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中島敦の検索結果1 - 32 件 / 32件

  • 全能感を維持するために「なにもしない」人達 - シロクマの屑籠

    ここ最近、「価値のあるボク」「価値のあるアタシ」といった肥大した自己イメージを、いつまでたっても抱えている男女がそこらじゅうに溢れています。つまり、全能感を捨てきれない大人達が増えているわけですが、彼らが全能感を維持するメカニズムについては、あまり取り沙汰されていないようです。 この文章では、全能感を維持したい・いつまでも子どもの王様のままでいたい人にありがちな、二つの処世術を確認してみます。 1.自分が得意な分野で、全能感を何度も確認する ひとつめは、ごくオーソドックスな方法。 自分の優秀さや自分のバリューを確認しやすい場所で、それを反復的に確かめる、という方法です。ここに書いたように異性をひっかけて自分の価値を確認する人もいれば、ネットゲームやtwitterで優秀さや有能さを確かめたがるタイプの人もいます。この際どこでもいいから、とにかく自分が優秀でいられそうなフィールドをみつけ、自分

      全能感を維持するために「なにもしない」人達 - シロクマの屑籠
    • 京大にいた頃、文学部の後輩とご飯を食べながら将来の不安を話してた時に突然言われた一言でこの大学に来られて本当に良かったと思った

      おさる @xeki00 京大にいた頃、文学部の後輩とご飯食べながら将来の不安を話してたら突然「虎にならないといいですね」って言われた時には俺はこの大学に来られて本当に良かったと思ったしその出来事を一生忘れないと思う 2020-03-25 15:35:33

        京大にいた頃、文学部の後輩とご飯を食べながら将来の不安を話してた時に突然言われた一言でこの大学に来られて本当に良かったと思った
      • 『山月記』の李徴はなぜ虎になったのか

        千野 帽子12月7日共著TOKYO MACH 俳句を選んで、推して、語り合う @chinoboshka 最近「山月記」についていろいろ考えてるんだけど、李徴は反省が足りないね。 僕らTwitterユーザみたいな奴だね彼は。 2015-10-01 12:50:47 千野 帽子12月7日共著TOKYO MACH 俳句を選んで、推して、語り合う @chinoboshka 「山月記」は「最後まで反省が足りない人」を書いた残酷な話なんだよね。「表現」という制度の限界を書いた「表現」ということもできる。 中島敦はブッキッシュな文学者だけど、その立ち位置はじつは文学の外だったんだなーとわかる。 2015-10-01 13:37:26 千野 帽子12月7日共著TOKYO MACH 俳句を選んで、推して、語り合う @chinoboshka 「山月記」の李徴は「俺のやってたロックって、ロックじゃない世間を見下

          『山月記』の李徴はなぜ虎になったのか
        • 親友が虎になってた。別れたい…

          虎だと草地で襲われた時なんか恥ずかしいww 下向いちゃうしww 男にはせめて名を死後百年に遺して欲しい・・・ 妻子のこととか頼まれたら・・・・もう最悪ww せめて普通に膝ぐらい俗悪な大官の前に屈して欲しい。 常識的に考えて欲しいだけなんです! 虎と話を交わしてる時の恥ずかしさとか分かる? あのね?たとえば週末10〜20人ぐらいで公用の旅とか行くでしょ? それぞれ勅命とか奉じて来るわけじゃない? みんな普通に供廻りの多勢や残月の光をたよりに来るわけでしょ? 虎がノコノコついてったら大恥かくでしょうがww http://anond.hatelabo.jp/20081111000645 http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card624.html

            親友が虎になってた。別れたい…
          • 中島敦 山月記

            隴西(ろうさい)の李徴(りちょう)は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自(みずか)ら恃(たの)むところ頗(すこぶ)る厚く、賤吏(せんり)に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山(こざん)、略(かくりゃく)に帰臥(きが)し、人と交(まじわり)を絶って、ひたすら詩作に耽(ふけ)った。下吏となって長く膝(ひざ)を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺(のこ)そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。李徴は漸(ようや)く焦躁(しょうそう)に駆られて来た。この頃(ころ)からその容貌(ようぼう)も峭刻(しょうこく)となり、肉落ち骨秀(ひい)で、眼光のみ徒(いたず)らに炯々(けいけい)として、曾(かつ)て進士に登

