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ブックマーク / takekuma.cocolog-nifty.com (49)

  • 宮崎駿のアヴァンギャルドな悪夢: たけくまメモ

    昨日の土曜日、宮崎アニメの新作『崖の上のポニョ』を見てきました。一応、ネタバレにならない範囲で感想を書きますと、見たことがない種類のアニメーション映画でした。アニメーションとしても映画としても、似た作品を俺は思い当たらないし、過去のどの宮崎アニメとも似ていません。 もちろんキャラクターとか、ディティールの演出やセリフはいかにも「宮崎駿」なんですよ。確かに宮崎アニメに違いないが、見ている最中の「違和感」は、これまで感じたことがないほどのものです。まるで、はっと気がついたら父親が人間モドキに変わっていたような感じ。 『魔女の宅急便』を試写で見たときに、それまでの宮崎アニメと雰囲気が違うので少しとまどったことがありますが、二度目に見たときには大好きになりました。『ポニョ』も複数回見れば、印象が変わるのでしょうか。たぶん、そうなのでしょうが、今度ばかりは「理解した」と思えるまでに時間がかかるかもし

    prisoner022
    prisoner022 2008/07/20
    日本で一番商業的に成功した映画監督である宮崎駿さんは、その圧倒的な地位を利用して呆れるほどプライヴェートなこの映画を作り、それで後はもう死んでもいいと思っているんじゃないでしょうかね
  • たけくまメモ : マンガ界崩壊を止めるためには(6)

    ●限界に来たマンガのビジネスモデル 以上、述べて来ましたように、マンガ界はこれまでのビジネスモデルが限界に達しつつあり、早くなんらかの手を打たないと、大手出版社を始めとして版元も作家も共倒れになる危険性があります。 もちろんこれはマンガ界単独の問題では実はなくて、「版元―取次―書店」といった出版流通の構造が限界に達しているということで、全出版流通の三割を占めるマンガ(雑誌・単行)が売れなくなってきているということが、事態をより深刻にしているわけです。 ブックオフやマンガ喫茶の隆盛を見る限りでは、マンガ読者が減っているのではなく、マンガを(新刊で)買う人が減っているだけだということがわかります。ここから考えても、マンガ表現そのものは、これからも生き残るだろうと思います。 実際、出版流通の中心から目を転じてみるならば、コミケなど同人誌即売会の隆盛は年々大きな存在感をしめしており、インターネッ

  • たけくまメモ : マンガ界崩壊を止めるためには(2)

    ●すでにモラルや精神論で解決する問題ではない 少し更新が開いた間に、当方のエントリに対していくつかのブログから反響があったようです。その中で、現状認識において俺の考えに近いと思ったのが、agehaメモさんの「雑駁に言うとハリウッドは、東海岸の興行主から逃れた映画人達が形成した」というエントリでした。 http://d.hatena.ne.jp/ageha0/20080610/p1 ↑agehaメモ「雑駁に言うとハリウッドは、東海岸の興行主から逃れた映画人達が形成した」 プロフィールがなかったのでどんな方かはわからないんですが、解決策の一例としてあげられた「フリーマガジン」の案を除いては、俺の考えとほぼ同じです。以下、俺が「そう、そうなんだよ!」と思った箇所を同エントリから引用します。 《 問題の根っこは、共にサクヒンを作り上げるべき「編集者」が「出版社のサラリーマン」である事、であるように

    prisoner022
    prisoner022 2008/06/14
    (70年代まで)の日本マンガは「モーレツ社員の論理」が支配/社員も作家もモーレツに働いて名作・ヒット作を/今/「モーレツ」はほとんどいない/「モーレツ社員前提のフレーム」は未だに生きていて/
  • たけくまメモ : マンガ界崩壊を止めるためには(1)

