昨日、『ウルトラマンメビウス』が一年間の放送に幕を下ろした。 『ウルトラマンネクサス』の途中打ち切り、『ウルトラマンマックス』の急遽登板と、前2作品が何れも9ヶ月という半端な放送期間だったことを考えれば、完走できたことは喜ばしい。 劇場版とウルトラ兄弟ゲスト編、それに最終回くらいしか見ていないので大きなことは言えないが、手垢のついたヒーローも、見せ方によってはまだまだ充分イケるんだな、と再認識させてくれた番組だったと思う。 1981年に『ウルトラマン80』の放送が終了してから約15年、1996年に『ウルトラマンティガ』でTVシリーズが再開され、幾度かの中断期間がありながら継続されてきたのだが、これら平成期の作品では設定を一新し、意図的に過去シリーズとの関連は否定されてきた。 すっかり過去のものとなった感のあった昭和期の作品群だが、かえってそれが良かったのだろう。ストレートにこれらの作品群の
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
ピンボケで申し訳ないけど、これが復元されたガンヘッド。 昨夜のガンヘッドイベントは、『ガンヘッド』をネタにした川北紘一氏(特技監督)のイベントだったね……あの映画に特撮的な見せ場なんかひとつもないと思うんだが。『ガンヘッド』が「ロボットアニメ」に果たした役割というのは、来月発売のグレートメカニック24号のオヤヂ酒場を読んでいただくとして、俺は改めて、この映画の「フィルム」の部分が好きなのだと思い知った。セリフやカッティング。あと、こういう部分とかね。DVDのメイキングで原田眞人監督が「エイジングされた(使い込まれた)映像」と語っているけど、撮影もいい。 だから、本質的に「川北ナイト」「特撮ナイト」だった昨夜のイベントでは、強烈な疎外感に襲われた。はぐれものの映画の中で、さらに少数派のファン(笑)。 よく、どうして自分がアニメ好きなのか考えるんだけど、心の中に幼児性を残しているからだろうね。
6月19日の日記が異常に注目されたので、すかさず補論とともに『TONE』第2号を紹介したが(一見こじつけのようだが、書いた通り、実際「日本人は戦前も戦後も隣にいる『みんな』に合わせてるだけだ」という見解は、実際この一連の特集記事の中で考えたことだ)、考えてみると引用リンクされたのは19日の日記のみで、その後書いた分は読まれてないのかも知れないと気づく。 それに引用リンクされるのは結構だが、それに対してどう思ったかが曖昧な人が多く、ここには何ら反響がこない。 とにかくどう思われたかわからんので、わたしの日記にリンクを張った見ず知らずの人物の一人に感想を求めたら、どうも脅迫のようになってしまったらしい。反省すべし。 まあ、俺も悪いのだが。 さりとて、ブログにコメントがついても、外野には「どうせ身内でうなずき合って、いい気なもんだ」と言われるようなものにしかならず、それが虚しいので、ここ数ヶ月ブ
怪獣ブームは終わり、アニメの敵ロボットへと姿を変えた「怪獣」の存在もやはりスーパーロボットアニメの人気が下火となるとともに消えていきました。 70年代後半から80年代へと時代が移る時期、怪獣、特撮にとっては不毛の時期であったと思います。 しかし、それでもテレビというメディアから怪獣が姿を消すことはなかったのです。 1979年から80年にかけて放送された「バトルフィーバーJ」は下火となった怪獣・・・・・正確には怪人を再び息を吹き返させる番組となりました。 「バトルフィーバーJ」を製作した東映は「仮面ライダー」をはじめ等身大ヒーローと人間タイプの怪獣である「怪人」を次々とテレビのブラウン管に送り込み「第2次怪獣ブーム」、あるいは「変身ブーム」を築いた立役者でありました。 そんな東映でしたがブームの終焉とともに特撮からアニメへと方向転換し、ヒーロー、怪人番組にはあまり積極的な姿勢を見せていません
