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北条早雲の検索結果241 - 280 件 / 467件

  • 田単と三国志!火牛の計作戦、史記楽毅最後、斉襄王、軍師能力も解説

    三国志の諸葛亮が敬意を持っていた、楽毅に対抗出来る武将には、田単がいるでしょう。 田単は、楽毅と燕王の間に隙があったことを、上手く利用しました。どのような名将も、名君がいてこそ、活躍出来るのではないでしょうか。 そして、楽毅より能力の低い騎劫を侮らずに、田単は更に燕を翻弄し、火牛の計も使いました。火牛の計は、日本史の有名な武将も使用しているので、名将の十八番なのかもしれません。 また田単が、斉を滅亡から救い有能だったため、襄王から用心されていたことも説明していきます。斉を助けて非難されるなら、田単は、何のために戦ったのか分からなくなるでしょう。 ちなみに、田単の読み方はでんたんです。 田単と三國志を詳しく解説していきます! ⇒美周郎!意味、周瑜イケメン、諸葛亮てのひら、曹仁最強、死因も解説 燕の恵王は楽毅と不和だったため田単の謀略作戦を真に受けてしまいました 田単は、燕の勢いは楽毅が有能な

      田単と三国志!火牛の計作戦、史記楽毅最後、斉襄王、軍師能力も解説
    • 戦国時代の東北地方・関東甲信越地方 楽しい日本史 -戦乱と泰平の世へ- 20. - オハナミライフ

      東北地方の変遷 国人同士の戦いが続いていた東北地方では伊達稙宗が大躍進。しかし、息子の晴宗と対立して周辺諸国も巻き込んだ天文の乱が起こる。勝利した晴宗は、今度は息子の輝宗と対立。この隙にほかの大名家が力をのばしていった。 複数の大名家が対立(1493年頃) 伊達家は2代続く内紛のため、弱体化していた。最上家は、なかば伊達家の家臣として扱われていたが、伊達家の内紛を機に独立。勢力図は旧家と新しい戦国大名が入り乱れる状態になる。 伊達家の躍進と領土拡大(1585年頃) 伊達家の失地回復を狙ったのが伊達政宗。18歳で家督を継いだ政宗は、佐竹、蘆名、畠山といった周囲の勢力と対立。兵力差をものともせず、人取橋の戦いで勝利すると領地を拡大していく。 豊臣家との対立と服従(1589年頃) 1589年に摺上原の戦いで、蘆名家を破った政宗は、東北地方の南部にあたる南奥州の統一に成功。ところが、中央ではすでに

        戦国時代の東北地方・関東甲信越地方 楽しい日本史 -戦乱と泰平の世へ- 20. - オハナミライフ
      • 【富田林市】後北条一族が創建に関わった?釈迦の生涯を立体像で表す、河内西国霊場第4番の龍雲寺(奥河内から情報発信) - エキスパート - Yahoo!ニュース

        市の西北、大阪狭山市と接するところにある加太には、智福山龍雲寺(ちふくざんりゅううんじ)という、江戸時代に創建された寺院があります。 江戸時代、この辺りは狭山藩とのかかわりが深く、狭山藩主だった後北条(北条)氏が、このお寺の創建にかかわったと知りました。さて、それはどういうことでしょうか? このお寺の宗派は、黄檗宗(おうばくしゅう)。これは中国明の時代、福建省出身で、江戸時代に来日した隠元隆琦(いんげん りゅうき)が、日本で開祖した教えです。 隠元は、あのインゲン豆を日本に持ち込んだ人!それで、あの細長い豆のことが、そう名づけられたのですね。 黄檗宗は禅宗の一派で、臨済宗(りんざいしゅう)の流れを組みます。隠元は、最初は正統派臨済の「禅(ぜん:精神を統一して真理を追究する修行)」を伝えるつもりで日本に来たとか。 隠元は、京都宇治にある黄檗山萬福寺(まんぷくじ)を総本山として建立。江戸幕府か

          【富田林市】後北条一族が創建に関わった?釈迦の生涯を立体像で表す、河内西国霊場第4番の龍雲寺(奥河内から情報発信) - エキスパート - Yahoo!ニュース
        • 下剋上時代にあって“奇跡的”な一族の初代・北条早雲に迫る! | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)