    マンガ家・雷句誠氏が6日に小学館を提訴してから3日が経過しました。その間、この問題はネット中を駆け回り、今さら何かを書こうにもすっかり出遅れた感じになってしまいました。もちろん俺も何か書こうとは思っていたのですが、この件に関しては、現時点では雷句氏側の見解(訴状と陳述書)しか公になっていないので、なんとも言えなかったというのが正直なところです。 http://88552772.at.webry.info/200806/article_2.html ↑雷句誠の今日このごろ。「(株)小学館を提訴」 新聞報道を読んでも、雷句誠氏が小学館に原稿を紛失されて損害賠償を提訴したという事実関係以外は、まだ何も書かれていません。小学館としては「訴状が届いていないのでコメントできない」の一点張りで、問題が公になったのは金曜日でしたから、訴状が届かないのは仕方がないです。それで、明けて月曜夕方になるまで様子を

    prisoner022
    prisoner022 2008/06/10
    過去25年間、マンガ原稿料の相場を据え置いていた/マンガ雑誌の数が今の半分になり、定価が今の倍になるまでこの状態は続く
  • スピード社の水着は心配だ: たけくまメモ

    昨日のニュースはスピード社の水着の話題で持ちきりでしたな。当初は国内メーカーの水着にこだわっていた日水泳連盟も、新記録連発とあってはグウの音も出ず、容認の方向に向かうようです。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080606-00000080-mai-spo ↑決勝5種目で日新…いずれの選手もLR着用前向き それで、俺としては選手が望むようにしてやってくれと思うしかないわけなんですが、スピード社の水着には個人的に心配なことがあります。というのは、あの水着は極端に密着度が高いというか、肌にピッチピチに出来ているようで、継ぎ目もなく、着用するのに30分もかかるというから半端な密着度ではありません。 そうなると心配なのはトイレであります。たとえば競技30分前になって尿意を催しでもしたら選手はどうすればいいのでしょう。まさか股間にファスナーはついてないでし

  • 手塚伝説(その3)逃走篇: たけくまメモ

    ●手塚は石ノ森章太郎の結婚式で仲人を引き受けたが、締め切りに間に合わず、肝心の結婚式をすっぽかした。石ノ森が周囲の編集者にぼやくと、編集は全員「そりゃ、あの先生に仲人を頼んだ石森さんが悪い」と口をそろえた。 ●手塚は締め切り間際によく雲隠れしたが、ある日いつも隠れ家にしているホテルに行くと、支配人から出入り禁止を言い渡された。手塚の知らないうちに編集者が乗り込んできて、「手塚いるか!」と全部のドアをたたいて回ったかららしい。 ●地方に逃げたときは、旅館で編集が身柄を確保し、アシが総出で新幹線や航空機で一枚づつ原稿をピストン輸送することもあった。 ●手塚の逃走癖は晩年まで直らなかったが、編集が後を追ってあるトンカツ屋で発見した。「先生!」と叫ぶと手塚は他の客が見ている前で、テーブルの下に身を隠した。 ●ある作品で手塚は電車のシーンを描いたが、それは車内中央に鉄のポールが立っている、戦後まもな

  • 手塚伝説(その2)お仕事篇: たけくまメモ

    ●50年代の全盛期、手塚の担当編集者は月はじめにくじ引きをして原稿をもらう順番を決めた。なぜこうなったかというと、締め切りが重なると各社の手塚番が殴り合いのケンカをはじめるからである。 ●手塚流言い訳(その1) ある日、先生が部屋で寝ているので編集者が起こしたら、「ボクは寝てませんよ。横になって眠気をとってただけです」と言い張った。 ●言い訳(その2) 小松左京との対談場所に手塚は4時間も遅刻した。そのときの言い訳が「ニュースニュース! ちょうど大阪空港で飛行機が爆発してねえ…」 ●言い訳(その3) あるとき、先生の原稿があまりに遅く、ついに入稿が間に合わないことがあった。一週間以上、仕事場に泊まり込みで原稿を待っていた編集がブチ切れて「もう間に合わねえよ!」と怒鳴り、原稿を窓から放り投げた。すると手塚は涙を流しながら「ボクだって大学出てるんだから!」とわけのわからないことを叫んだ。 ●手

  • 手塚伝説(その1)禁断のプライヴェート篇: たけくまメモ

    これからアップする文章は、以前「SPA!」がガッツ伝説にあやかって「有名人伝説特集」を組んだときに、編集部の求めに応じて俺が集めた「手塚治虫伝説」のすべてです。漫画界に伝説の持ち主は多いですが、やはり神様と呼ばれるだけあって、手塚の逸話は質・量ともに群を抜きます。 結局雑誌に使われたのはこのなかの数のみで、もったいないのでボツネタだけを以前mixiにアップしたのですが、今回は採用分もあわせた完全版をお届けしたいと思います。たぶん俺が知らないだけで、他にもいっぱいあると思いますが、知っていたら教えてください。 なお、ここに収録したネタは、すべて人や周囲の関係者からウラがとれているマジネタばかりです。 ●手塚が戦中戦後にかけて医者の勉強をしていたことは有名だが、医者を断念した理由は担当教官から「君はこのまま医者になっても必ず患者を殺すから、悪いことはいわん、漫画家になりたまえ」と忠告を受け

