タグ

2013年5月21日のブックマーク (2件)

  • 吉田茂 - Wikipedia

    1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)[注釈 1]に生まれる[2]。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった[1]。実母の身元はいまでもはっきりしない[1]。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[1]。 小学時代の吉田 吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の所産であった[3]。 1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる[2]。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[

    吉田茂 - Wikipedia
    pirachan
    pirachan 2013/05/21
    谷崎潤一郎著『瘋癲老人日記』の東京駅のシーンで、老人が「鳩山さんじゃあるまいし」と言っているのよねぇ。これがすごく気になって。
  • 武家家伝_牧野氏

    源平合戦のとき、阿波国住人で平清盛の股肱として知られた田口民部大夫・成良父子がいた。この田口氏は、朝臣の姓を帯び、蘇我氏・石川氏などとともに紀氏の流れを汲んだ名門であるという。 平家一門が西走した時、成良は四国に帰り、讃岐国を制圧した。平家が九州より退去すると、屋島に迎え、彼自らは阿波守に任じられた。そして成良は、四国の武士たちに安徳天皇の下に帰服するように呼びかけ、一大勢力を築きあげたのであった。元暦元年の一の谷の合戦には、平家方として奮戦している。 嫡男の教良は義経方に帰伏し、成良も平家の前途に見切りをつけて、源氏方に寝返った。平家方が壇の浦の合戦に敗れたのは、成良が源氏に走ったことも大きな要因の一つであった。しかし、成良・教良父子の返忠は認められず、鎌倉において処刑された。三河の戦国武将牧野氏は教良の末裔と伝えられている。 国人領主に成長する 成継のとき三河国宝飯郡牧野庄の地頭となり

    pirachan
    pirachan 2013/05/21
    谷崎作品絡みで。蘆花著『不如帰』の武男のモデルの姉(峰子さん)の夫が牧野氏。「峰子」は大塩関係、鷗外の母、根津氏の親戚等、要になっている。阿波も重要。蜂須賀年子さんと松子夫人の妹重子さんは義理の姉妹。