織田信雄の長女として誕生した。 『寛政譜』は生母を北畠具教の娘(千代御前)としているが、彼女は三瀬の変(天正4年(1576年))のときに自害しているので、誤伝である。 のちに羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養女になった[1]。秀吉の養女になった正確な時期については不明であるが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い終結後と推測される。天正18年(1590年)1月11日(または21日)、上洛した12歳の徳川秀忠と結婚した[2]。一説には、小姫は6歳であったという。縁組は織田家と徳川家ではなく、豊臣家と徳川家の縁組という意義を強く持っていた[3]。秀吉は関東出陣前に徳川家との絆の強化を意図しており、この結果が6歳での婚儀となった[3]。また、天正18年1月14日には、家康の後室となっていた秀吉の妹・朝日姫が亡くなっている。このため、朝日姫の死によって豊臣家と徳川家の婚姻関係の消滅することを憂慮した