  • 「まんがエリート」と「おたく」の間に(1): たけくまメモ

    もう少し「オタクの起源」の話題を続けます。 実は俺の棚には虫プロ商事発行の「COM」がほぼ全冊揃っているんです。時々取り出してパラパラと眺めているんですが、創刊号(1967年1月号)の表紙を改めて眺めて、そこに大きく載っているキャッチフレーズを見て感慨深いものを感じました。 ←「COM」1967年1月創刊号・虫プロ商事発行 左がその実物ですが、タイトル下に大きく水色の文字で「まんがエリートのためのまんが専門誌」と印刷されているわけです。 歴史的に見ると、まず1964年に青林堂から「ガロ」が創刊され、看板連載の『カムイ伝』が左翼大学生を中心に人気を博します。この頃、手塚治虫の虫プロはすでにテレビアニメ『鉄腕アトム』を制作放映しておりましたが、同時に視聴者向け会員誌「鉄腕アトムクラブ」を発行していました。 ←「鉄腕アトムクラブ」1966年7月号・虫プロ商事発行 これはディズニープロが戦前から

  • オタク第一世代の証言から: たけくまメモ

    昨日のエントリは反響がありました。ありがとうございました。コメント掲示板にもさまざまなご意見や証言が多数寄せられていますが、俺のmixi日記にもオタク第一世代の同業者から貴重な意見が寄せられました。そのうちアニメ評論家のロト(氷川竜介)さんと某大手出版編集者のボタQさんの証言を、人の了承が出ましたので転載したいと思います。 ●氷川竜介(ロト)さんの証言(アニメ評論家) 《 70年代中盤~末、80年代初頭の話を聞かれていると思うので、自分なりの体験を。 基的にオタクの源流になったのは1974年の「宇宙戦艦ヤマト」TV放送、1977年の劇場公開です。74年時にはヤマトの視聴率が悪いと知った年明け以後、高校で友だちとつるんで「みんなでヤマトを見よう!」的な紙を貼ったりしました。まあ、奇異な目で見られていたと思いますが、校風が幸いしてそれでいじめられるということはなかったと思います。 つまりそ

  • オタクはいつから差別されていたのか?: たけくまメモ

    以前から疑問に思っていたのですが、最近それが再び話題になり、みなさんに聞きたいこともあってエントリしてみます。 それは「オタク当に差別されていたのか?」「差別されていたなら、それはいつ頃からか?」という疑問であります。 こないだの月曜日にやったロフトのイベントで、会場の参加者から壇上の我々に向かって質問がありました。どういう発言だったかディティールを忘れましたが、オタク差別に関する内容でした。どなたか補足してくだされば幸甚です。 それを受けて東浩紀君が 「確かにオタクは差別されていた。それは認めよう。でもオタク差別といっても、女性差別や人種差別のような差別とは違う。よくオタク遺伝子というものがあって、世界のどこへ行ってもオタクはすぐにわかるという議論があるけど、当にそんな遺伝子なんてあるのか」 というような発言をしたんですよ(※記憶で書いてます。間違いがあれば訂正します)。 「オタク

  • 秒速5センチメートル: たけくまメモ

    秒速5センチメートルとは、桜の花びらが散る速度なのだそうです。 昨日は桑沢ゼミの帰りに、渋谷の映画館で新海誠の『秒速5センチメートル』見てきました。俺がまだ入院していた3月に公開された作品なので、なんとなく見逃した気になってたんですが、たまたま劇場前を歩いてて「まだやってたんだ」と気がついたしだい。それまでDVDが出たら見ようと思って、忘れてました。 結論からいって、劇場で見ておいてよかった。過去の新海作品すべての中で、個人的にベストでした。画面も劇場でみるべき密度に仕上がっていたと思う。思春期の男女の伝えきれない気持ちがテーマという意味では、『ほしのこえ』と同じところがあるんだけど、今度はSF的な仕掛けを一切使ってないぶん、監督のリリカルでセンチメントな資質がストレートに伝わってきたと思います。青春映画として傑作でしょう。 気に入ったのは、リリカルでセンチメンタリズム満点なのに、ナルシズ