            • 国語の授業で「山月記」をどう取り上げるべきか - グローバル引きこもり的ブログ

              先ほど「山月記」関連に関するエントリーを2つ書いたが、山月記というのは国語の授業でどのように取り上げられているのか気になったので調べてみた。 ものを書くことを好む人が多いのか、どうも国語教師というのはネットをやる人が多いようで、検索をすると「山月記」の授業に関しても膨大な量のエントリーが見つかる。 それを見ていて改めて思うのは、「山月記」を授業で取り上げるというのは結構難しいなあ、ということだ。 まず、「山月記」が李徴のような人間を煽りまくる目的で書かれたという側面があるのは間違いないだろう。 文学の世界では、今も昔も李徴のような人間には事欠かないわけで、中島敦に李徴のような生き方を批判する意図があったのは間違いない。 中島敦には書くことがなくなったのに作家という肩書にしがみつく職業作家を批判した一文があるが、職業作家に対する認識がこれなのだから、李徴のような生き方をしている者に対する認識

              • 陰茎記

                漏精の怒張は陰茎巨大、珍宝の末年、若くして男根を虎榜に連ね、ついで自慰に補せられたが、性、豪快、自ら慰むところ頗る多く、我慢汁に甘んじるを潔しとしなかった。いくばくもなく陰茎を扱いた後は、故山、珍湖に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら自慰に耽った。下吏となって長く男根を俗悪な粗陰茎の前に屈するよりは、巨根家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、性名は容易に揚らず、陰茎は日を逐うて小さくなる。怒張は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその肉棒も峭刻となり、肉落ち亀頭秀で、睾丸のみ徒らに丸々として、曾て壮絶に勃起した頃の最強の逸物の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、陰茎の衣食のために遂に竿を屈して、再び東へ赴き、一地方根吏の男根をせんずることになった。一方、これは、己の陰茎に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か巨大に勃起し、彼が昔、粗根として歯牙にもかけな

                  陰茎記
                • 紙厨「紙の本は温かみがあるし、集める楽しみもあるから電子書籍より好き」

                  写本厨「写本は温かみがあるし、集める楽しみもあるから活版印刷より好き」

                    紙厨「紙の本は温かみがあるし、集める楽しみもあるから電子書籍より好き」
                  • 中島敦 名人伝

                    趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)の都に住む紀昌(きしょう)という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己(おのれ)の師と頼(たの)むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛(ひえい)に及(およ)ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔(へだ)てて柳葉(りゅうよう)を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々(はるばる)飛衛をたずねてその門に入った。 飛衛は新入の門人に、まず瞬(またた)きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台(はたおりだい)の下に潜(もぐ)り込(こ)んで、そこに仰向(あおむ)けにひっくり返った。眼(め)とすれすれに機躡(まねき)が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰(みつ)めていようという工夫(くふう)である。理由を知らない妻は大いに驚(おどろ)いた。第一、妙(みょう)な姿勢を妙な角度から良人(おっと)に覗(のぞ)かれては困るという。

                    • 中島敦 文字禍

                      文字の霊(れい)などというものが、一体、あるものか、どうか。 アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇(やみ)の中を跳梁(ちょうりょう)するリル、その雌(めす)のリリツ、疫病(えきびょう)をふり撒(ま)くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者(ゆうかいしゃ)ラバス等(など)、数知れぬ悪霊(あくりょう)共がアッシリヤの空に充(み)ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰(だれ)も聞いたことがない。 その頃(ころ)――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷(きゅうてい)に妙(みょう)な噂(うわさ)があった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪(あや)しい話し声がするという。王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛(むほん)がバビロンの落城でようやく鎮(しず)まったばかりのこととて、何かまた、不逞(ふてい)の徒の陰謀(いんぼう)ではないかと探って

                      • 「山月記」はそんなに優れた作品なんだろうか? - グローバル引きこもり的ブログ

                        言うまでもなく、「山月記」というと中島敦の作品の中で最も有名な作品である。 中島敦 山月記 戦前の小説には漢籍をアレンジしたものが多く、これも「人虎伝」という作品のアレンジなのだが、国語の教科書で取り上げられているからみんな知っている。 『人虎伝』まとめ | フロンティア古典教室 実際の所、国語の教科書の内でどれくらいのものが「山月記」を取り上げているのかは知らないが、世間の「山月記」に対する反応を見ると、おそらく大抵の教科書に載っているのだろう。 そして、「山月記」の内容の方も、それなりに好評をもって国民に受け入れられているのではないだろうか。 しかし、僕は、「山月記」が文学作品として本当に優れているのかについてかなりの疑問を持っている。 とりあえず、「山月記」の前半部分は文句なしに素晴らしい。 美しい文章が澱むことなく、するすると流れる。 膨大な情報が一切の無駄なく、しかもいささかの不

