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ブックマーク / yonosuke.net (16)

  • 『猿の惑星』についての私の感想もやっぱり最高じゃないだろう (1) | 江口某の不如意研究室

    前回、北村紗衣先生の連載をきっかけに『ダーティハリー』を見ておもしろかったので、『猿の惑星』も見てみました。 ええっと、まず最初に断わっておきたいのですが、私は猿はあんまり好きじゃなくて、というのも数年前に自宅の近辺で猿に襲われそうになったことがあるからです。住んでる借家が大きなお寺の広いほぼ敷地内にあって、そこは京都の東山連峰と林でつながってるんですね。それでそのころ猿が降りてきてたんです(最近はイノシシも来てるらしい)。んで、通勤路で一匹の猿と目があってしまって、やばいとは思ったけど目が離せなくなってしまったら、「ガーっ!」って脅かされたんですわ。とても怖かった。そういや嵐山のサル山でもサルに襲われそうになったことがあるし。猿怖いですね。とにかく猿には悪い印象があります。そういうわけで、『猿の惑星』のすてきな人たちについては、猿じゃなくてエイプと呼ぶことにします1。 さて、『猿の惑星』

  • 他の研究者先生を信頼できないのはつらいことです | 江口某の不如意研究室

    私、ツイッタでもこのブログでも、いろいろ人様の研究(論文・書籍)やブログ記事やSNS投稿に文句をつけることが多くて、ほんとうにもうしわけないと思っているのですが、でもそうしなきゃならないというのは当につらいのです。おそらく多くの人が、江口はまともな業績もないのに、悪口ばっかり言ってると思っていて、私もそう思っていて恥ずかしいのですが、でもやっぱり書かないとならないことはあると思うのです。フェミニズムやジェンダー研究に関心があったので、そういう研究にコメントつけることが多くてアンチフェミニストだって思われてるかもしれないけど、そうではないのです。でもそうした研究のまわりには問題が多いと思う。これだけはわかってほしい。 この前もある先生が、『射精責任』の著者がモルモンであることを問題視していて、それに関して当の書籍を読んだりしてコメントしました。 なかでも苦しかったのが、『射精責任』の著者の

  • 五野井郁夫先生の「キャンセルカルチャーはデモクラシーを窒息させるのか」にはビビりました | 江口某の不如意研究室

    前のエントリではちょっとミル『自由論』の話して、出典の話で終ってしまったのですが、それではあんまり失礼かもしれないので、論文の内容にも少しコメントしておきたいと思います。 私が見るところでは、五野井論文は以下のような構成になっています。 不買運動などのボイコット運動は正当な民主主義運動ですし、それはツイッターでのハッシュタグ運動などに発展しています。(前回触れたミル解釈はここで出てくる)ボイコット運動の延長としてキャンセルカルチャー=コールアウトカルチャーを説明します。ハッシュタグアクティビズム、ノープラットフォーミングなどを紹介します。その問題点は恣意的になりやすいこと、いつ「キャンセル」が終るかわからないことなどです。キャンセルされた有名事例を列挙します。トマス・ポッゲ、ピーター・シンガー、J.K.ローリング、リチャード・ドーキンス、チャールズ・マレー、スティーブン・ピンカー、V.S.

  • 五野井郁夫先生の『世界』論文「キャンセルカルチャーはデモクラシーを窒息させるのか」の出典なんかおかしい気がする | 江口某の不如意研究室

    毎日新聞での「キャンセルカルチャー」擁護記事で五野井郁夫先生という方が話題になっていたので、その記事の元ネタらしき『世界』2023年6月号の五野井郁夫「キャンセルカルチャーはデモクラシーを窒息させるのか」という論文をめくってみました。『世界』とかのいわゆる論壇・総合雑誌に載ってる文章こそ「論文」だっていう感じがありますよね。重大な社会的問題を論じるのだ!って感じ。 さてこの文章いろいろ問題があると思いました。いちいち書けないのですが、奴隷商エドワード・コルストンやレオポルド二世の像なんかが「21世紀の公共空間には不要」で「芸術的価値や資料的価値をことさらに強調したいのであれば、人目につかない倉庫で保管すればよいだけの話」であり、「大っぴらに他者を傷つけたいとの願望は自身の脳内に収めて」おけ、といった文章には驚きましたが、それより次の文章ですね。 思想信条の自由とは、J・S・ミルが『自由論』

  • トロフィーワイフという(ふつうは)侮蔑語について | 江口某の不如意研究室

    なんか、ある学者先生が「セレブバイト」っていうすごい言葉を開発したのに対応して、どういうわけかその先生が言及していない「トロフィーワイフ」っていう言葉がバズってたみたいです1。「セレブバイト」もたいへんやばい感じですが、「トロフィーワイフ」も学者先生たちが使うにはどうなんだろう、という意味合いがあるんじゃないかと思っているので、私もしばらく観察していました。 トロフィーワイフっていう言葉はそんな古いものではないようですね。1970年代から、よく使われるようになったのは1980年代からかもしれません。 Wikipedia (en)だと”A trophy wife is a wife who is regarded as a status symbol for the husband. The term is often used in a derogatory or disparaging

