「他者論」を大きく二つに分けてみた。 ちょっと強引だけど分けてみた。 【融和的他者論】 ブーバー マルセル メルロ=ポンティ ハイデガー 【対立的他者論】 サルトル レヴィナス ヤスパース 対立的他者論の方が刺激的なので、まずはこっちから。 その中でも際立った主張者であるサルトルはこう言う。 他人とは私に「まなざし」を向けてくるものである。 この「まなざし」とはregard(ルガール)で、英語ならリガード。 他人が私にまなざしを向けるということは、私がオブジェ(客体)になってしまうということである。 自分が自由な主体ではなくなることを意味する。 他人の世界の中に、自分が一つの事物として組み込まれてしまう。 だから、「まなざし」はとても不気味で腹立たしいものなのだ。 では、どうしたら良いかと言うと、自分がまなざしを向ける側に回ればいい。 自分が他人を自分の世界に取り込んでしまえばいい。 これ
ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、人にはそれぞれ、自分のやりかたがあるのです。 それが他者に致命的なほどの痛みをもたらすものでないかぎり、誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの? 「正義」とか「大義」って怖いよ。 イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。 http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127/p1 「イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。」というのは、この間引用しているバタイユの「一般に、人間であるという事実のなかには、克服されるべき重苦しく胸をむかつかせる要素がある。」とおなじこと言っている。*1
E会員 あきとし じゅん あきとし じゅん 評論家 大学教授 1940年9月 京都生まれ。掲載作は『関西文学』(関西書院)昭和五十八年十一月号、初出。同年の第十八回関西文学賞(評論部門)受賞。 高橋和巳における狼疾 かなり以前から高橋和巳の文学の特質において、心のなかに蟠(わだかま)っていることがある。いったいかれは、だれの影響をもっとも受けていたのであろうか。いうまでもなく、これまでの高橋和巳論は、その多くが性急に埴谷雄高を結論的に導きだしているが、かれの憂鬱なる作品を前にしたとき、はたしてそう結論づけていいものかどうか、はなはだ疑問である。 高橋和巳自身、比較的早く「近代文学」の読者として、第一次戦後派作家に親近感を覚えたといっていることからわかるように、かれの文学的出発にあたっては、たしかに埴谷雄高の存在は無視できなかったであろう。しかし、かれの文学の本質は、かならずしも当初から埴谷
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