画像説明, ロシアのプーチン大統領は27日、軍の核抑止部隊に「特別警戒」を命令した。写真は同日、モスクワの宇宙庁庁舎建設現場を訪れたプーチン氏
画像説明, ロシアのプーチン大統領は27日、軍の核抑止部隊に「特別警戒」を命令した。写真は同日、モスクワの宇宙庁庁舎建設現場を訪れたプーチン氏
「シベリア抑留」という歴史上の悲劇をご存じだろうか。 終戦直後、当時の満州国などの外地に残っていた日本兵ら約60万人が、ソ連によって武装解除・投降を余儀なくされ、捕虜としてシベリアをはじめとするソ連各地に移送された出来事である。そこでは想像を絶する寒さや容赦のない重労働、劣悪な生活環境などにより、約10人に1人にあたる約6万人が命を落としたといわれている。 今回で第6回目を数える「極限メシ」で話をうかがったのは、極寒のシベリアで2年4カ月もの間抑留された後、生還した中島裕さん(92歳)。中島さんと戦友たちの命運を分けたものはなんだったのか。極限状態の中、いったい何を食べて生き延びたのだろうか。 壮絶なエピソードに加え、ご本人が抑留体験を回想しながら描きためたという絵もぜひご覧いただきたい。 話す人:中島裕(なかじま ゆたか)さん 大正15年(1926年)北海道生まれ。昭和19年(1944年
太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部) 5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。 今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。 「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、
浦上地区 長崎市の北部の地域で、 17世紀から19世紀における潜伏キリシタンの中心地として 現代には原子爆弾の被害を受けた中心地として知られている。 歴史上、初めて浦上という名前が出現したのは15世紀。16世紀には全村がキリシタンと言われていた。17世紀に入り、キリスト教の禁教令が出たのちも、約250年間にわたって、信仰を守り通した。
頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。 一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。 10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」 1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。 この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや
現在放送中のNHK連続テレビ小説『エール』。この作品で主人公のモデルとなっているのが、作曲家の古関裕而だ。 古関裕而は1909年に福島県で生まれた作曲家で、『栄光は君に輝く』、『スポーツショー行進曲』、『オリンピック・マーチ』、『大阪(阪神)タイガースの歌(六甲おろし)』、『巨人軍の歌(闘魂こめて)』、『モスラの歌』など、現在も多くの人に親しまれる名曲を数多く残している。 しかしその一方で、古関裕而には戦争中たくさんの軍歌をつくり、そのうちのいくつかは大ヒットを記録、「軍歌の覇王」とまで呼ばれた暗い過去がある。 彼はなぜ軍歌をつくったのか。そして、その事実から私たちが学ぶべきことはなにか。『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文藝春秋)を出版した、近現代史研究者の辻田真佐憲氏に話を聞いた。 辻田真佐憲 1984年、大阪府生まれ。政治と文化芸術の関係を主なテーマに執筆。著書に『たのしい
アジア歴史資料センターで公開している資料は、歴史研究だけではなく、映像作品やテレビ番組の制作における時代考証など、様々な分野で活用されています。そこで、アジ歴ニューズレター第30号の特別企画として、映画監督であり、航空史研究者でもある片渕須直氏に、自身の作品や研究と、アジ歴資料とのかかわりについてお話をうかがいました。 プロフィール 片渕須直(かたぶち・すなお) 1960年大阪府枚方市生れ。日本大学芸術学部映画学科卒。アニメーション映画監督。監督デビュー作は『名犬ラッシー』(「世界名作劇場」)。その他の主な監督作品に『BLACK LAGOON』、劇場公開作品に『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』。『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が2019年12月20日公開予定。航空ジャーナリスト協会会員。 ―片渕監督は最初、航空史研究のためにアジ歴を利用されていたとのこと
ベルファストで27日、マクギネス北アイルランド自治政府副首相(左)と会見し、握手するエリザベス女王=AP 英国のエリザベス女王は27日、かつて英国からの分離闘争をカトリック過激派アイルランド共和軍(IRA)の司令官として率いたマクギネス北アイルランド自治政府副首相と初めて会見し、握手した。 北アイルランドは、3200人以上の犠牲者を出した末、1998年に和平合意が成立。平和の定着を象徴する動きと受け止められている。マクギネス副首相は会見後、アイルランド語と英語で「良い道中を」と女王に別れを告げた。 女王は昨春、英国の君主として100年ぶりにアイルランドを公式訪問して独立闘争の犠牲者らを追悼。女王との面会を拒んできたIRAの政治組織シンフェイン党が関係改善を決めた。女王は79年、親族のマウントバッテン卿をIRAのテロで失っている。(ロンドン=伊東和貴) 関連記事英女王とIRA元司令官、
鉄道第二連隊の材料廠舎・営舎 1908年(明治41年)10月 - 第三大隊(第9・第10中隊)が千葉県千葉郡津田沼町谷津2番地に新設[2]。 1909年(明治42年)10月に第三大隊で第11・第12中隊を編成[2]。 1918年(大正7年)8月1日 - 第三大隊が鉄道第二連隊に昇格[4] 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災で鉄道復旧作業に従事 1928年(昭和3年)5月 - 済南事件に出動 1937年(昭和12年)7月 - 中国華北で鉄道の運営、徐州作戦に出動 1939年(昭和14年)12月 - 中国華北より復員 1940年(昭和15年)6月 - 満洲・華北を転戦 1945年(昭和20年)4月 - 主力部隊九州に移転 終戦時所在 九州 最終連隊長 越川外次郎中佐 ※鉄道連隊正門は、現在、千葉工業大学に残されており、国の登録有形文化財になっている。 鉄道第三〜二十連隊[編集] 三〜
戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く