森 槐南(もり かいなん、文久3年11月16日〈1863年12月26日〉 - 明治44年〈1911年〉3月7日[1])は、日本の漢詩人、官僚。名は「公泰」、字は「大来」(たいらい)。通称は「泰二郎」(「泰次郎」、「泰治郎」とも)。詩壇以外では「森泰二郎」の名で呼ばれた。別号を「秋波禅侶」、「菊如澹人」。 経歴[編集] 1863年(文久3年)、尾張国名古屋(現 愛知県名古屋市)で生まれた[1]。父の森春濤も漢詩人で[1]、母の森清子(春濤の後妻)は女流歌人であった。鷲津毅堂、三島中洲に師事して漢学を修めた[1]。 枢密院属、宮内省で大臣秘書官、図書寮編集官、式部官などを務めた[1]。東京帝国大学では文科大学講師として中国文学を教えた。「随鴎詩社」を主宰し、[1]、明治漢文学の中心的存在であった。 三条実美、伊藤博文など明治政府の要人とも親しく、1909年10月、ハルビンでおこった安重根による
山崎蒸溜所(やまざきじょうりゅうじょ、英語: Yamazaki Distillery)は、 大阪府三島郡島本町にあるサントリー所有のジャパニーズ・ウイスキーの蒸留所。 日本初のモルトウイスキー蒸留所であり、同所の名前を冠した「山崎」の生産で知られるほか、単一のウイスキー蒸留所としては珍しく多彩な原酒を造り分けることで知られている。 歴史[編集] 背景[編集] 山崎蒸溜所を創設したのは寿屋(のちのサントリー)創業者の鳥井信治郎である[1]。寿屋は1907年に「赤玉ポートワイン」を、1911年には「ヘルメスウイスキー[注釈 2]」を発売して成功を収めており[7][6]、1919年にはワインの古樽で数年の熟成を経た醸造アルコールを「トリスウイスキー」として発売したところ、瞬く間に完売した[6]。このことを受けた鳥井は、日本人の味覚にあった本格的なウイスキーづくりを志向するようになっていった[8]
田本研造 田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5月8日) - 大正元年(1912年)10月21日)は、現在の三重県熊野市神川町出身の写真家。別名は音無榕山(おとなしようざん)。 田本研造之碑(鬼ヶ城) 1832年(天保3年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれた。のちに別名音無榕山(おとなしようざん)と名乗っているが、「音無」は彼の郷里を流れる音無川(熊野川)にちなむものという。 医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の門に入る。ここで医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れ、1859年(安政6年)には長崎から箱館(函館)に移り住んだ。ところが、しばらくして右足に凍傷を負って脱疽となり、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめるものの右足切断の悲運に遇う。しかし、これが縁となって写真の道に進むことを決め、写真技術
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、越前一国68万石は徳川家康の次男・結城秀康に与えられた。秀康は家臣の林定正に勝山に9800石を与えて預けたが、定正は慶長17年(1612年)に福井藩の第2代藩主・松平忠直によって追放され、以後は代官が派遣されていた。ところが元和9年(1623年)に忠直が幕命によって改易された。この後も福井藩は幕府の計らいで存続したが、このときに福井藩の支藩として、秀康の三男・松平直政の大野藩5万石、五男・結城直基の越前勝山藩3万石(一説には2万5000石)が成立した。直基は寛永12年(1635年)に大野へ移封され、代わって勝山には末弟の松平直良(木本藩主)が入った。正保元年(1644年)に直良が大野藩へ移封となると、空いた勝山藩は廃藩となり、福井藩預かりを経て貞享3年(1686年)に幕府領となった。 元禄4年(1691年)、美濃国高須藩より小笠原貞信が2万2000石
箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 - 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。 背景[編集] 慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。 榎本艦隊の北行[編集] 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、4月12日、悪天候を理由に艦隊を館
武田 信賢(たけだ のぶかた)は、室町時代中期から後期にかけての武将・守護大名。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護。安芸武田氏5代・若狭武田氏2代当主。安芸武田氏の武田信繁の次男。兄に信栄、弟に国信、元綱。家系には異説がある。 若狭武田氏は永享12年(1440年)に兄信栄が室町幕府6代将軍足利義教の命により若狭守護一色義貫を討ち取った恩賞として若狭守護に命じられたことに始まり、同年に兄が病死すると若狭を相続、父から家督と安芸分郡も継承した。ただし信賢は若狭の支配に取り組むことが多かったため、安芸分郡は父が佐東銀山城に拠って代わりに守護代格として統治していた。 翌嘉吉元年(1441年)6月24日の嘉吉の乱で義教が赤松満祐に暗殺されると、信賢は幕命に従い赤松氏討伐軍に従軍する。この隙に若狭では一色氏の残党などによる土一揆が発生したため、軍を若狭に返して一揆鎮圧に当たったという。その
近世大名の織田氏の出自を平氏とする説においては、平家の子孫が近江津田庄(現在の近江八幡市)に逃れ津田姓を称し、その末裔がのちに越前に移住し織田氏となったとされるが、確証は全くない。この津田氏は織田氏と同族ではなく、藤原氏・忌部氏の系統が有力とされている。また藤掛氏も津田氏の一族である。 織田氏の直系から見て庶流に当たる一門は津田氏を名乗り、主家との厳格なる区別を付けていた。例えば、織田信長の弟織田信勝(信行)の子津田信澄などである。また、同じく信長の一族と近年迄言われていた津田信成は大名に列したものの、江戸時代前期に改易されており、津田氏とは関係が無い。 江戸時代にも、丹波柏原藩主織田家の庶子、出羽天童藩主織田家の庶子などに津田姓を称し、藩士に列した人物を確認できる。例えば、大和松山藩主織田高長の五男津田頼房などである。 今日の愛知県に多数見受けられる津田家は、上記の津田氏とは関連性はなく
