タグ

蘆刈に関するpirachanのブックマーク (100)

  • 小姫 - Wikipedia

    織田信雄の長女として誕生した。 『寛政譜』は生母を北畠具教の娘(千代御前)としているが、彼女は三瀬の変(天正4年(1576年))のときに自害しているので、誤伝である。 のちに羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養女になった[1]。秀吉の養女になった正確な時期については不明であるが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い終結後と推測される。天正18年(1590年)1月11日(または21日)、上洛した12歳の徳川秀忠と結婚した[2]。一説には、小姫は6歳であったという。縁組は織田家と徳川家ではなく、豊臣家と徳川家の縁組という意義を強く持っていた[3]。秀吉は関東出陣前に徳川家との絆の強化を意図しており、この結果が6歳での婚儀となった[3]。また、天正18年1月14日には、家康の後室となっていた秀吉の妹・朝日姫が亡くなっている。このため、朝日姫の死によって豊臣家と徳川家の婚姻関係の消滅することを憂慮した

    pirachan
    pirachan 2015/12/07
    谷崎作品関連でチェック。徳川秀忠の最初の妻。7歳で亡くなったのに禅定尼。佐佐木信綱ルート。
  • 京の名刹「法然院」の謎-建築と襖絵の出自を探る - まちもり通信DA版

    京の名刹 法然院の謎 方丈の建築と襖絵の出自を探る まちもり散人 (2015年2月20日掲載、2016年8月「はじめに」を追加掲載) 目   次 はじめに 1.法然院公式サイトの方丈に関する紹介文が不自然だ 2.上皇のお姫様の御殿を探して江戸初期の御所に分け入る 3.八百姫御殿古絵図面と現代法然院方丈平面図を比較 4.「桐ニ竹図」は330年前は違う姿でお姫様の部屋に 5.法然院方丈の襖絵画家は狩野光信ではなくて時信か 6.襖絵画家を狩野光信から孝信に変更する動きについて 1.法然院公式サイトの方丈に関する紹介文が不自然だ 京都の鹿ケ谷に「法然院」という由緒あるお寺がある。美しい風景の寺だ。鎌倉時代の初めに、浄土宗開祖の法然上人がここで修業したことにちなんで、1680年に念仏道場建立をはじめたと伝える。 法然院の方丈は、江戸時代の京都御所の御殿を移築した建物と伝えられ、そこには重要文化財指定

    京の名刹「法然院」の謎-建築と襖絵の出自を探る - まちもり通信DA版
    pirachan
    pirachan 2015/11/13
    谷崎作品関連でブックマーク。
  • 原田宗輔 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "原田宗輔" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 酒井家上屋敷跡 千代田区、丸の内 原田 宗輔(はらだ むねすけ、元和5年(1619年) - 寛文11年3月27日(1671年5月6日))は、江戸時代前期の武士。仙台藩重臣。奉行職[注釈 1]。原田宗資の子。伊達騒動(寛文事件とも)当事者の一人。通称は甲斐で、原田甲斐(はらだ かい)として知られる。 経歴[編集] 元和5年(1619年) 仙台藩着坐・原田家に原田宗資の長男として陸奥国柴田郡船岡城[注釈 2]で生まれる。幼名は弁之助。初めは雅楽(うた)と称した。母は元

    原田宗輔 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2015/08/11
    谷崎作品関連でブックマーク。小中村清矩とお春どんと三牧等
  • 猪突猛進はイノシシだけで結構 [金井啓子の現代進行形] - 大阪日日新聞

    サイトに掲載の記事・写真など一切の無断転載を禁じます。 すべての記事・写真の著作権は新日海新聞社に帰属します。 著作物使用について ネットワーク上の著作権について(日新聞協会) ご意見・ご感想は住所、氏名を明記の上 info@nnn.co.jpまで

    猪突猛進はイノシシだけで結構 [金井啓子の現代進行形] - 大阪日日新聞
    pirachan
    pirachan 2015/08/07
    7月23日、谷崎誕生日の前日に夕陽ヶ丘のお墓を見てきましたが、ようやく判りました。『蘆刈』『春琴抄』の「私」には、藤原家隆→彼を尊敬した伊達千広が埋め込まれていると。
  • 高槻ゆかりの歌人 -伊勢と能因-|地域(郷土)資料案内|高槻市立図書館

