南北朝時代・戦国時代[編集] 1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺[37][注釈 7]を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた[38][39]。南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした[40][41][42]。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう、現在の飾東町にあった)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める[43]。 1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱を起こした赤松満祐・教康父子を山名宗全らが討伐軍を挙げ、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶し、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国