織田信雄の長女として誕生。『多聞院日記』に天正18年(1590年)の祝言の時点で6歳と記述があるため[3]逆算すれば天正13年(1585年)の生まれとなる[4]。『寛政重修諸家譜』巻489「織田」では生母を北畠具教の娘(千代御前)としている[5]が、彼女は三瀬の変(天正4年(1576年))のときに自害しているので、誤伝である。 『多聞院日記』によれば「小姫君」は「本所御茶筅(織田信雄)」の娘として生まれ、2,3歳の時に豊臣秀吉の養女となったという[6][3]。フロイス『日本史』Ⅰに天正15年(1587年)7月14日に九州平定から帰還した秀吉が「ある貴人の娘」を養女として大坂城で盛大な祝宴を催したとの記述があるため、彼女を秀吉が養女としたのは同年秋ごろとみられる[5][7]。 天正18年(1590年)1月21日、6歳のとき上洛した12歳の徳川長丸(秀忠)と聚楽城・浅野長政邸で祝言を挙げた(『