    伊勢は平安中期の女流歌人です。 宇多天皇の后であった、温子に仕えた女房です。 父、藤原継蔭が伊勢守であったため、伊勢とよばれました。 早くから歌の才能を発揮し、勅撰和歌集「古今和歌集」には小野小町の18首をしのぐ22首が選ばれています。優美な歌風で古今集時代屈指の歌人です。 後に宇多天皇の皇子を産み、桂の宮で養育しますが幼くして亡くなります。その後、宇多天皇の皇子である、敦慶親王との間に娘を設けました。それが女流歌人として有名な中務です。 家集に「伊勢集」があり、後の紫式部の源氏物語はこの家集に依るところが多いのではないかと言われています。(平安文学論集)

    pirachan
    pirachan 2015/06/25
    谷崎潤一郎著『蘆刈』読解のために。能因法師は橘氏。能因と伊勢については2010年、2013年にもチェック。
  • 入江相政(いりえすけまさ)の手紙文字 | 和玄メモ

    手作り住所印のお店「寧洛菴」・篆ゴム印(てんごむいん)の「和玄堂」店長:中谷和玄が書いたエッセイです。 書画の話や奈良・京都の情報をつづります。文字の書き方講座もあるよ。 2009年5月28日の和玄メモで、財前謙氏編著の『手書きのための漢字字典』を紹介し、 その財前氏は、 書道雑誌『墨』で連載を持たれているとも書きました。 7月1日発売の『墨』199号でのテーマは、 「羞(は)じて為さず」です。 志賀直哉の小説『焚火』と、 入江相政(いりえ・すけまさ、1905-1985)筆の 歌碑文字に先ず触れられています。 ↑群馬・赤城山大沼のほとりに立つ志賀直哉氏 ↑群馬・赤城山のつつじ 『焚火』は、 群馬県赤城山でのできごとを小説にしたものであり、 この赤城山覚満淵には、 入江相政筆の歌碑(※昭和天皇御製を入江相政氏が書いたもの) がたっているという 絶妙なつながりで書論が始まります。 ↑覚満淵 ↑

    pirachan
    pirachan 2015/05/29
    これはこれは! 入江相政から谷崎松子宛の書簡。昭和22年の昭和天皇との会見メンバーを中心に以前作った系図から浮かび上がるものの間のいろいろなピースが埋まる。
  • 飛雲閣 - Google 検索

    すべて画像ニュース動画玉藻公園高松城聚楽第庭園滴翠園うんかく建築松平家特別拝観玉藻城 飛雲閣 |... www.hongwanji.kyoto 西願寺 飛雲閣庭園“滴翠園” ―... oniwa.garden 国宝-建築|西願寺 飛雲閣[京都] | WANDER... wanderkokuho.com 浄土真宗 願寺派 願寺 飛雲閣 | 納入事例集 |... www2.panasonic.biz 親鸞生誕850年を記念 京都... www3.nhk.or.jp 飛雲閣 |... www.hongwanji.kyoto 飛雲閣 |... www.hongwanji.kyoto 飛雲閣紙製模型 文化遺産オンライン bunka.nii.ac.jp 1127:京都巡り6(国宝:飛雲閣・西願寺) |... ai-designroom.co.jp 西願寺:復活の飛雲閣、特別公開 「祝賀能」

    飛雲閣 - Google 検索
  • 浜寺町 - Wikipedia

    14世紀中頃(正平年間)、高師浜の芦田川付近(現在の高石市、南海高師浜線伽羅橋駅付近)に三光国師が南朝の拠点のひとつとして大雄寺(金松山海光院大王寺が名跡を継ぐ)を建立[1]。同じく南朝の拠点のひとつであった吉野山の日雄寺(日雄山大日寺)が「山の寺」「山寺」と呼ばれたことに対し、高師浜の大雄寺が「浜の寺」「浜寺」と呼ばれたことが、浜寺の名称の由来である。 現在、高師浜は高石市の町名、浜寺は堺市西区の地区名として定着しているが、上述のとおり浜寺の「浜」は高師浜の「浜」であり、来高師浜は現在の堺市西区から高石市にかけての海岸一帯を指した広域地名、浜寺はそのうち大雄寺跡や芦田川より北側を呼び分けた広域地名であった。 芦田川付近を境にした浜寺の呼び分けは、18世紀初頭(宝永年間)に芦田川以北の5ヶ村(船尾村、東下村、西下村、山内下村、今在家村)の住民が防潮のために植えた松林を1873年(明治6年

    pirachan
    pirachan 2014/07/28
    谷崎潤一郎著『蘆刈』『吉野葛』『夢の浮橋』読解のためにブックマーク。
  • 『偐紫田舎源氏』について知りたい。 | レファレンス協同データベース

