盛んで、い
⇒言論の自由について (内田樹の研究室) 言論の自由とは私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。ただそれだけのことである。 だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。 私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。 単純に全然違うと思うけど。 単純に⇒言論の自由 - Wikipedia 言論の自由(げんろんのじゆう)は自由権の一種で、検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指す。表現の自由の根幹をなすと考えられ、今日では国際人権法で保護され世界人権宣言第19条、国際人権規約B規約にも規定されているものの、多くの国で保障されるには至っていない。 ただ
今日あたりにいうとなんだけど、ブログの今というか、ちょっと変わりつつある。いわゆるアルファブロガーみたいなものの位置も単に解体・解消してきているのかもしれないし、全体の枠が大きくなってクラスター化しているのかもしれない。そこでは、従来アルファブロガーと呼ばれた人たちより影響力のある焦点が存在するのではないだろうか。私などはmixiとか見えないし、Yahooブログとかその他のブログはよく見えない。が、重層的な発展の形態なのかもしれない。 はてなというかはてな村は、こっそり異質化しているように思える。いわゆるはてな村的なぼこぼこの世界の嫌悪に聡い人たちはするっとTwitterに移行してある意味、はてなは空洞というか、はてなは本来のダイアリー=アーカイブ化しつつある。 はてな村、あるいははてな的なものは、率直にいってぶくまだけになっただろうが、人気・注目のリストはまったくナンセンスとは言わないが
⇒新卒で入社して一年 大手電機メーカーのSEとして就職して一年。 うちの職場は、なんというか、生ぬるい。 ⇒はてなブックマーク - 新卒で入社して一年 私もぶくま程度に簡単にコメントしとこうかな。 生活待遇で恵まれた環境だったら5年くらいやってみるといいと思う。社会を学ぶ期間として。 その終わりのころ、本当にきっついことが起きることが多い。恋愛・結婚・出産・親の面倒など。 あと、増田社会人一年生が懸念しているスキル向上はないかもしれないは、案外徐々に精神をむしばんでいく。これは人間の個性化なんで、そうならない人もいる。なるときはものすごい不幸や不運の形をとって、いったん死ぬしかないかというふうに、個性化が死の相貌して立ちふさがるよ。でも、振り返るとそこから自分の人生が始まる。 もう一つ、5年すると、それ以前かもしれないけど、人の上に立つようになる。人の上に立つとき、これは個性にもよるかもし
⇒ダライはあらゆる祖国分裂活動を完全に停止せよ ダライは単なる宗教者ではなく、祖国分裂活動に携わる政治亡命者だ。最近拉薩で発生した暴行・略奪・破壊・放火の重大な暴力犯罪は、ダライ集団の分裂本質を再度存分に暴露した。 私たちは関係国の政府および国際社会に、ダライの分裂本質を見極め、彼およびその分裂活動にいかなる支持も提供しないことを望む。 今回の事件はダライ集団があらかじめ計画して策動したものであり、ダライ集団はその罪の責任から逃れられない。調査の進展に伴い、関係証拠がさらに大衆に公表されるものと信じている。 ⇒ダライは祖国を分裂させる政治亡命者 ダライは単なる宗教者ではなく、宗教の表看板を掲げ、長年世界で祖国分裂・民族団結破壊活動に携わっている政治亡命者だ。 ダライは第1に、西蔵(チベット)が歴史的に中国の一部であることを認めず、西蔵は中国に占領された国家だと称している。第2に、西蔵の現行
画像・映像系のコンテンツは視覚から意味を読み解く能力がないと理解できない。 なので、キャプションとかで別途意味が書かれている。だが、そのとき、画像・映像の無意識のメッセージに対して、書かれたメッセージの意味の照合・検証といったことをする必要があるけど、それは子どもにはできない。 実際には、書かれたメッセージで洗脳するための、恐怖感情をかきたてるための画像・映像ということになりかねない。つまり、その重要さを意味で了解するのではなく、恐怖で鵜呑みにするだけ。 結局、子どもには書かれたメッセージを伝えればいいのであって、画像・映像を検証できるだけの知性を持つようになってから見ても別段遅くはない。 追記 画像・映像一般論に受け取る人がいるけど、たとえば、マレーバクの画像・映像に、「ムーミンは今日も元気」とかキャプションがあっても、別にどうということじゃないよ。そうじゃなくて、ここでのポイントは、残
inspiered by デキるオトコは早い・安い・うまい! - べにぢょのらぶこーる もちろん、ネタです。 でも。 遅いというのは男にとってけっこう重要ですよ。何に重要かというのは縷説できませんが。 高いは、ぅぅむ、安いがフレンドリーっつうと、フレンドリーじゃないってことでしょうか。あれです、なかなか誘っても一線を越えてこないじれったい男ってやつでしょうか。 まずい男。顔がまずい男とかだと……、でも、オリジナルコンテクストだと聞き上手じゃないってことでしょうね。 男女限らず聞き上手というのは重要なことですが、ということになっているけど、聞き上手というのは、相手に自己完結させるテクなんですよ。つまり実は関わらないテク。本当に対人的に難しいのは、interventionなんですが。というか、そこがむずかしいか。 参考⇒Intervention (counseling) - Wikipedia
読んでもらうために気をつけること - 北の大地から送る物欲日記を読んで。 いいことが書いてあるんだけど、見た瞬間に読み終わるブログがたまにあります。それは文章が短いブログ。 読もうと思ってリンク先に飛んだ瞬間に、改行ばかりで、しかも1ページ分だけ。見ただけでわかるようなエントリで読んだという満腹感に浸れる人ってどれくらいいるでしょうか。 短い文章がすべてダメだとは言いませんけど、読む人がもういらんこれ以上読めないというくらいお腹いっぱいですになるような配慮をしておくと、次回も読んでもらえる確率が上がります。飯屋のどんぶりご飯と同じです。お代わり自由です。 私がブログを書くときに気をつけているのは、 段落はポトフのお肉のようにきちんとブロックの形が見えるようにする。 段落が少なくなるようだったら、関連資料をたくさん引用する。 文章中で使う用語・表記はなるべくバラエティを富ませて、読者が微妙な
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く