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2015年1月21日のブックマーク (2件)

  • 浅見雅男『皇太子婚約解消事件』 - 三日坊主日記

    天皇ファンである私にとって浅見雅男氏の著作は興味深い事実を教えてくれて面白いです。 『皇太子婚約解消事件』は、明治26年に大正天皇の婚約者として伏見宮禎子(さちこ)が内定していたのに、明治32年に禎子の健康問題で解消された事件について書かれています。 皇族は天皇家の一族で、天皇になるかもしれない人たちだけども、いろいろあるんだなと思いました。 浅見雅男氏の他のも参考にしながら、皇族についてご紹介します。 明治以前、皇族は宮家を継ぐものを除いてほとんどは出家し、門跡寺院と称される名門寺院で一生を送った。 それは皇族の数が増えることを防ぎ、ただでさえ乏しい皇室財政の負担が増えたり、皇族の権威が失墜するという事態も未然に阻止できるからである。 ところが慶応4年、新政府は皇族の出家を禁止した。 となると、皇族が増えることになる。 明治天皇と伊藤博文たちの葛藤が最もあからさまになったのは、永世皇族

    浅見雅男『皇太子婚約解消事件』 - 三日坊主日記
    pirachan
    pirachan 2015/01/21
    谷崎作品関連でチェック。谷崎が作品に埋め込んだ人たちに対する立場からの内容と思われる。これは読んでみないと。
  • 観潮楼歌会(かんちょうろうかかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    森鴎外(おうがい)が主催し、会場に東京・郷駒込(こまごめ)千駄木(せんだぎ)町(文京区千駄木)の自宅2階の部屋をあてて開かれた歌会。観潮楼は鴎外邸の名称。1907年(明治40)3月から10年4月までの間に開催記録26回。毎月、第1土曜日の夕方から行われ、歌会の形式は、初期のころは参加者各自の持ち寄り歌の相互批評を、漸次兼題詠の互選と批評が行われた。鴎外はこれを開く目的として、『アララギ』と『明星』の二つを接近せしめ、さらに新詩社とアララギ派とに通じて国風新興を夢みたと述べ、新詩社の代表与謝野鉄幹(よさのてっかん)、アララギ派の代表伊藤左千夫(さちお)、それに第三者的な佐佐木信綱(のぶつな)の3人を招いて鴎外が加わり、四者によって歌会が始められ、のち石川啄木(たくぼく)、斎藤茂吉も加わって21人が参加している。当時の新進歌人群間の交流に大きな寄与をした。 [藤岡武雄]

    観潮楼歌会(かんちょうろうかかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
    pirachan
    pirachan 2015/01/21
    鷗外は、立場上かなり不自由があり、ビタミンの件では大きな損害を招いたが、この歌会での交流がもたらしたその後の日本への影響は、見ていくべき価値があるように思う。