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_double-lineに関するo_keke_nigelのブックマーク (5)

  • 可視化と対話 - Double Line

    罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題 - ARTIFACT@ハテナ系 事実、「とめていなかった」のではなくて「これまでなぜとめられなかったのか」と考えたほうがいいかもしれません。事実をどれくらい「知って」いるか「知らない」かを基準にするのは、その主体の決定と判断によるものであると定義します。その後で、何らかのアクションを、それぞれの動機に基づいて起こすこともある。 画面の奥のやり取りで「どこまで可視化」されているか、という明確な規定と目的が、両者で可視化されておらずわからない場合、多くは事実を知ることができません。完全に知ることができるのは、明確な当事者となった場合――つまり、他者と私が「画面」ではなく「対話」として「出会った」瞬間、となります。また、「可視化されている」という事実と、「読む」という事実が揃わなければ、第三者が明確な心象や目的の明確化と納得へいたることはで

    可視化と対話 - Double Line
  • Double Line - コミュニケーション/t時点の認知論

    画面から視界に入った文字をそのまま見て読むことは意識的に避けられない。読まないと判断した時点で実のところ読んでしまっている。そうした「見た read」ことを前提とすると、「可視化」された部分をどう受け取るか、ということが焦点となります。 場というものが存在するとすれば、「可視化」された中心を主体としたものから派生するコミュニケーションが発生しているとみなすことのできる場であると定義できます。仮にAがBという個人サイトの可視化する書き込みを行うとすれば、そこにはAとBの応答段階へと即座になります。そして、Aはその書き込みを再びBのサイトを見るB'となることによってAとBという場を見るB'が成り立つ。 場とは「形成され」、「交換され」るものであって、「既にある」ものではない――「読む read」という行為ではなく「書く write」という行為によって「可視化」されたコミュニケーションと場が形成

    Double Line - コミュニケーション/t時点の認知論
  • 2007-06-14

    罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題 - ARTIFACT@ハテナ系 事実、「とめていなかった」のではなくて「これまでなぜとめられなかったのか」と考えたほうがいいかもしれません。事実をどれくらい「知って」いるか「知らない」かを基準にするのは、その主体の決定と判断によるものであると定義します。その後で、何らかのアクションを、それぞれの動機に基づいて起こすこともある。 画面の奥のやり取りで「どこまで可視化」されているか、という明確な規定と目的が、両者で可視化されておらずわからない場合、多くは事実を知ることができません。完全に知ることができるのは、明確な当事者となった場合――つまり、他者と私が「画面」ではなく「対話」として「出会った」瞬間、となります。また、「可視化されている」という事実と、「読む」という事実が揃わなければ、第三者が明確な心象や目的の明確化と納得へいたることはで

    2007-06-14
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/06/14
    主体/他者、ベタ/メタの位相の流動性と「場の可視化」の関係性。
  • 論点整理 - Double Line

    これまでの論点を私なりに整理しようと思います。 「間接的」な関与が殺人にあたるかどうか、という問いを問われて答えましたが、来、議論の骨子は「当事者の問われたときの感情と、その問いは果たして問うてもよいものかどうか」であったと思います。 私が追った順から述べさせていただくと、姨捨山問題を最初に拝見したのはsugitasyunsukeさんの記事でした。この時点では「当事者の感覚と感情」を論点にし、多くの方もその論点をもってエントリをあげたのだ、と私は感じています。私もその点に関連して、いくつか問題点を列記し、改善ポイントがどこにあるのか、ということを提案したことで結びとしました。 福祉倫理の論理的論考 欺瞞のCANと、DOの承認 そして、もうひとつ議題があがったのが「200円募金」との関連性を示唆すること、またその関連性によって、間接的関与の可能性が発生する、ということでした。そこからは「間

    論点整理 - Double Line
  • 思考と行為 - Double Line

    ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS その答えは、自分の中で考えたい。 いじめ問題にしてもそうですが、周囲にいた、見ていただけで「加担」になるのだと思い責めている人もいるのかもしれません。 「何もしなかった」「何も出来なかった」ということに罪悪感を覚える人は、多分、多く居ると思います。それにずっと囚われて自責している人もいれば、何か自分を保つ為に、生きる為に重要な事柄ではない、と思い込もうとして棘が刺さったままのように生活をしている人もいる。「欺瞞」といわれればそうなのでしょうが、「しなかった」といわれれば「生きる資格が無い」と言われてしまうように感じるのは、私がまだ過去に囚われているからなのかもしれません。 私は、家族がいるし、兄弟もいます。多分、昔からその人達の悲しむ顔を想像して、きっと「行為しなかった」こと自体を忘れてしまうでしょう。できたのに、しなかった――通り過ぎた

    思考と行為 - Double Line
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