【2013年3月1日 CfA/NASA/ESA】 2つのX線天文衛星を駆使した観測で、銀河の中心にある巨大質量ブラックホールの高速自転が正確に計測された。 銀河中心からのX線は、ブラックホールの重力効果(上)を反映したものであることがわかった。クリックで拡大(提供:NASA/JPL-Caltech) 多くの銀河の中心には、太陽の数百万〜数十億倍というとても重いブラックホールがあると考えられている。ブラックホールはその強い重力で恒星やガスをのみこんだり、合体したりして成長し、周囲には引き寄せられた物質の円盤が形成されている。 こうしたブラックホールの自転速度は、ブラックホール自体と母銀河全体について知る手がかりになる。回転が遅ければ、いろいろな方向からランダムに小さな塊を引き寄せてきたということだし、回転が速ければ、物質の流入が均一で安定していたか、あるいは銀河同士の合体の際に中心ブラックホ
宗教のレトリック [著]中村圭志 「かたり」が「語り」でもあれば「騙(かた)り」でもあるということには深い含みがある。マコトの語りとダマシの語りの差をないものにしてしまうからだ。それは「在るもの」と「作られたもの」の区別をさえ失効させてしまう。 レトリックといえばふつう、口先だけの美辞麗句だとか、まやかしの詭弁(きべん)、人を焚(た)きつける雄弁など、誘導の技だとおもわれている。けれども、新聞はアメリカの大統領のことを「ホワイトハウス」と言い、学術論文は「~は明らかである」と結論づける。童話には「白雪姫」や「赤頭巾ちゃん」が登場し、日常の会話には「椅子の脚」だとか「タヌキ親爺(おやじ)」「縄のれん」といった表現が無数にある。唯一無比の存在たるブッダやイエスという名もじつはそれぞれ「目覚めた人」「救世主」という役柄を意味する。こういうレトリカルな表現の織物としてわたしたちの現実は編まれている
カンヌで主演女優賞受賞! 故郷ルーマニアを離れ、ドイツで働いていたアリーナだが、職を失い、共に孤児院で育った親友ヴォイキツァの暮らす修道院へとやってくる。かつて共に暮らす約束をした二人だが、ヴォイキツァは修道院の暮らしに馴染み、ここに残ろうとしていた。だが、信仰を持たないアリーナはなじむことが出来ず、次第に病んでいく……。 二度ほど予告編を観たんですが、なかなか面白そうな題材ではあるものの、予告編内では何か起こっていそうであるものの実際には何も起こっていないように見える。これはランタイムも長いし、相当地味な内容なんではないか、と思いつつ観に行きました。まあ半分当たり、半分外れというところだったかな……。 ちょっと昔の話かと思ったら、元が実話で、思いっ切り現代の話なんですな。ところが観ている間に、何か麻痺して来る……え〜っと、時代いつだっけ? 現代っつっても70年代くらい? いえいえ21世紀
まず宣伝から。 最近、カフカ「変身」を翻訳して Kindle に出しました。 おかげさまで、ロイヤリティが缶ジュース一本分をちょうど越えたところです。 もう一人買ってくれたら自販機のペットボトルが買えるぐらいになります。 世の中ちょろいですね。 まあ、それはともかく。 Amazon に消された本を救出したいを読んで。 「変身」を訳す際に、著作権の切れた原田義人氏のバージョンを参考に訳し、訳し終わってからは誤訳がないかチェックするため、既訳をいくつか購入しました。 それで、手元には岩波文庫の 変身・他一篇(カフカ 作/山下 肇 訳) 変身・断食芸人(カフカ 作/山下 肇・山下 萬里 訳) があります。 上記記事を読んで、裏の ISBN を見てみました。 まったく同じです。 で、「変身・断食芸人」のほうの奥付を見てみると、 1958年1月7日 第1刷発行 2004年9月16日 改版第1刷発行と
** やさしい発達障害論 高岡健 ** 著者は精神科医の高岡健氏。 発達障害とはそもそも何なのか、どういうものと理解するべきなのか。 それをこの言葉が使われ始めた社会や経済の状況との絡みで説明しています。 やさしい発達障害論 (サイコ・クリティーク) 作者: 高岡健出版社/メーカー: 批評社発売日: 2007/12/01メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 44回この商品を含むブログ (11件) を見る 読む前にまず、20世紀がどういう時代だったのかおさらいしたいと思います。若い世代(?)としてははまずここが難しいと感じたので。 第二次世界大戦が終わったのが1945年。その後1990年ごろまでは冷戦が続き、資本主義か共産主義かというイデオロギーの対立がありました。この本では、その冷戦期の中での、1980年ごろのアメリカやイギリスの社会政策の変化に目を向けています。 新自由主義(ネオ・
学問はしばしば、「自然科学(natural science)」、「社会科学(social science)」、「人文科学(humanities)」の3つに分けられる。この3つのなかで、数学はどこに属するだろうか。 「もちろん自然科学でしょ」と答える人が、おそらく多いだろう。しかし、これは間違いである。数学は、自然科学には欠かせないものだが、数学自体は自然科学ではない。 自然科学は、人間が作ったものではない「自然」というものについて、その性質や規則性をさぐるものである。いっぽう、数学はすべて人間が作ったものであり、一種の言語体系である。数学は自然に属してはいないのだ。よって、数学は自然科学ではない。 数学が社会科学ではないことは明らかだろう。社会科学は、人間の集団が生み出す社会というものについて、その性質や規則性をさぐるものである。 数学が自然科学ではなく、また社会科学でもないとすれば、あと
