東日本大震災で「社会の脆さ」を痛感 ちょうど大学の卒業というタイミングで東日本大震災が起こったあの日、僕は東京都台東区橋場という町で友人たち数人と作品制作のスタジオとして借りたビルの鍵の交換に立ち会っていた。 震度5強の揺れは向かいの建物をこんにゃくみたいに揺らし、工事中の東京スカイツリーから伸びているクレーンにぶら下がった鉄製の巨大なフックをぶらんぶらんさせていた。それがスカイツリー本体にぶつかりそうで危ないなと感じたことを覚えている。 その日の夜は隅田川の逆流と、移民集団のキャラバンのような歩行者の群れが橋を渡っているのに驚かされながら、葛飾区の実家へ自転車で避難した。 それからの2年間、僕は台東区の物件に住みながら制作をして、バイトもして、家賃も払って、毎日の生活のために生活をしていた。当たり前のことだ。 でもあの津波と原発事故から、自分が立っているこの社会とでも呼ぶべきものの基盤が