    事例作成日 2013年09月20日 登録日時 2013/09/20 20:57 更新日時 2013/12/06 22:18 偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ) [日大百科全書(小学館)] 柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作の合巻(ごうかん)。1829年(文政12)初編刊、1842年(天保13)38編刊(39、40編は未刊草稿のまま、未完)。歌川国貞(くにさだ)画。書名は、原典である紫式部の『源氏物語』に対し、翻案の意から「似せ紫式部」、通俗性を加えた意で「田舎源氏」としたものである。・・・ 参考文献 『評釈江戸文学叢書8 洒落・草双紙集』復刻版(1970・講談社) 『日名著全集20・21 偐紫田舎源氏 上下』(1928・同書刊行会) 偐紫田舎源氏 【にせむらさきいなかげんじ】 コトバンク http://kotobank.jp/word/%E5%81%90%E7%B4%AB%E7%

    『偐紫田舎源氏』について知りたい。 | レファレンス協同データベース
    pirachan
    pirachan 2014/07/25
    『蘆刈』読解のためにブックマーク。
  • コメント「荒尾の荒木家の歴史」ご紹介 - 津々堂のたわごと日録

    荒木村重の子孫「荒尾の荒木家の歴史」について、荒木一族の研究をされている山梨県甲州市の荒木幹雄様から貴重な情報をいただいた。 もともとはブログ「荒木村重系細田氏--谷氏--田中氏(長束氏)--三渕氏」にコメントいただいたものだが、皆様に周知いたすべくここに全文をご紹介申し上げる。一昨年荒木先生が福岡県大牟田市(荒尾市とは県境をまたいでお隣)の荒木家を訪ねられた折御目にかかり、ご一緒にいろいろ資料を見せていただいたことがある。私の「肥後・荒木氏」の勉強は一向進捗を見ないでいるが、このようなご報告はありがたい次第である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 荒尾の荒木家の歴

    コメント「荒尾の荒木家の歴史」ご紹介 - 津々堂のたわごと日録
    pirachan
    pirachan 2014/07/11
    谷崎潤一郎著『鍵』絡みで中尾富枝著『「青鞜」の火の娘 - 荒木郁子と九州ゆかりの女たち』をチェックしたが、『蘆刈』に関わりのある池長孟氏の最初の妻も荒木村重の子孫だ。
  • 観心院 - Wikipedia

    惇姫像(仙台市博物館蔵) 観心院(かんしんいん、延享2年(1745年) - 文化2年9月16日(1805年11月6日))は、第7代仙台藩主伊達重村の正室。関白近衛内前の養女で広幡長忠の娘。母は側室仲小路氏。名は惇君、伊達家に入って年子(のぶこ)[1]。 宝暦10年(1760年)2月に重村と結婚。重村の祖母である長松院は大叔母で重村ははとこにあたる。 明和元年(1764年)に一女を生むが夭折。また明和7年(1770年)に後に井伊直富の正室となる満姫[2]を出生。 安永3年(1774年)に側室・喜多山氏を生母として後の伊達斉村が出生し、その養母となる。翌安永4年(1775年)に一男を出生するが夭折。 寛政8年3月2日(1796年4月9日)に江戸にて孫の政千代(後の伊達周宗)が出生するが同年4月16日に周宗生母の誠子が23歳で死去した。さらに同年4月21日(1796年5月27日)には袖ヶ崎屋敷

    観心院 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2014/06/27
    谷崎潤一郎著『蘆刈』『夢の浮橋』絡み。石山寺に源氏物語を寄進した松平定信から到達。伊達家第7代藩主、重村の正室。「年子」と名乗る。伽羅先代萩の綱村は第4代。谷崎作品には伽羅先代萩がたびたび埋め込まれる。
  • 霊元天皇 - Wikipedia

    霊元天皇(れいげんてんのう、1654年7月9日〈承応3年5月25日〉- 1732年9月24日〈享保17年8月6日〉[1])は、日の第112代天皇(在位: 1663年3月5日〈寛文3年1月26日〉- 1687年5月2日〈貞享4年3月21日〉)。諱は識仁(さとひと)。称号は高貴宮(あてのみや)。旧皇族11宮家全ての最近共通祖先である伏見宮邦家親王は来孫にあたる。 「現在の皇室」(うち今上天皇・明仁上皇及び生まれながらの皇族[2])と、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した「旧皇族(生まれながらの皇族でない親王妃・王妃を除く)及びその子孫」の、男系女系を問わない場合の最も近い共通祖先である。 後水尾天皇の第十九皇子。母は内大臣園基音の女で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。 譲位後の期間が長いため、仙洞様(せんとうさま)とよばれることが多い。歌人・能書家で