  • 「ヘイトスピーチや悪口を分類しよう」のおまけ:定義は選言の形でもかまわんよ | 江口某の不如意研究室

    前のエントリ「ヘイトスピーチや悪口を分類しよう」の補足ですが、「ヘイトスピーチを分類しよう」ってんですが、んじゃそもそも「ヘイトスピーチ」の定義はどうなってるのか、と気になる人がいるかもしれません。それはとてもよいことです。Yong先生がそこらへんをどう扱っているかはとても参考になります。 このブログでは、前からいくつかのエントリで定義定義定義が大事です、みたいなことを主張しているわけですが、「ヘイトスピーチ」の定義自体がむずかしそうです。どうしたらいいのか。 Yong先生はまずこんなこと言います。 「ヘイトスピーチ」は、広い名称として、他人たちを、人種、国籍、宗教、ジェンダー、性的指向、その他なんらかのグループのメンバーであるという理由から他人を攻撃するスピーチだ。そしてそのグループに所属しているこことは道徳的には恣意的に区別する特徴である」 これは、だいたい辞書的な定義といってよいと思

  • 「関係性」と「親密性」を撲滅する会 | 江口某の不如意研究室

    社会学とかの文献を見ていると、「関係性」とか「親密性」っていう言葉をよく見かけるわけですが、これは曖昧な言葉なので注意しましょう。 日語で「〜性」という語尾の言葉を見ると、「具体性」(具体的であること、具体的であるという性質)とか「可能性」(可能である性質)とかっていうごく抽象的な 性質 を指す言葉として使われているわけです。そのつもりで「関係性」とか「親密性」とかを見ると、「関係があるという性質」「親密であるという性質」を指していると勘違いしやすいのですが、社会学とかの文脈で使われる「関係性」や「親密性」は性質では なく 、具体的な 関係そのもの 、親密な関係 ≒ 内緒話をしたりセックスするような関係を指すことも多いようです。そういう場合は「関係性」「親密性」ではなく、「関係」「親密関係」のように表現した方がずっとわかりやすいはずです。 私見によれば、これそもそももともとは 誤訳に近い

  • 清水晶子先生の「学問の自由とキャンセルカルチャー」講演 | 江口某の不如意研究室

    言論の自由とかキャンセルカルチャーとかには職業がらどうしても関心をもたずにはいられないので、「フェミ科研と学問の自由」シンポジウムでの清水晶子先生の「学問の自由とキャンセルカルチャー」を見ました。この講演は私はいろいろ問題あると思います。 書き起こしはここにあります。 https://anond.hatelabo.jp/20220805225632 https://note.com/philo_radi/n/ne2da785c938c#67021145-cdee-46f0-adab-d18dcf74099f まず全体の構成を見ると、 「学問の自由」の理念を確認いくつかの国内での学問への政治的圧力を確認しかし「学問の自由が濫用される」ことがあることを指摘「キャンセルカルチャー」が反ポリコレの流れのなかで生まれてきた言葉であることを確認父ブッシュ大統領が言論の自由を擁護し、ポリコレの動きに警戒

  • 定義ってなんだろう (1) 定義の分類と注意 | 江口某の不如意研究室

    辞書的定義というのは、人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の乗ってるような形で説明することです。たとえば「男性」の定義はコトバンク(大辞泉)ではこんな感じですね。基的には「おとこ」なんですが、成年の男子」が基だそうです。 まあそういう多義的な語があるので定義が必要になる場合もあるわけです。っていうかけっこう重要。 ところで、この「男性」の場合は男性ってなんだっていったら「おとこ」だとか「男子」だとかで、さらに「おとこ」ってなんだって辞書ひくと男子だとか男性だとか出てきてしまって循環してしまってます。「男子」か「男性」か「おとこ」かどれかの言葉を知らないとけっきょくそれがなんのかわからない。まあこれは「男性」だとか「おとこ」だとかっていうののどれかはわかってることを前提に辞書っていうのがつくられているからですね。 辞書では基的な単語についてはこんなふうに循環してしまうことはよく

  • 北田先生から怒られてしまった (1) パフォーマティヴってなんですか

    『現代思想』のジュディス・バトラー特集号に載ってた、北田暁大先生の「彼女は東大を知らないから:実践のなかのジェンダー・トラブル」という論文で、私が日頃ツイッタやブログで適当にかきなぐってることについて怒られてしまったのでお返事しようかと思ったのですが、先生の論文はものすごく難しくて何を言ってるのか理解するのにとても時間がかかりました。けっこうがんばって読んだんだけど、結局よくわからなかった。バトラー様まわりはほんとうに時間ばっかりかかって人から憎まれるだけでなにもよいことがないので、泥沼みたいなのところにひきづりこむのやめてほしい。 どうも北田先生がやりたいのは下のような議論らしい。 東大の瀬地山角先生は東大でおこなわれたトークショーで小説家の先生に対してトーンポリシングだかサイレンシングだかをおこない、そしてそれは悪いおこないである。 瀬地山先生の行為がそうした悪いものであるという北田先