  • 手塚伝説(その4)アニメ篇その他: たけくまメモ

    ●手塚はディズニーの「白雪姫」を50回、「バンビ」を80回以上観ている。ビデオのない時代、彼は町の連れ込み宿に一人で泊まり込んで、毎日、パンを持って朝一番で映画館に駆け込み、最終回まで居座ってこの記録を達成した。 ←ちなみに左はディズニーに無許可で出版された手塚版『バンビ』(昭和26年、鶴書房)。当然、全集には未収録です。(※註) ●手塚が最初に8ミリで作った自主制作アニメは、なんと男女の交合を描いたポルノ作品。人の証言がある事実であるが、もちろんどこにも発表されていない。 ●日初のTVアニメ「鉄腕アトム」は空前のヒットとなったが、あまりに多忙になったため手塚はキレて「労働組合を作ろう」と言い出した。社長は自分だということを忘れていたのだ。 ●虫プロ倒産後も、手塚はマンガで得た収入を惜しげもなくアニメに注ぎ込んだ。理由を聞かれると、「マンガは、アニメは愛人。愛人にはいくら金がかかっ

  • 【blog考10】 リンクをめぐる論争(3): たけくまメモ

    ●「公園の出歯亀」は犯罪か? 「無断リンク否定派」「肯定派」の対立は、インターネットに載った自分のウェブサイトを「プライヴェート空間」と考えるか(否定派)、それとも「パブリック空間」と考えるか(肯定派)の違いではないかと思われる。無断リンク否定派にとって、ウェブサイトとは、自室や自宅の庭先に友人知人を呼んでパーティを開いているようなものだ。通行人が騒ぎを見て、通りから覗きこむくらいは構わないが、許しも乞わずに敷地内に入りこむことは困る、そういうイメージを持っているのかもしれない。 一方「無断リンク肯定派」は、インターネットを「公園」だと考えている。あくまでそこは公共の空間で、誰の土地でもない。花見のシーズンには、サラリーマンが同僚と夜桜を楽しむためにブルーシートを敷いて陣地を作ることもある。しかしそれは一晩限りのことで、限定された時間だけ、ごく狭いスペースに陣取ることが「一般常識として」許

  • Gメールは確かに便利だった: たけくまメモ

    こないだからなんですが、いまさらながらGメールとグーグルカレンダーに登録して使い始めてます。 これまでwebメールはいくつか使ったことがありますが、俺は旅行とか出張とかそんなにないので、外でメールすることもほとんどなかったんですよ。それで便利さがピンと来なかったんですが、Gメールはさすがによくできていてその日のうちにメインの使い方になってしまいました。 メールの内容がグーグルのサーバーに全部格納されていて、文面にあわせてアドワーズ広告が出るとか、今でも気持ちが悪いんだけれども、それを上回る「便利」を「タダ」で提供するところが、グーグルグーグルたるゆえんなのでしょう。 俺にとって特に便利だと思ったのは、これまで大容量の画像データを送るときは「宅ふぁいる便」とかのファイルアップロード・ダウンロードサービスを使っていたのだけれども、これがほぼGメールだけで間に合うようになってしまったことです。

  • W・マッケイ(完)パイオニアとは何か: たけくまメモ

    「パイオニアはすべてをやる」。これは昔、尊敬する西岡文彦さん(版画家・美術評論家)から聞いて、感銘を受けた言葉だ。 まず始めにモチベーションがなければならない。コママンガでいえば「絵で物語ること」、またアニメなら「絵を動かしたい」という素朴な動機でよい。ともかくこれは、ジャンルの成立に先駆けて内在している必要がある。 そこにハードウェアが発明される。マンガでいえば絵を大量印刷する技術の確立が最初にあり、次いでメディア(新聞)の発展があった。そこに誰かがフキダシやコマを組み合わせれば、絵で物語を紡ぐことができることに気が付いたのだろう。ここでのフキダシやコマは一種のOSである。記述の形式ができて、ようやく内容(ソフト)の出番となる。 もっとも思考の順序としてはそうなるが、実際には、新しいものが始まるときには一気にすべてが起こることが多い。マンガも映画も19世紀の最後の十年で基技術が確立し、

    prisoner022
    prisoner022 2008/01/03
    「アニメは芸術であるべき」といった当の本人が、ショービジネスとしてのアニメを世界で最初に成功させた張本人でもあるのは、皮肉なことである
  • W・マッケイ(5)世界最初の怪獣映画: たけくまメモ