                        • 名人云々

                          はてなの村に住むb:id:death6coinというブクマカが、天下第一のブクマの名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今投斧をとっては、名手・b:id:cider_kondoに及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて古典を引くに百発百中するという達人だそうである。death6coinは遥々徳島をたずねてその門に入った。 cider_kondoは新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。death6coinは家に帰り、b:id:kiya2015のスターボタンの下に潜り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。眼とすれすれにセブンスターが忙しく飛ぶのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。二年の後には、遽だしく連射されるスターをブコメが掠めても、絶えて人気ブコメ入りすることがなくなった。彼はようやくボタンの下から匍出す。 ついに、互助会のスターとスターとの間

                            名人云々
                          • [書評]光と風と夢(中島敦): 極東ブログ

                            高校の教科書には今でもおそらく収録されているだろう「山月記」の作者・中島敦の主要著作は何かと問えば複数の回答があるだろう。絶筆となった「李陵」、独自のユーモアで描かれる「南島譚」、処女作の才気溢れる「古譚」。しかし、どうしても外せないのは、長編小説といってよいと思うが、「光と風と夢」である。 当時芥川賞に落選したことからも評価の難しい作品でもあるだろう(参照)。私も十代にたしか角川文庫で読み、後、ちくま文庫の全集が出た頃にも読んだが(参照)、華麗な文体と衒学的な趣味に惑わされ、今ひとつ全貌が理解しづらい作品に思えた。が、先日から、iPhoneアプリのi文庫で嘗めるように読み返し、昨日読み終えて圧倒的な感動を覚えた。 不思議な構成の作品でもある。「宝島」で有名な英国作家スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson)の、オセアニアのサモアで暮らす死に至るまでの

                            • 非モテの文化誌 第27回「無意識過剰少女の愛に包まれて—中島敦の巻(後篇)」|Excite エキサイト : ブックス

                              著者を投影したとおぼしき習作「プウルの傍で」(『中島敦全集3』所収)の主人公・三造は、17歳のときにやって来た2度目の継母に激しい嫌悪を覚えます。 中島敦自身も産まれてすぐに母親に逃げられ、継母の虐待を受けながら育ち、2人目の継母との仲も良好とは言えませんでした。 が、やがて、その女の大阪弁を、また若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。その頃五つ位になっていた腹異いの妹に対しては、彼自身に似た、彼女の醜い顔立の故に、之を憎んでいた。最後に、彼は、彼自身を――その醜い容貌を――最も憎み嫌った。近眼でショボショボして、つぶれそうな眼や、低くて、さきの方ばかり申しわけのように上を向いている小さな鼻や、鼻より突出している大きな口や

                              • 中島敦 悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―

                                悟空によれば、変化(へんげ)の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとく己(おのれ)の気持を純一無垢(むく)、かつ強烈なものに統一する法を学ぶに在(あ)る。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。変化(へんげ)の術が人間にできずして狐狸(こり)にできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事(さじ)を有(も)たず、したがってこの統一が容易だからである、云々(うんぬん)。

                                • 中島敦の青春

                                  私は中島敦について、長い間誤解していたのだった。 彼は33歳の若さで死んだ病弱の作家だから、「かめれおん日記」や「狼疾記」に出てくる腺病質の女学校教師は中島敦自身を描いた自画像だろうと思っていたのだ。 「かめれおん日記」は、横浜の私立女学校に勤務する生物教師の日常を描いた作品で、これに描かれている生物教師は、「うぢうぢと、内攻し、くすぶり、、我と我が身を噛み、いぢけ果て、それで猶、うすっぺらな犬儒主義だけは残している」と、自分を自嘲しつつ生きているような男だ。 この教師が.「山月記」に出てくる詩人とひどく似ているのである。傲慢なくせに臆病なこの男が自己分析をするとしたら、きっと虎になった詩人の告白に似てくるに違いない。事実、その通りなのだ。教師の自己分析は以下の通り。 「・・・・・(自分は)失望しないために、初めから希望をもつまいと決心するようになった。落胆しないために初めから欲望をもたず