    北田先生から怒られてしまった (1) パフォーマティヴってなんですか
  • 話題の「オープンレター」について | 江口某の不如意研究室

    最近、SNSで話題になっている「女性差別的な文化を脱するために」というオープンレターなんですが、これ、発表時のときからなかなか読みにくいところがあると思っていた文章で、今回も何十回も読んでしまいました。どこがわかりにくかったのかメモしておきます。 ツイッターでの日語圏での(悪しき)「コミュニケーション様式」についての指摘については興味深い論点だと思いますが、それとは別に、いくつか気になる文言がある。 「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。 この「同じ場では仕事をしない」というのは最

  • 宇崎ちゃん問題 (5) 「表象の「悪さ」」の「悪さ」がわかりにくい | 江口某の不如意研究室

    小宮先生の文章(『世界』のと『現代ビジネス』のの両方)では、「表象の「悪さ」」とかそういう表現が頻繁に出てくるのですが、この「悪さ」っていう表現にも私はひっかかってしまう。これはかなり面倒な事情があって、ちょっとここでは簡単には説明できないのですが、いくつか私の「困り」を説明しておきたいと思います。 どういう種類の「悪さ」か:それは「道徳的な悪さ」か?「表象の悪さ」っていわれたときに、ある表象(つらいので、以後表現とか表現物とか書くことにします)が悪いことがある、ってことを言ってるのはもちろんわかる。問題は、その悪さというのはどういう種類の悪さかということです。人を殴るのは悪い。これは道徳的に悪い。道徳的に悪いというのがどういうことかというのもこれまたむずかしいのですが、人を殴るのは悪いので、殴るのをやめるべきだというのは当然として、さらに、人を殴るのは避けるべきだ、人を殴った人は罰される

  • 詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1)) | 江口某の不如意研究室

    『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので [1]「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。 ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。 日赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房

  • ジュディス・バトラー様と竹村和子先生のインクレディブルなダジャレと翻訳 – 江口某の不如意研究室

    数日まえに載せたヌスバウム先生のバトラー様批判(あれは私の翻訳ではないです、柳下先生)にはけっこう反応があったみたいなんですが、ブログとか書いてくれてる人もいたんですね。 https://kumabushi.com/?p=11750 書きたいのはこの方のブログの内容ではなく、そこで引用されているバトラー様の文章についてなんです。 ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根的に不確かなものとみなしうるのである。(『ジェンダートラブル』p.248) これは竹村和子先生の訳なんですけど、意味わかりますか?私はわかりません。原文はこうなんですわ。原書p.180。 上の竹村先生の訳だと、最初のcanが落ちちゃってますね。これは文章の意味がとれるならば必

  • 牟田先生たちの科研費報告書を読もう(2)

    牟田先生の論文のセックスの平等まわりの議論はいろいろおもしろくて、学問として議論したいところがあるのですが、その前にもうひとつどうしても問題を指摘しておきたい論文があります。 古久保さくら先生の「運動と研究の架橋:世代の架橋としての教育の可能性」です。 この論文は大学でジェンダー平等教育をやってらっしゃる古久保先生が、どういう授業実践をしているのかっていうのことと、セックスにおける「自己決定」をどう考えるか、というのの二つがテーマで、これは問題として重要で論文の価値があります。くりかえしますが、私はこの科研費研究の報告書を公開していることはとても高く評価していて、現在の日フェミニズムのよいところと悪いところの両方がよくわかると思っています。 性教育はとても重要です。小中高での教育がいろいろ言われるけど、私は大学でも性教育もとても重要だと思ってます。生命倫理学や倫理学・応用倫理学の授業と

    牟田先生たちの科研費報告書を読もう(2)
  • 牟田先生たちの科研費報告書を読もう(1)

    フェミニストの牟田和恵先生たちの科研費研究の使途がおかしいのではないか、みたいな難癖みないなのが話題になって、それに反応してか先生たちのグループが成果の電子書籍を公開してくれたので、ちょっと読んでみました。公開えらい。 私の印象では、ちゃんとしたグループ研究だと思いますね。立派だ。えらい。一部には「ジェンダー平等のための〜」っていうタイトルなのに、いわゆる慰安婦問題を中心にした研究にしぼられているのはどうなのかという声もあるようなのですが、まあジェンダー平等とかって目標の一部に慰安婦問題の考察が必要不可欠なのだ、みたいな立場だったら許されるのではないか。研究計画とか読んでないからわからんですが、まあそういうのはあんまり関心がない。 んで内容としてもろにセックスの話をあつかってるとわかる章だけ読んでみたんですが、研究として立派だとは思うものの、いろいろ言いたいことは出てきますね。 最初に言い

    牟田先生たちの科研費報告書を読もう(1)
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