アニメ監督・富野由悠季の(色んな意味での)偉大さについて異論を挟む者はいないだろう。 しかし「小説家」富野由悠季はというと必ずしもそうではない。 いや、むしろ「文章が粗い・構成が雑」と、いわゆる「ジュニアノベル」の代名詞として自称「活字愛好家」たちの批判に晒されることが多かった。 しかし、角川がまだSFやファンタジーを「スニーカー文庫」ではなく「角川文庫」から出版していた頃からこの「ジュニアノベル」の代表的作家であり、かつジャンルを定着させた功労者として・・・少なくともその歴史的意義は評価されてしかるべきだろう(そういえばこのジャンルの十八番「西欧風ファンタジー」をアニメに持ち込んだのも御大将でしたね) 今回の特集はそんな御大将の「小説」を特集します、最近「∀」の映画版関係でメディアへの露出が多いですし。 なんせ私・善良な市民は御大将がこれまで綴られてきたおよそ60冊の
新劇場版を先週みたけれども予告編が面白かった 笑。エヴァは経済学の対象にはならないだろうな、と思ったけれどもよく考えたらガンダムよりもある意味でチャレンジングな対象かもしれない。ガンダムの方はイケメンガンダムを始め、わりと経済戦争的な要素だとか、経済格差、戦略交渉の経済学、行動経済学や小野善康経済学などを取り入れられるので語りやすい。 エヴァの方は、人類が半分滅んだ後の世界+要塞都市+現状と大して変わらない消費都市という感じだと当初は思っていた。要塞都市の風景を統制経済と考えるのはちょっと間違いで、単なる自然災害を防ぐ土木事業の一種と思えばいいかな、と思っている。人口が半減したので、少なくともエルフの皆さん方のような熟練労働者の実質賃金は高そうであろう。またセカンドインパクト直後はたぶんハイパーインフレに見舞われ、その後はインフレ抑制をぐりぐりやって深刻な不況へ、そして猛烈な土木事業・軍事
finalventさん経由 ■ブログの開設期間は、1年〜2年がもっとも多く28.7%。→該当(ここもちょうど二年) ■ブログの1日の平均アクセス数で500を超えるものは、2.3%。→該当(1000〜1400くらい) 平均アクセス数50以下(わからないも含む)のブログが全体の75%を超える。→更新しないときの韓流ブログ 笑 ■60%以上のブロガーは週に1回以上更新をしている。→該当 ■平均アクセス数500以上のブログと500以下のブログとの比較では、 500以上のブログは、「発信する情報を通して、他人の役に立ちたいため。」「収入を得るため」が多い。 →前者かな。ただし本当に書くべきことはブログよりもやはり他の媒体(書籍、雑誌など)で書くべきでしょうね。ここはせいぜい思いつきや情報を書く程度だと思いますが。 500以下のブログでは、「家族・友人・知人への近況報告のため。」「ブログ自体が流行って
『新現実』の東浩紀と大塚英志の対談を読了。主に東氏の発言の核心は以下。 「東:問題をさらに一般化すると、いわゆる「他者」とのコミュニケーションは本当に多くの人間にとって必要なのか、そこに大塚さんと僕との立場の違いが収斂している感じがします。この場合の他者というのは、他人ということではなく、抽象的な他者というか。文化的背景が異なったり、言語が異なったりして、コミュニケーションコストがかなり高い人ということですね。そういう人とコミュニケートすることが、本当に万人にとって必要なのか、というと、僕は一貫して言っているとおり疑問に感じるわけです。そりゃ、他者とのコミュニケートを渇望する人もういるとは思いますよ。哲学者とかアーチィストとかそのほか。でも、たいていはそうではないないのではないか。そして、それでも社会は存在するし、家族のような親密圏、村落共同体のように小さな公共圏は残るだろう。それでいいの
いま、『スカイ・クロラ』の感想文を書いている。この作品、ここ最近見た映画のなかでは抜群におもしろかったし、過去の押井作品のなかでもいちばん好きなんだけれど、いくつか気になる点もあった。 そのひとつがタバコ。とにかくやたらとタバコを吸う場面が登場する映画なのである。その意味は物語を見ていれば追々わかってくるのだが、この健康ブームの時代、大丈夫なのか? そう思い、映画館から帰ってから「スカイ・クロラ タバコ」で検索してみた。案の定、文句をつけているひとたちが見つかった。日本禁煙学会がプロダクションI.Gに質問状を送っているのだ(pdfファイル注意)。 http://www.nosmoke55.jp/action/0808skycrawlers.pdf ぼく、この手の公開質問状というもの自体気に食わないんだけれど、この場合は内容も問題含みだと思う。というのも、ほとんど映画の内容を理解しているとは
ゼロ年代の想像力やPLANETSで最近になって惑星に興味を持ったけど旧サイトが見れないorいちいちURL直すのが面倒くさいという人のために。 旧惑星開発委員会は宇野常寛(善良な市民)さんが大学生のころ趣味で運営していたサイト(2002~2003年)です。 ・惑星開発大辞典リンク http://anond.hatelabo.jp/20071031195955 ・善良な市民のオタク黒歴史 第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話 第13話 番外編 ベンヤミン事件1 ベンヤミン事件2 ベンヤミン事件3 ・善良な婦女子の不定期エッセイ 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 ・月刊クロスレビュー ガンダム 押井守 ガイナックス 宮崎駿 ジャパニメーション ジュニアノベル前編 ジュニアノベル後編 大月アニメ 角川マンガ 富野 ・妄想ゲーム企画