                                  • 中島敦 悟浄出世

                                    寒蝉敗柳(かんせんはいりゅう)に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵(さんぞう)は二人の弟子にいざなわれ嶮難(けんなん)を凌(しの)ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波湧返(わきかえ)りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河(りゅうさが)の三字を篆字(てんじ)にて彫付け、表に四行の小楷字(かいじ)あり。 八百流沙界(はちひゃくりゅうさのかい) 三千弱水深(さんぜんじゃくすいふかし) 鵞毛飄不起(がもうただよいうかばず) 蘆花定底沈(ろかそこによどみてしずむ) そのころ流沙河(りゅうさが)の河底に栖(す)んでおった妖怪(ばけもの)の総数およそ一万三千、なかで、渠(かれ)ばかり心弱きはなかった。渠(かれ)に言わせると、自分は今までに九人の僧侶(そうりょ)を啖(く)った罰で、それら九人の骸顱(

                                    • 作家別作品リスト:中島 敦

                                      東京市四谷区箪笥町生まれ。1942年『文学界』に「古譚」の名で「山月記」と「文字禍」が掲載され、「光と風と夢」で芥川賞候補になり活躍が期待されたが、持病の喘息が悪化し同年12月4日死去。遺稿「李陵」「弟子」が発表され、類まれな才知の早世が惜しまれた。 「中島敦」 公開中の作品 和歌でない歌 (旧字旧仮名、作品ID:43043) 盈虚 (旧字旧仮名、作品ID:4336) 盈虚 (新字新仮名、作品ID:24438) 河馬 (旧字旧仮名、作品ID:43813) かめれおん日記 (旧字旧仮名、作品ID:24443) 環礁 ――ミクロネシヤ巡島記抄――(新字新仮名、作品ID:46429) 環礁 ――ミクロネシヤ巡島記抄――(旧字旧仮名、作品ID:24444) 狐憑 (新字新仮名、作品ID:56247) 狐憑 (旧字旧仮名、作品ID:618) 牛人 (新字新仮名、作品ID:1742) 鏡花氏の文章 (

                                      • 「第26回 金魚鉢の中のセカイ系——中島敦の巻(前篇)」 日刊!ニュースな本棚|Excite エキサイト : ブックス(文学・書評・本のニュース)

                                        非モテ人間は現代の被差別階級なのか? 異性を発情させるのがそんなに偉いの か? 文学を手がかりに、いっそ、非モテライフをエンジョイする方法を探っていこう! 今回のテキストは、自意識過剰文学の先人、中島敦の自伝的短編です。 国語の教科書に登場する鬱フレーズNo.1といえば、なんといっても「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」(『山月記』中島敦)ではないでしょうか。自分の詩才を内心誇りながら、才能のなさが露呈することを恐れて詩友と切磋琢磨することをせず(臆病な自尊心)、世俗に与することを恥じるがゆえに一般人に尊大な態度をとってしまう(尊大な羞恥心)李徴。高校時代には「いきなり虎にさせられて超カワイソー」くらいにしか思わないにしても、年をとればとるほど重くのしかかってくる話です。せっかく「博学才穎」で「豊頬の美少年」だったのに、自意識過剰ゆえに虎になっちゃうなんて……。自意識過剰といえば、しばしば非モテ

                                        • 中島敦 光と風と夢

                                          一八八四年五月の或夜遅く、三十五歳のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血(かっけつ)に襲われた。駈付けた妻に向って、彼は紙切に鉛筆で斯(こ)う書いて見せた。「恐れることはない。之が死なら、楽なものだ。」血が口中を塞(ふさ)いで、口が利けなかったのである。 爾来(じらい)、彼は健康地を求めて転々しなければならなくなった。南英の保養地ボーンマスでの三年の後、コロラドを試みては、という医者の言葉に従って、大西洋を渡った。米国も思わしくなく、今度は南洋行が試みられた。七十噸(トン)の縦帆船(スクーナー)は、マルケサス・パウモツ・タヒティ・ハワイ・ギルバァトを経て一年半に亘る巡航の後、一八八九年の終にサモアのアピア港に着いた。海上の生活は快適で、島々の気候は申分なかった。自ら「咳と骨に過ぎない」というスティヴンスンの身体も、先ず小康を保つことが出来た。彼は此処

                                          • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

                                            週報 2024/04/28 川はただ流れている 4/20(土) 初期値依存性 さいきん土曜日は寝てばかり。平日で何か消耗しているらしい。やったことと言えば庭いじりと読書くらい。 ベランダの大改造をした。 サンドイッチ 一年前に引っ越してからこんな配置だったのだけど、さいきん鉢を増やしたら洗濯担当大臣の妻氏…