【2012年11月15日 CFHT】 オリオン座の三ツ星の下に肉眼でも見られる「オリオン座大星雲」は、天文ファンに人気の天体というだけでなく、天文学者にとって星誕生の現場を間近で見られる絶好の研究対象でもある。欧州研究チームの観測により、星雲の手前側に大規模な星団が独立して存在していることがわかった。 オリオン座大星雲の位置。オリオン座の三ツ星の下に、肉眼でも見つけることができる。ステラナビゲータで作成。クリックで拡大 中央の画像は、オリオン座大星雲の可視光画像(左)に、分子雲が放つ赤外線をとらえた画像を重ねたもの。分厚い分子雲は向こう側にある星を隠してしまうため、この画像に見える星は、分子雲の手前にあるということがわかる(右)。クリックで拡大(提供:J. Alves & H. Bouy。以下同) 左:イオタ星(ハチサ)周辺の星の分布を青い等高線で表したもの。星雲に埋もれたトラペジウムは星
米バージニア(Virginia)州スプリングフィールド(Springfield)で撮影された乳児(2012年8月21日撮影)。(c)AFP/Getty Images/Alex Wong 【2月15日 AFP】2つの言語を使う家庭で育つ子どもは、言葉を話せるようになる前の生後7か月程度でも、2言語を区別する特別な能力が身につくとする研究結果が14日の米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス(Nature Neuroscience)」に発表された。 この新研究によれば、2言語を同時に習得した子どもは、音が伸びる長さや音調、それらが一文の中で現れる位置などからどの言語かを特定するという、1言語使用者にはない能力を発達させることが明らかになった。 研究は、英語と日本語のように語順が真逆の2言語の中で育っている生後7か月の乳児を対象とした。 まず乳児たちに、真逆の2言語にそれぞれ似た「おとり」言語(
残念ながら技術までにはまとめきれなかった。 まとめ 完璧主義者だから質問しないのではなく、わからないという事実を悩んでいるだけで、何がわからないのかを考えていない(考えることができない)学生、別の言い方をすると「何がわからないか」がわからないをそのままにしておく学生もいる このような学生は、失敗を恐れない、意図的に質問をするように心がけても、質問はできない。理由は質問の内容がないから。 「何がわからないのか」を取り扱うステップは以下のとおり 自分が『考えている』のは、『何がわからないかわからないので困った』ということなのか、『何がわからないのか』なのかを区別する 何らかの方法を用いて自分の頭の中を可視化する 頭で考えるのでなく手で考えるということ 追記1:Togetter:私的メモ:「頭がよくなる『図解思考』の技術」の感想 追記2 はてなブックマークのコメントにとても良い指摘があったので転
0 翻訳について 1 知識社会学、科学社会学の既存の立場に対するリンチの評価 (1) マンハイムについて、(2) マートンとその仲間たちについて、(3) 科学知識社会学におけるストロングプログラムについて、(4) 経験的相対主義(コリンズ)、(5) 構築主義的なラボラトリースタディーズ(ラトゥール、ウールガー、クノール=セティナほか)、(6) ポスト構築主義 2 リンチ自身の対案 3 リンチの評価 3-1 実験室の占める位置、3-2 科学的合理性との距離をめぐって、3-3 なぜ「通常科学」なのか 4 まとめ 付録 翻訳に疑問をもったところ エスノメソドロジーそのものに関する議論は今回は荷が重いので、主に科学社会学をめぐるリンチの分析、批判と、それに対するリンチの対案というあたり(つまり第二章、第三章プラス第七章の一部)を中心に検討したい。 0 翻訳について 原文もなかなかの難物だが、翻訳も
「ラ・ボルド」。仏の哲学者・精神分析医フェリックス・ガタリが勤務していたことでも知られる精神科病院だ。その特徴は、患者と医者の区別が明確でない点にある。見た目の問題だけではない。病院における様々な約束事を決めるのに、医者とスタッフと「患者」が一緒になって話すというのだ。つまり、そこにいる人たちの関係性や制度が流動的になっている。より正確に言えば、そうなるように維持されている。 だから。ラ・ボルドを写し出そうとするこの写真集では、誰が誰であるかの説明は省かれている。加えて、時の前後がわからないように編纂(へんさん)されている。最初は戸惑うが、やがては、本の中を散策することを楽しめるようになる。 そして気づく。夜とわかる写真がないことに。また、ほとんどの人が微笑(ほほえ)んでいることに。それはまるで夜の来ない楽園のようで、露出過多の白く飛んだ写真がその印象を強める。と同時に、楽園の脆(もろ)さ