    霊元天皇 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2014/05/01
    谷崎潤一郎著『蘆刈』『夢の浮橋』絡みでチェック。母の名前が藤原国子。「国子」。結び玉だわね。乳母は圓光院殿瑞雲文英尼大師。円通寺の開基。
  • 土佐山内家宝物資料館・山内家の由来(山内家の歴史)

    pirachan
    pirachan 2014/04/23
    『蘆刈』『夢の浮橋』等、谷崎作品絡みでブックマーク。
  • 生駒吉乃 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "生駒吉乃" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2015年11月) 生駒 吉乃(いこま きつの、享禄元年(1528年)? - 永禄9年5月13日(1566年5月31日))は、戦国時代の女性。織田信長の側室で、信忠(諸説あり)・信雄・徳姫(諸説あり)の母とされる[1]。法名は久菴桂昌大禅定尼。名は『前野家文書』では吉乃(吉野)とされるが実名ではない。当時の女性の例に漏れず信頼の於ける資料が真偽論争のある前野家文書以外に殆ど残されていない。 尾張国と美濃国の国境付近で両国の通商に携わっていた生駒家宗(蔵人)の娘[2]。(愛知県江

    pirachan
    pirachan 2014/04/23
    『蘆刈』のお遊さまをはじめ、谷崎作品のヒロインに埋め込まれている。
  • 浄鏡院 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2024年4月) 浄鏡院(じょうきょういん、元文6年1月17日(1741年3月4日) - 文政4年12月17日(1822年1月9日))は、出羽国米沢藩主家の上杉氏一族の女性。9代藩主上杉治憲(上杉鷹山)の側室。4代藩主上杉綱憲の六男・上杉勝延(式部)の三女。初めお琴の方、後にお豊の方。一般的には生前のお豊の方で知られる。歌号は麗之。治憲との間に顕孝と寛之助をもうける。 治憲が米沢藩に初入部した翌年の明和7年(1770年)6月に側室となり、「お琴の方」と称す。治憲は他に側室を置かなかった。明和8年(1771年)に「お豊の方」と改名する。 安永5年(1776年)に顕孝を、安永7年(1778年)には寛之助を産むが、寛

    pirachan
    pirachan 2014/04/22
    谷崎潤一郎著『蘆刈』のお静、『春琴抄』の春琴の妹、『夢の浮橋』のお兼等のモデルの一人としてブックマーク。
  • 林泉寺 (米沢市) - Wikipedia

    門内の様子 林泉寺(りんせんじ)は、山形県米沢市にある曹洞宗の寺院。山号は春日山(かすがさん)。米沢藩上杉家の菩提寺であり、また同藩士直江兼続の菩提寺でもある。江戸時代初期に上杉家が移封先の米沢城下に建立した。なお、上杉家は前身の長尾氏の時代にも、居城・春日山城の山麓に同名の春日山林泉寺を建立しており、こちらも今日まで新潟県上越市に存在する。 上杉家の拠地があった春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立された林泉寺を元としている。関ヶ原の戦いの後に米沢に移った上杉景勝の実母(上杉謙信の姉、長尾政景の)仙洞院(仙桃院とも呼ばれる)が元和3年(1617年)に林泉寺14世・万安大悦を招聘して同号の寺を建立された。 上杉家の転封にともない謙信の遺骸、上杉家関係の文書、重宝の大半が米沢に移された。林泉寺もこれに従って移転したとされる。 謙信の遺骸は慶長17年(1612年)に米沢城丸内に設けら

    林泉寺 (米沢市) - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2014/04/22
    谷崎潤一郎著『蘆刈』『夢の浮橋』絡みでブックマーク。
  • 九十九髪茄子 - Wikipedia

