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communicationと*__blog論:selectionに関するo_keke_nigelのブックマーク (3)

  • 日常の大喜利化、或いは、ネタ化という現実の中で|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    これは、はてな村のひとつの傾向としては共感できる。 ・はてなの大喜利化とはてな村ネタ地区 - 手記 そもそもぼく自身、村外のブログを使っていながらはてな界隈への言及をやめられないのも、ここがネタの宝庫だからかもしれない。だから、興味の持てる内容だと思えば村の方言を調べるに吝かではないし、それがたとえ釣りやネタの類だったとしても自分の興味と書き手の意図は無関係だと割り切っている。また、用語の成立というのは、必ずしもタイプミスや誤変換の親戚ばかりとは限らない。特定の文化圏でそれ以外の言葉では表現し難いニュアンスを持つに到るケースもあろう。それはあらゆる学問がテクニカルタームを生み続けているのと同じことである。 もちろん、だからといって「非モテ」を論じることに意味があるのか?…と問われれば、ある人にはあるがない人にはない、としか答えようがない。そして、意味なんてないと思う人が「非モテ」という用語

  • 日々カタログ。 : 「取り巻き」考

    「取り巻き」という言葉がある。日常でも使われるが,最近はブロガーを攻撃したり批判したりするときの言葉としても使われている。「信者」とも呼ばれることがあるが,「信者」はともかくも「取り巻き」はもともとネガティブな意味で用いられている。ブロガー人というよりも,ブロガーを擁護するコメンターなり他ブロガーに対して用いられる言葉で,それによって中心ブロガーも貶める。 「取り巻き」というと,往年の少女マンガか「スワンの涙」系ドラマ(喩えが古いよ)で,ヒロインに辛く当たるお嬢様の周りにいて「そーよそーよ」とか言っているイメージである。あの「そーよそーよ」の人達は,おそらく蔭でいろいろ言われているだろうが,「あからさまにはいじめられない」という小さなメリットは得ている。しかし,日常における取り巻きは何らかのメリットがあるだろうが,ブロガーを取り巻くことになんか意味があるのか? また,中心ブロガーもコメ

  • suVeneのあれ: ブログに対する自己表現至上主義と馴れ合い至上主義

    2006年11月30日 ブログに対する自己表現至上主義と馴れ合い至上主義 ブログに対する思いは人それぞれである。 その人が何を目的とし、何の為の手段としてブログというツールを使用しているのかは、多種多様であるという事だ。 ブログの目的というのは何かという考察を半年ほど前に書いた事があるが、今回はその中でも「自己表現至上主義」と「馴れ合い至上主義」を取り上げて書いてみようと思う。 *「自己表現至上主義」と「馴れ合い至上主義」の定義 説明するまでもないが、念のため簡単な定義をしておこう。 自己表現至上主義とは ブログが自己表現の為のツールであると同時に、「ブログで自己表現する事自体」に価値を見出す事 自己表現の為以外にブログを使用する事を認めないほど、自己表現至上主義傾向 馴れ合い至上主義とは 書く内容や自己表現より、他人と繋がる事に価値を見出す事 繋がりを重視するあまり、会話の流れを分断する

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/12/02
    web空間におけるコミュニケーションのあり方についての優れた論考。私としては、自己表現からブログに入った人が「コミュ」へ過度に引っ張られていくのならやはり原点回帰の軌道修正が必要だと思う。
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