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*_O:応答責任と_hishimaruに関するo_keke_nigelのブックマーク (2)

  • 2007-04-23

    ここまでのところで、uumin3さんの理論について、おおまかに把握はできたと思うので、一旦整理してみます。 ・責任には、法的責任と道義的責任がある。 ・道義的責任とは、法的責任を越えた部分のことで、個人が主観的に判断する責任のことである。 ・「アフガニスタンの人を見殺しにした」責任は法的責任を問われるものではない。 ・また、道義的責任も、主観的に判断する責任であるので、誰にとっても必ずあるとは言えない。 結論:「アフガニスタンの人を見殺しにした」責任は、あるとは言えない。 これは、「責任」とは「負担を要求するものである」と定義した場合、論理的には一応の整合性がとれる理屈です。 この定義に沿って、上記の理屈を書き換えてみます。 ・「負担を要求されるもの」には、法的に「負担を要求されれるもの」と道義的に「負担を要求されるもの」がある。 ・道義的な負担とは、法的な負担を越えた部分のことで、個人が

    2007-04-23
  • 「責任」という言葉の使いづらさ。 - hishimaruの日記

    ①自分がしたことと結果との間に因果関係がある ②自分の意思でしたことである ③結果について責めを負うべきである 責任があるかどうか、は上の3つの要素を満たしているかどうか、だと16日の日記に書きました。 そして3つの要素を1つの言葉のうちに込めてしまうと、論点が増え、煩雑になるので、②と③は分けたほうがいいと。 これは、その追記です。 「責任」という言葉には、評価尺度が2つあります。 「責任がある/ない」「責任が重い/軽い」この2つです。 上の3つの要素を見ると、①②については「因果関係がない」「自分の意志ではない」と「ある/ない」で評価することが出来ますが、③に関しては「ある/ない」で評価することは出来ません。 自分の意志で行動し、それによってネガティブな結果がもたらされた場合、責任が「ある/ない」の問題ではなく、負うべき責めが「重い/軽い」の問題になります。 大事なのは、重いか軽いかと

    「責任」という言葉の使いづらさ。 - hishimaruの日記
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