                                              はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
                                            • 山月記 (中島 敦)

                                              東京市四谷区箪笥町生まれ。1942年『文学界』に「古譚」の名で「山月記」と「文字禍」が掲載され、「光と風と夢」で芥川賞候補になり活躍が期待されたが、持病の喘息が悪化し同年12月4日死去。遺稿「李陵」「弟子」が発表され、類まれな才知の早世が惜しまれた。 「中島敦」

                                                山月記 (中島 敦)
                                              • Amazon.co.jp: 中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫): 中島敦: 本

                                                  Amazon.co.jp: 中島敦全集〈1〉 (ちくま文庫): 中島敦: 本
                                                • 中島敦 牛人

                                                  魯の叔孫豹(しゅくそんひょう)がまだ若かった頃、乱を避けて一時斉(せい)に奔(はし)ったことがある。途(みち)に魯の北境庚宗(こうそう)の地で一美婦を見た。俄(にわ)かに懇(ねんご)ろとなり、一夜を共に過して、さて翌朝別れて斉に入った。斉に落着き大夫(たいふ)国氏(こくし)の娘を娶(めと)って二児を挙げるに及んで、かつての路傍一夜の契(ちぎり)などはすっかり忘れ果ててしまった。 或夜、夢を見た。四辺(あたり)の空気が重苦しく立罩(たちこ)め不吉な予感が静かな部屋の中を領している。突然、音も無く室の天井が下降し始める。極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。一刻ごとに部屋の空気が濃く淀(よど)み、呼吸が困難になってくる。逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。見えるはずはないのに、天井の上を真黒な天が盤石(ばんじゃく)の重さで押しつけている

                                                  • 巡査の居る風景

                                                    甃石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った。 町角には飲食店の屋台が五つ六つかたまって盛に白い湯気を立てて居た。赤黒くカチカチに固くなった乳房を汚れたツルマキの上から出した女が一人、その前に立って湯気を吹きながら真赤に唐辛子をかけた饂飩を啜って居た。 署から帰ろうとして巡査の趙教英は電車を待ちながら、それをぼんやり眺めて居た。彼の前を急いで二人の浅黄服を着た支那人が、天秤棒をかついで過ぎて行った。彼等の籠の中には売れ残りの大根が白く光って居た。そろそろ潮の様に人混みが出始める頃であった。薄氷を張った様な暮方の空の下で、仏蘭西教会の鐘が寒む寒むと響き出した。 趙教英は寒そうに鼻をすすって首を縮めると、制服の詰め襟の前を一度かけなおして電線の青白い火花を見上げた。その電車が行って了った後の線路を背の高い男が一人大股に歩いて来た。彼の

                                                    • 文字禍 (中島 敦)

                                                      東京市四谷区箪笥町生まれ。1942年『文学界』に「古譚」の名で「山月記」と「文字禍」が掲載され、「光と風と夢」で芥川賞候補になり活躍が期待されたが、持病の喘息が悪化し同年12月4日死去。遺稿「李陵」「弟子」が発表され、類まれな才知の早世が惜しまれた。 「中島敦」

                                                        文字禍 (中島 敦)
                                                      • 『山月記』のこととなると黙っていられない - あのにますトライバル

                                                        読みました。確かにこれはひどい。 ao8l22.hatenablog.com ここで言及されている元記事に乾いた笑いしか出なかった。真面目に国語教師をやっている人が見たら漏れなく怒るレベルだと思う。これ、ひどさは「おまけ」が本番なんだけど、ヴィジュアル系の改変がかなーり適当なのも気になった。「わかりやすさ」を重視するのであれば、内容は変えちゃあいけないよ。 special.froma.com この『山月記』の改変をした著者は「自身のわかりやすさ」を追求するために余計なものをいれてしまった。それは改変した著者の脳内補正であって「作品の追求」ではない。『山月記』本文にはほとんど出てこないのに、改変の文章に何度も出てくるものは、「家族と愛情」である。 この改変を読んでまず抱いた違和感は「山月記は家族の物語じゃねええええ!」というところです。改変中の文章にしつこく「反対して追いすがる妻子」の様子が

                                                          『山月記』のこととなると黙っていられない - あのにますトライバル
                                                        • 山月記 (中島敦) : A Day in the Life/ウェブリブログ

                                                          「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※引っ越し先ブログへのリダイレクトサービスは2024年1月31日で終了いたしました。 BIGLOBEのサービス一覧

