▼富野御大が切れるのは、褒められると、スポンサーによって自分を曲げられた部分まで褒められた事になるからに他ならない。 企画はスポンサーに自分を曲げることで通ることが多々ある、という話。 その制約を受けなくなった御大は初めて自由にモノを作れるが、その頃には自由って何ってな感じで狂ってるという話。 メディアミックスでしかメジャーになれない押井先生みたいな感じ。 いや、メディアミックスでオレが薄まるから理解されやすい? どうなんだろ。 作り手は、社畜になりながら自己表現するという二律背反を背負うことに他ならない。つまり商業作品が評価されるというのは、会社に企画負けして飲まされた凡庸な部分と、そこで反逆した部分も同時に評価されるという自分の企画の先鋭さをつぶされた部分と、そうでない部分を同時に褒められるという痛し痒しな部分を突きつけられるということ。 商業作品を褒めるというのは、作り手