(現代書館・2730円) ◇欧米に現れた「人間を計る科学的手法」の功罪 特異な観点を備えた書物である。標題は「近代のまなざし」とあるが、まなざしの赴くところは人間である。つまり十九世紀以降、西欧に生まれた「新しい人間観」と、それを支えた「科学的手法」に焦点を据えたのが、本書ということになる。 十九世紀西欧での一つの事件は、ダーウィンの生物進化論の提唱と普及である。ダーウィンは黒人奴隷の問題に強い関心を抱き、奴隷解放の強い志を持っていたが、そのこと自体、当時すでに黒人の生物学的な立場が議論されていたことを意味する。例えば<mulato>というスペイン系の言葉(白人と黒人の第一代混血)があるが、これはウマとロバの第一代雑種「ラバ」に当たる<mulo>から造られた。第一代雑種に生殖能力があるか、ないか、それが議論されてもいたのである。ダーウィンの進化論提唱の裏に、こうした議論への強い反発があった
「人間関係をリアルとバーチャルに区別する意味はあるだろうか - きしだのはてな」 「リアルとバーチャルに壁はあるのか - novtan別館」を読んで。 ながらくネットを使って来てて、そこを通じて人と知り合ったり、その知り合った人と実際に会ったり、なんてことをしてる人にとっては人間関係をリアルとバーチャルに分ける意味なんて無くて、どっちも知り合い、ただどこで知り合ったかががちょっと違うだけ。 学校の知り合いだって、ご近所さんだって、会社の知り合いだって、知り合いは知り合い。そこにネットの知り合いというのが一つ加わっただけ・・・なんだけども、ネットの向こう側にはやっぱり自分と同じ人がいるということを想像できない人や、ネットとリアルで全く違う自分を演じているから絶対に交わらせたく無いという人達にとっては、ネットでの交流はネットの中だけに留めておきたいんでしょうね。 リアルとバーチャルを区別してる
今日ちらっと、「ソーシャルとはリアルの人間関係のことである(キリッ」っていう文章みて、こいつバカじゃねーのって思わなかったことにしておくけど、そういう文章をみたんだ。 それで思った。じゃあリアルの人間関係ってなんだ? この対比で言う場合に、バーチャルのほうはわかりやすい。一度も実際に会ったことがない人との関係。でも、じゃあリアルって? 3年くらいはてなやTwitterでお互いを認識して、一度だけ同じ飲み会に参加して5分くらい話をした人とは、リアルの人間関係? メールで仕事をもらって、一度も電話することもなく声を聞くこともなく、メールとチャットで打ち合わせをして、納品して請求書送ってお金を支払ってもらった人は、リアル?バーチャル? お金がリアルだから仕事はリアルだろって?じゃあ仕事の前の打ち合わせだけで仕事が流れたら?Twitterで、なんとなく仕事もらえねーかなーと思いながらつながってるの
Facebookはバカばかり 朗報!はてブネガコメ問題がついに解決 ↓ これは先日のゲーセン女話騒動と同じ。目を血走らせながら物語が実話である事を切望している連中こそ危険人物。善悪と虚実の区別も付けられなくなった輩はやがてサリンを撒き散らすであろう。Thu Feb 02 13:02:02 via webAntiSeptic AntiSeptic 心が震度7レベルで感動しようが、社会正義に目覚めようが、自分を深く反省するきっかけになろうが、元になったエピソードが「嘘」だったら、それは意味がない。 愚劣陋劣無知蒙昧下劣低劣浅学菲才にも程がある。「意味がない」なんてことあるわけがない。件のエピソードの要諦はWitに富んだ差別撃退にあり、それは決して「嘘」などではない。これを「嘘」だと言うなら己がRacistであることを認めねばならない。この禿は説話の内容と虚実とを混同している。「嘘」があるとした
1. はじめに 昨日書いたものに対して、著者西村の弟子筋とおぼしき昆虫亀から反論・批判がきている。 西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀 ぼくは「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村の本の議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、本物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。 それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。 さてぼくは、この反論・批判は、反論にも批判にもなっていないと思う。それどころか、ぼくの当初の論点をさらに強化する例示にしかなっていないと考える。 2. ちがうはさておき「まちがっている」となぜ言えるの? まず一つ。昆虫亀はここで、問題を矮小化している。自然の木とプラスチックの木はカテゴ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く