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武家家伝_牧野氏
源平合戦のとき、阿波国住人で平清盛の股肱として知られた田口民部大夫・成良父子がいた。この田口氏は... 源平合戦のとき、阿波国住人で平清盛の股肱として知られた田口民部大夫・成良父子がいた。この田口氏は、朝臣の姓を帯び、蘇我氏・石川氏などとともに紀氏の流れを汲んだ名門であるという。 平家一門が西走した時、成良は四国に帰り、讃岐国を制圧した。平家が九州より退去すると、屋島に迎え、彼自らは阿波守に任じられた。そして成良は、四国の武士たちに安徳天皇の下に帰服するように呼びかけ、一大勢力を築きあげたのであった。元暦元年の一の谷の合戦には、平家方として奮戦している。 嫡男の教良は義経方に帰伏し、成良も平家の前途に見切りをつけて、源氏方に寝返った。平家方が壇の浦の合戦に敗れたのは、成良が源氏に走ったことも大きな要因の一つであった。しかし、成良・教良父子の返忠は認められず、鎌倉において処刑された。三河の戦国武将牧野氏は教良の末裔と伝えられている。 国人領主に成長する 成継のとき三河国宝飯郡牧野庄の地頭となり
2013/05/21 リンク