正しいタイトルって何? 「Tosikの雑記 - はてなブックマークのタイトルにブログ名が消されている事情」を読んでちょっと考えたのだけど、 HTMLのtitle要素には 「タイトルにブログ名が入っていると不便なとき - blog.fuktommy.com」 とある RSSフィードの各itemのtitle要素には 「タイトルにブログ名が入っていると不便なとき」 とある HTMLのh1(h2~h6)要素には 「タイトルにブログ名が入っていると不便なとき」 とある (別の例として)HTMLのtitle要素には 「blog.fuktommy.com」 とあり、HTMLのh1(h2~h6)要素には 「タイトルにブログ名が入っていると不便なとき」 とある こんなときに、この記事の「正しいタイトル」は何なんでしょうね、 という疑問があるんですよ。 HTMLが記事の本質であるRSSフィードはただの新着情報
質問 押井はしょせんこけおどし。『天使のたまご』はまさに決定的証拠です。インテリ芸術家を気取った84分のマスかきANIMEでした。物語に背骨にあたるものがないだけでなく、ユダヤ教やキリスト経のシンボル図像をこれでもかと押しつけてきます。何を伝えているのか自分でも知らないと押井本人と公言しています。つまるところ「映像芸術」のすべてがある「映画」未満の作品、でした。 あれが嫌いだというわけではありません。いわゆる実験芸術系映画としては最高ランクの映像作品だと思います。だけど名前も明確な行動目的もない登場人物にくわえ、少女が眠っている間に彼女の無垢を利己的理由で打ち崩す存在としてキリスト像を持ち出したりする作品を何かの寓話として崇める気にはなれません。『天使のたまご』は映像的には類を見ないほど抜きんでているとしても、中身については果たしてどうでしょうか。もともとメッセージなぞないのだとしたら、何
質問 押井はしょせんこけおどし。『天使のたまご』はまさに決定的証拠です。インテリ芸術家を気取った84分のマスかきANIMEでした。物語に背骨にあたるものがないだけでなく、ユダヤ教やキリスト経のシンボル図像をこれでもかと押しつけてきます。何を伝えているのか自分でも知らないと押井本人が公言しています。つまるところ「映像芸術」のすべてがある「映画」未満の作品、でした。 あれが嫌いだというわけではありません。いわゆる実験芸術系映画としては最高ランクの映像作品だと思います。だけど名前も明確な行動目的もない登場人物にくわえ、少女が眠っている間に彼女の無垢を利己的理由で打ち崩す存在としてキリスト像を持ち出したりする作品を何かの寓話として崇める気にはなれません。『天使のたまご』は映像的には類を見ないほど抜きんでているとしても、中身については果たしてどうでしょうか。もともとメッセージなぞないのだとしたら、何
トラックバックまでいただいたので、そこを足掛かりに、例の「劣悪な鑑賞者」の問題をより詳しく論じてみよう——一口で言ってしまうなら、事はそれほど単純ではない。 まず問題になってくるのは理解度だ。 この問題を持ち出すと、必ずと言っていいほど、鑑賞者は創作者の意図通りに作品を読み解かなければならないのか、という反論が出てくる。今回トラックバックを下さった方もその一人だ。これに対しては、こちらから一つ疑問を呈しておこう——作品を正確に理解するとは、創作者の意図通りに理解することなのか。 もちろん違う。何故なら、鑑賞者の前にあるのはただ作品だけであるからだ。その段階では創作者が何を言ったとしても、作品に加えられた多くのコメントのひとつに過ぎない。作品を前にして創作者の意図を汲むなどという試みは全くのナンセンスだ。 ただし、作品の同一性は厳然として存在する。鑑賞者Aと鑑賞者Bの前にある作品が同じ作品で
とある「崖の上のポニョ」に関する記事の中に、こういう記述がありました。「批評」を、算数ドリルの答え合わせのような、どこかに確たる「正解」があって、自分はそれを知っているかのように作品を「採点」することだと思っている人が多すぎやしないでしょうか。みんなが知っているような「正解」とは違う、自分には思いもよらなかったような新しい答え方を、作品の中に発見する営みのことを批評と呼んだ方が、僕はいいと思います。どきどきのような!ふしぎのような!−「崖の上のポニョ」について− - 宮本大人のミヤモメモ これについて、ぼくの思っていることを述べます。 まず、映画の見方について、ぼくの考える映画の見方の「正解」というのは、「どう解釈するか?」ということの中にはありません。「崖の上のポニョ」をどう解釈しようと、それは自由だと思います。その映画の解釈に、一つの絶対的な「正解」があるわけではない。ポニョを可愛いと
どうも本格的に宮崎スイッチが入ったらしく、大日本絵画発行の『泥まみれの虎』を衝動購入。エストニアの農村で戦ったドイツ戦車兵の手記を原作に、宮崎駿が現地取材と膨大な想像力を駆使して漫画化した労作。想像力ってのは、知識という裏づけがないと説得力を持たないんだと痛感した。『ポニョ』を「子供レベルの想像力」だと思っている人は、宮崎駿が偏執的とも言える「現実観察主義者」であることを知らないんじゃないだろうか。 もっとも、この本の後半に収められた『ハンスの帰還』には、民間人の女の子が登場。なんと敗走する戦車の指揮をとってしまう(四号戦車の断面図に女の子が座っている図解は、なかなか倒錯的)。明らかに妄想なのだが、くだんの女の子はとっさの判断で真っ赤なスカートを脱いで、追撃してくるソビエト機に向かって赤旗のように振る! やっぱり、知識の上に乗っかったギャグとエッチは味わい深い。 この本の編集は、卯月緑さん
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