撮影は既に昨年のうちに終了し、先月末には打ち上げも行われ、3月末の最終回へ向けて怒涛の展開が待っている『メビウス』なのですが、未だにきちんと放送を見たことがありません。 劇場版(『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』)の方はDVDも購入しまして再見したんですがねぇ。 流石に先週の放送なんかは「きちんと見ないとあかん」と思っていたのですが、結局は録画したものを飛ばし見。それでもジーンとくるものがありましたね。今週もなんだかんだで気になりつつも、結局は録画→早送り再生・・・。 先週のエピソードは簡単に言えばウルトラマン80が客演するというお話なのですが、メビウスのピンチを颯爽と現れた80が救う、というようなありがちな展開ではなく、『ウルトラマン80』という番組の、真の最終回とでも言えそうな内容でした。 『80』はご承知のように主人公が中学校の先生であり、UGMの隊員でもあり、なおかつウルトラマ
昭和29年制作の初代ゴジラを生んだ映画監督・本多猪四郎webサイトへようこそ。 ここは本多猪四郎監督の作品と人柄に惹かれた仲間たちにより作成されたwebサイトで、ゴジラを始めとするSF作品のみならず本多監督の全てを仲間達が紹介しております。 Copyright (C) IshiroHonda.com All Rights Reserved. -- 新着情報! -- アメリカで初の本格評伝刊行! 映画評論家・ジャーナリストのSteve Ryfle、当サイト英語版の運営を担当しライターとしても活躍しているEd Godziszewskiの共著による評伝『ISHIRO HONDA A LIFE IN FILM,FROM GODZILLA TO KUROSAWA』がWESLEYAN UNIVERSITY PRESSより発売中。マーティン・スコセッシが序文、ジョン・カーペンターがカバーに推薦文をそれぞ
第2次怪獣ブームの終焉は、「アニメロボットの人気に押されて特撮怪獣番組が低迷したことが原因」とこのブログで何度か書いてきました。 しかしアニメロボット番組というのは実は特撮怪獣、ヒーロー番組の延長上にあったものなのです。 言ってみればそれまでの「怪獣」が新しくモードチェンジしたものがアニメロボットの「敵ロボット」だと言えます。 アニメ巨大ロボットは特撮ヒーローのニュースタイル、そしてヒーローにあたるロボットと戦う敵ロボットが新しい時代の「怪獣」になったのです。 毎回、新しい怪獣が登場しヒーローと戦い、敗れる。 次の週には、また新しい怪獣が登場してヒーローと戦う。 この特撮ヒーロー、怪獣番組の基本フォーマットとも言えるスタイルは巨大アニメロボットにも継承されました。 巨大ロボットと戦う敵ロボットは毎週新しいものが次々と登場し、都市を破壊し暴れまわり、そしてヒーローロボットと戦っては必殺技に破
題名:ジュピターが集めた、熱いSF的視線 <リード> この映画の誕生過程には、当時の世にあった“SFへの情熱”の影が焼きついている。 国産初の本格的SF映画誕生への期待──それは周囲状況と、どう関連していたのだろうか? <本文> ●小松左京とSF映画 本作で一番重要なのは、実は作品そのものではなく、「なぜあのとき『さよならジュピター』というSF映画が必要とされたか? どうしてあれだけ話題になったのか?」という部分ではないか。それを周囲状況を中心に確認したい。 そもそも小松左京がSF作家として出発するきっかけにも、SF映画が大きく関係していた。1961年、早川書房の第1回S-Fマガジンコンテストにおいて選外努力賞として『地には平和を』が入選、これがデビューの契機となった。このコンテストには東宝も出資し、選者に『ゴジラ』のプロデューサーとしても知られる田中友幸が名を連ねている。換言すれば、小松
「第3次怪獣ブーム」なんてものがあったのかどうか自分はわかりません。 自分は幼少期のころから小学校の真ん中あたりまで続いた、約10年間の「第1次怪獣ブーム」と「第2次怪獣ブーム」を体感していますが、それ以降、かつてほどの「怪獣ブーム」というのは見たことはなかったですね。 世間全体が「怪獣」というムーブメントに覆いつくされたのは後にも先にも昭和40年から昭和50年までの10年間だけでした。 今で言う「ポケモンブーム」以上のものがあの時代にはありました。 子供の好きなものは「巨人大鵬玉子焼き」なんていわれていた時代もありましたが、その「巨人大鵬玉子焼き」全部をひっくるめても、あの「怪獣ブーム」のころの「怪獣」には太刀打ちできなかったほどですね。 しかし、あんなにすごかった怪獣ブームも次第に廃れ、子供たちの興味は怪獣からアニメの巨大ロボットへと移っていき、日本全土を巻き込んだ空前の怪獣ブームは終
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