                                                          • 中島敦 「悟浄出世」論

                                                            【 序論 】 1、遍歴に出るまで 2、悟浄の変化について 3、悟浄はどのように救済された 【 結論 】 【 序論 】 「悟浄出世」は、昭和17(1942)年11月15日、中島敦の第2創作集である単行本『南島譚』(今日の問題社)に収められ刊行された。『文学界』(昭和17年2月号)に「山月記」・「文字禍」が掲載されたデビュー当初から中島敦の作品が注目されていたことは、デビューした年の上半期芥川賞に、「光と風と夢」(『文学界』・昭和17年5月)が候補として挙げられたことからわかる。しかし、持病の喘息が悪化し、同年(昭和17年)12月には34歳でこの世を去る。この夭折による極めて短期間であった作家生活に加えて、戦時下という悪条件が重なって戦争終了時までの論評は少ない。しかし、近年になって資料は整備され、研究者も増加し、中島敦の研究は、充実してきたといえる。以下、「悟浄出世」に対する各研究者の論を確

                                                            • 中島敦と身体のふしぎ

                                                              時とは人の作用の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、 その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有つのじゃ。 ――中島敦「悟浄出世」 1.足し算か引き算か ―『名人伝』に見る教育 このあいだ中島敦の『名人伝』を読んでいたら、おもしろいことに気がついた。 わたしたちはふつう、知識や技術を習おうとするき、いまある自分に何かを「加える」という言葉を使って理解していく。 知識を「得」る。 知識・技術を習「得」・獲「得」する。 身につける。 与えられる。 自分のものにする。 吸収する。 呑みこむ。 経験を重ねる。 上達する、というのも、「上に達する」という意味で、その人がいる場所が高くなる→高さが加わった、と考えられる。さらに技を「磨く」や「洗練させる」も「その質を高めていく」という意味で、「加える」に含めていい。さらに経験を積んだ人間に対しては「ひとまわり大きくなった」と

                                                              • 中島敦 環礁 ――ミクロネシヤ巡島記抄――

                                                                寂しい島 寂しい島だ。 島の中央にタロ芋田が整然と作られ、その周囲を蛸樹(たこ)やレモンや麺麭(パン)樹やウカルなどの雑木の防風木が取巻いている。その、もう一つ外側に椰子(ヤシ)林が続き、さてそれからは、白い砂浜――海――珊瑚礁(さんごしょう)といった順序になる。美しいけれども、寂しい島だ。 島民の家は西岸の椰子林の間に散らばっている。人口は百七、八十もあろうか。もっと小さい島を幾つも私は見て来た。全島珊瑚の屑ばかりで土が無いために、全然タロ芋(これが島民にとっての米に当るのだ)の出来ない島も知っている。虫害のためにことごとく椰子を枯らしてしまった荒涼たる島も知っている。それだのに、人口僅か十六人のB島を別にすれば、此処(ここ)ほど寂しい島は無い。何故(なぜ)だろう? 理由は、ただ一つ。子供がいないからだ。 いや、子供もいることはいる。たった一人いるのだ。今年五歳になる女の児が。そうして、

                                                                • 『南洋通信:通信I』(中島敦/著)に登場する、横浜にあったという飛行場の所在地と、南洋便の開設時期に... | レファレンス協同データベース

                                                                  事例作成日 2014年01月10日 登録日時 2014/12/27 19:35 更新日時 2014/12/27 19:35 関係資料をご紹介します。 1 『南洋通信:通信I』(中島敦/著)の記載 『南洋通信:通信I』中島敦/著 中公文庫 2001 p.49 「十月十一日 (中略) 之から毎週水曜日に横浜を(飛行キが)出るらしいぜ。 横浜―サイパン―トラック―パラオと来るんだ。(以下略)」 2 横浜にあった飛行場の所在地 (1) 『日本航空史 昭和前期編』 日本航空協会/編 日本航空協会 1975 p.561 「・・・横浜飛行場は横浜市磯子区芝生町海岸を埋立てて設けられた、 陸地面積は11,908坪の水上飛行場である。此処には中央航空研究所の建物、 施設のほか、大日本航空株式会社の南洋定期航空(横浜-サイパン-パラオ間の 定期航空、川西97式四発飛行艇使用)用離着水場としての3,000坪の大

                                                                    『南洋通信:通信I』(中島敦/著)に登場する、横浜にあったという飛行場の所在地と、南洋便の開設時期に... | レファレンス協同データベース
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