    九十九髪茄子(つくもかみなす)は、大名物・漢作[注 1]唐物茄子茶入。付藻茄子とも呼ばれる[1]。 由来[編集] 古来この茄子茶入は「つくもがみ」と呼ばれていた。漢字では「九十九髪」もしくは「付喪神」と表記し、前者の漢字をあてる場合は老女の白髪を意味する。また、後者の漢字をあてる場合は古い器に霊が宿った妖怪を意味する[2]。前者の場合『伊勢物語』の一節「百年に一年足らぬつくもがみ我を恋ふらし面影に見ゆ」から、完全な形を意味する百に対して石間[注 2]が欠点で「百」至らぬ「九十九」という意味で名付けられた[2]。また、後者の場合は二つある石間が両目のようであったからと解されて名付けられた[2]。また、付物・作物の字をあてることもある[1]。 この茶入れを珠光が九十九貫で購入したことを結びつけて命名されたと伝えられている[3]。しかし、九十九貫で購入したことを結びつけての部分は伝承に過ぎないと

    pirachan
    pirachan 2014/04/18
    谷崎潤一郎著『蘆刈』絡みでチェック。松永久秀は、この茶入は信長にすべなく献上し、最期は平蜘蛛茶釜と共に爆死した。この茶入は本能寺で灰燼に帰したという説があるが、明治になって岩崎弥之助の所有となった。
  • 歌川国貞 - Wikipedia

    香蝶斎豊国肖像 孝子国貞筆 大判錦絵 元治元年 死絵の内の一作。 歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年5月19日[1](1786年6月15日)- 元治元年12月15日(1865年1月12日))は、江戸時代の浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。 歌川国貞 画 『吉原時計  亥ノ刻』 歌川国貞 画 『八重織の霊』 歌川国貞画「今源氏錦絵合 須磨 十二」 初代歌川豊国の門人。名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。画姓として歌を称す。号は、五渡亭(文化8年から天保末)、香蝶楼(文政10年から嘉永初)、一雄斎(文化9年から)、琴雷舎(文化10年)、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、応好、月波楼(文化8年)、喜翁(文久2年)、国貞舎豊国、雛獅豊国、浮世又平、不器用又平などがある。面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。弘化元年(1844年)の一陽斎豊国襲名

    歌川国貞 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2014/04/14
    『蘆刈』『富美子の足』等、谷崎作品絡みでチェック。“柳亭種彦『偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。”お遊さまの生活を表現するのに田舎源氏が出てくる理由か。
  • 内藤如安 - Wikipedia

    内藤 如安(ないとう じょあん) / 内藤 忠俊(ないとう ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。 如安はキリスト教の洗礼名ジョアンの音訳名で、諱は貞弘(さだひろ)、忠俊(ただとし)。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波国の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された[4]。 天文19年(1550年)頃[5]、三好氏重臣である松永久秀の弟・松永長頼の息子として生まれる[6]。 父・長頼は畿内で強盛を誇った三好長慶の下、部将として活躍し[7]、丹波守護代である内藤国貞の娘婿となっていた[8]。天文22年(1553年)に国貞が討死すると、長頼は内藤氏の居城・八木城(船井郡)に入り、子・千勝(貞勝)を内藤氏の家督として、その後見を務めた[9][注釈 1]。この後、貞勝が内藤家当主として備前守の官

    内藤如安 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2014/04/14
    谷崎潤一郎著『蘆刈』の葦間の男のモデルの一人。『幼少時代』に国貞の絵が出てくるのは、「国貞」という名前が結び玉になっているのか。
  • 武家家伝_松永氏

    松永氏の出自には諸説あって確証はないが、『陰徳太平記』のいう摂津五百住説や高槻城主入江氏との姻戚関係から考えて、畿内の出身であることはほぼ疑いない。 松永久秀は若年から三好長慶の右筆となって活動していたと推測され、天文十一年(1542)には長慶の部将として南山城に進駐している。弟長頼も軍事的才幹をもって長慶に仕え、天文十八年(1549)六月、摂津江口の合戦で敗れた細川晴元政権が崩壊したのに伴い、京畿方面で三好長慶の進出が目立ったが、長頼は長慶の被官として幕府領の山科七郷を押領した。翌十九年には、長慶が将軍足利義輝と戦った際には、醍醐から迂回して近江大津、松に進撃して集落を焼き払い、義輝を坂へ退却させた。長頼は、兄久秀よりもはやく独立の部将として活動していた。 同二十年七月の晴元との戦いでは、久秀とともに相国寺に拠る三好政勝らの軍に猛攻を加え、丹波へと敗走あせた。 天文二十二年、久秀は、

    pirachan
    pirachan 2014/04/14
    谷崎と同じ蔦紋か。系図が蘆刈絡みで興味深い。