藩主家は織田氏庶流の津田家である。津田信成は織田信長の一族で、信長没後は豊臣秀吉に仕えて山城御牧に1万3000石を領していた。秀吉没後は豊臣秀頼に仕えていたが、関ヶ原の戦い直前に徳川家康に急接近して東軍に与し、戦功を挙げたために所領を安堵され、存続を許された。 しかし慶長12年(1607年)、美濃清水藩の稲葉通重と共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋の女房をはじめとする美女7・8人に乱暴狼藉を働いた経緯を家康に咎められ、御牧藩は改易された。
横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。武蔵七党系図の筆頭。有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。時兼の叔母は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻、妹は和田義盛の長男常盛の妻であった。建暦3年(1213年)和田義盛と執権北条義時とが対峙した和田合戦で姻戚関係にあった和田氏に与したが敗れ衰退した。なお猪俣党も一族であり、横山義隆の弟の時資(またはその子時範)が猪俣となった。 出自[編集] 多くの文献から、小野篁の後裔とされている。 戦国時代では照手姫伝説にも横山姓の豪族が登場している。 武蔵国多摩郡横山(現・東
武蔵七党のひとつ横山党は小野篁の後裔という。義孝のとき武蔵国南多摩郡横山を本拠として、横山を称した。 戦国末期、後裔にあたる将監時隆は美濃国に住した。その子が長隆で同国に生まれて、美濃国清水城主稲場氏に仕え、のち越前大野城主金森氏を経て、天正10年(1582)越前府中で前田利家に仕えた。旗奉行を務め近江柳ケ瀬の陣に出陣、そのときに受けた傷がもとで天正11年没した。 家督を継いだのは長知で、天正10年父とともに越前府中で前田利家・利長に仕えた。所々の合戦に武功をあらわし、三万石を知行する。加賀藩の初期において、豪商と結んで藩財政の確立に務めた。利家没後、二代藩主前田利長に対する徳川家康の誤解を解く使者となり、加賀百万石安泰の基礎を築いた。のち加賀藩の大老となり、正保三年に没した。 長知のあとは嫡子康玄が継ぎ、大坂の陣で功をあげる。その室はキリシタン大名で有名な高山右近の娘で、岳父右近から茶道
勅旨牧(ちょくしまき)は、奈良時代の日本において、文武天皇の勅旨により開発が始まった牧であり、馬寮などが用いる軍馬などの供給源とされた。御牧(みまき)とも。官牧には、ほかに諸国牧、近都牧が存在した。 日本では古墳時代に古墳の副葬品として馬具が見られることからこの頃に乗馬文化が導入され、軍事的利用される馬の育成は日本列島の各地へ広まり、特に東国において分布が拡大する。ヤマト王権では推古朝の頃には馬を管理する官職が存在しており、畿内の有力豪族により馬産が行われていた。地方においても在地首長による乗用馬の生産が行われ、律令制下には中央への貢馬が行われるようになった。 勅旨牧は、奈良時代後期に牧の管理を請け負ってきた兵部省から分離独立する形で、新たに設定されるようになったと考えられている。この時期には令制国やそこに設置された牧(御厩)からの馬の貢馬が滞りがちとなり、更に太政官において軍権を握った最
シオツチオジは、日本神話に登場する神である。 『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁(しおつちおじ)、また『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記される。 神名の表記は「塩土老翁神」や「塩土翁神」など複数あるほか、「塩」に旧字体の「鹽」を用いて「鹽土老翁神」、「鹽土翁神」のように表記する場合もあり、読み方は「しおつちおじのかみ」、「しおつちのおじのかみ」などがある。 名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神
岡山県出身。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方で、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(現・中国銀行倉敷本町出張所[1])の設計に携わった。1926年の陸軍省退職後、大原孫三郎に招かれ倉敷絹織株式会社(現・株式会社クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現・中国銀行)などの大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。 旧・第一合同銀行倉敷支店(現・中国銀行本町出張所) 1922年 大原美術館本館 1930年 1884年、岡山県賀陽郡刑部村(現在の総社市刑部)に生まれる。1903年、第六高等学校 (旧制)を卒業。1909年、東京帝国大学工科建築科(現・東京大学大学工学部建築学科)を卒業。同年、河合浩蔵建築事務所に入所する。1910年、河合浩蔵建築事務
文久元年(1861年)8月26日、津山藩藩主・松平斉民の五男として生まれる[2]。母は家女[2]。幼名は明丸[2]。 明治3年(1870年)1月26日、実父・斉民とともに清水徳川家の相続候補者として名が挙がっていたものの、辞退する。 明治11年(1878年)1月21日、兄・松平康倫が没したのちに家督を相続した[2]。同年2月15日、従五位に叙される[2]。 明治13年(1880年)9月15日、康民と改名する[2]。 明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙爵される[3][2]。 明治22年(1889年)から明治27年(1894年)にかけて、勝海舟などを通じ、政府に対し伯爵となることを働きかけるものの、失敗に終わった(越前松平家#宗家論争)。 明治23年(1890年)7月から亡くなるまで貴族院議員を務める[4]。研究会に属した[4]。 勲三等瑞宝章・旭日中綬章を受ける。日清・日露両戦争での
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