    大作『沈みゆくルシタニア号』のあと、マッケイは手間のかかるペーパーアニメをやめ、セルアニメに切り替えた。初めての格的セル作品は『ケンタウルス』(1919頃/部分のみ現存)ではないかと思われる。『ケンタウルス』は、その存在こそ知られていたものの、永らく幻の作品となっていた。ネガが紛失し、プリントも失われていたと思われていたのだ。 ところが近年になって、ある倉庫にフィルムが眠っていたのが発見された。しかし保存状態が悪く、缶を開けたとたんにフィルムの大半が粉となって飛び散ったという。フィルムが癒着し固形化していたうえに衝撃を与えてしまったこと、そして半世紀ぶりに急激な外気にさらされたことによる悲劇であった。 現存する『ケンタウルス』は、残ったフィルムを注意深く修復したものだ。断片なのでおよそ2分ほどしか残っておらず、ストーリーはよくわからないが、若いケンタウルスの男女とその子供、そして年老いた

  • W・マッケイ(4)沈みゆくルシタニア号: たけくまメモ

    『沈みゆくルシタニア号』(1918)は、それまでのマッケイ・アニメとは異なり、背景が静止画となっている。ここから考えて、部分的に切り抜き法やセル方式も採用されているようである。だが主要な動画部分は、変わらず紙アニメの手法が使われている。セルでは、マッケイの求める微細なタッチが表現できないからであろう。 マッケイは、これをマンガではなく「実写」として観客に見られることを望んだ。したがって作画は徹底した写実的描写に貫かれている。彼はこのわずか9分30秒の作品のために、私財を投じ、丸3年の月日をかけたのだ。 こと作画の労力という点において、筆者はこの作品以上のものを知らない。それはすべての画面が細密なペン画で描かれているのであり、しかも1コマ打ちのフル・アニメーションとして動くのだ。数名のスタッフが雇われたとはいえ、この作品に込められたマッケイの執念はすでに狂気の域に達しているといえよう。 また

  • W・マッケイとアニメーションの始原(1): たけくまメモ

    ウィンザー・ゼニス・マッケイ(Winsor Zenas McCay)はアメリカン・コミック史における最初の、そしておそらくは最大の天才である。代表作『夢の国のリトル・ニモ』(Little Nemo in SlumberLand,1905~14)は、その圧倒的な美しさと幻想的なイマジネーションで、百年前の作品であるにもかかわらず、今もなお、世界中の読者とクリエイターに衝撃を与え続けている。 マッケイはまた、史上最初期のアニメーターでもあった。1910年に完成した第一作『リトル・ニモ』(公開は翌'11年)は、ストーリーもなく、自作のキャラクターをただ動かしただけの実験作であるが、その端正な作画と優雅なアニメート、華麗なイマジネーションはすでに完璧の域に達している。まさにこれは、アニメーション百年の幕開けを言祝(ことほ)ぐにふさわしい、奇跡の映像といえるだろう。 マッケイは1871年ミシガン州の

  • W・マッケイ(2)これが95年前のアニメだ!: たけくまメモ

    Winsor Mccay: Master Edition マッケイがアニメ制作に着手したのは、遅くとも1910年の夏で、10月には最初の作品『リトル・ニモ』が完成していた。処女作の編はわずか2分強であり、彼の人気作品『夢の国のリトル・ニモ』のキャラクターが使われている。ストーリーのない、動きとメタモルフォーゼのみで構成されたテスト・フィルムだ。 記録では、マッケイは一ヶ月で4000枚の原画を描いたとされるが、2分強ではフルの1コマ撮りでも3000枚弱であり、計算が合わない。実際の作品はこれより1分ほど長かったのかもしれない。 公開年は翌1911年で、編が短すぎるため約8分の「メイキング」が添えられている。それはまず酒場にマッケイ人とそのマンガ家仲間が登場し、お互いに賭けをするという有名なシーンから始まる。 賭けの内容は「絵を、あたかも生けるがごとくに動かすことができるか」というものだ