          領国経営にかかわる民政の充実を図り、北条氏5代100年にわたる統治は安定していた。松沢成文氏ならではの視点で、地味ながら実はすごい北条一族の初代・早雲を紹介。 北条氏というと、室町時代に執権として将軍を支えた北条氏を想起する人が多いだろうが、ここで紹介するのは戦国時代の幕を開けたともいえる小田原の北条氏。神奈川県知事として地方の首長をつとめた松沢成文氏によると、北条氏5代100年にわたる統治は、戦国武将としての実力はもちろん、領民のための制度・政策の立案と実行、自らを律する家訓の徹底、そして100年間ほぼ「内輪もめ」にあたるものがない、という一族の結束の固さは特記に値するという。地味ながら実はすごい北条一族の初代・早雲について紹介しよう。 ※本記事は、松沢成文:著『北条五代、奇跡の100年』(ワニ・プラス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 無用な争いがなかったために地味な印象 実力は充

            下剋上時代にあって“奇跡的”な一族の初代・北条早雲に迫る! | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)
          • 宝瓶山十輪寺 - sogensyookuのブログ

            兵庫県高砂市高砂町は、古い町並みが続くレトロな界隈である。 そんな町並みの中にあるのが、高砂町横町の宝瓶山(ほうびょうさん)十輪寺である。 空海が遣唐使として唐に向けて航海中、海上安全を地蔵菩薩に祈願したところ、高砂沖で霊感を受けて無事に所願成就した。 帰朝後空海は、地蔵十輪経の趣旨に則り、鎮護国家、航海安全の祈願所として十輪寺を開いた。弘仁六年(815年)のこととされている。 今でも十輪寺には、伝弘法大師作の地蔵菩薩像が伝わる。 山門 十輪寺山門は享保二十一年(1736年)の築で、高砂市指定文化財である。 建永二年(1207年)3月に、法然上人が船で讃岐に左遷される際に、この地の漁民の求めに応じて上陸した。法然は、殺生をする漁民であっても称名念仏をすることによって極楽往生できると教化した。その時から、真言宗の寺院だった十輪寺は浄土宗の寺院となった。法然上人を十輪寺中興第一世とする。 山門

              宝瓶山十輪寺 - sogensyookuのブログ
            • 令和3年6月17日 - mn36555023’s diary

              ✘╹◡╹✘ posted at 23:34:22 RT @Mithuril: リニア反対ってのがどういうマインドか知りたくて調べたんだけど、、、 バリバリの緊縮脳やな、、、 「暮らしを良くしていこう」 じゃなくて 「どうせ人口は減ってくのだから発展を捨てよう」 なんだな、、、 pic.twitter.com/MigrTVTETi posted at 22:53:26 【いいね!】ポッシブルスター1.414 www.nicovideo.jp/watch/sm304891… #sm30489148 posted at 22:46:38 【いいね!】ポッシブルスター3 www.nicovideo.jp/watch/sm304891… #sm30489144 posted at 22:46:16 【いいね!】ポッシブルスター2 www.nicovideo.jp/watch/sm304891… #s

                令和3年6月17日 - mn36555023’s diary
              • 戦国時代の始まりから終わりまでを描いた小説の定番ないの?

                三国志なら三国志演義、日本の南北朝時代なら太平記があるが、戦国時代全部がテーマの誰もが知っているような定番の小説を知らない。 近いのは司馬遼太郎だろうか。 「国盗り物語」「新史太閤記」「関ヶ原」「城塞」で斎藤道三から大坂の陣までカバーしているし、北条早雲の「箱根の坂」もある。

                  戦国時代の始まりから終わりまでを描いた小説の定番ないの?
                • 北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞

                  相模に根付き、関東全域に影響を与えた後北条氏の始祖・北条早雲。 その出自や経歴を考えると、実は「伊勢宗瑞」あるいは「伊勢新九郎」という名前のほうがより正しいと考えられています。 後述しますが、元々は室町幕府の名門官僚の出なのです。 永正16年(1519年)8月15日はその命日。 斎藤道三や大内義隆など、戦国時代の初期に名を馳せた、北条早雲の生涯を見てみましょう。

                    北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞
                  • 【まとめ】戦国最強の大名は誰だ!!戦国大名総選挙ランキング1位~30位

                    こんにちは★ 戦国時代大好きなよよちち🐨です🌟 「最強武将」のランキングをTV番組でやっていたので、それをまとめました🌟 もっと詳しく書いたのがこちら↓ 戦国最強の大名は誰だ!!戦国大名総選挙ランキング30位~16位 戦国最強の大名は誰だ!!戦国大名総選挙ランキング15位~1位!予想外の結果に驚きました! 今回は、ランキングをだーーーーっと書いたまとめの記事です🌟 早速1位からどうぞーーーー🎵 ■第1位 織田信長(おだのぶなが) 国民投票1位、専門家2位、AI1位。 29,500ポイント。 戦国の覇王、天下統一にあと一歩だった。 関西を中心に中部・関東の一部を治めた大名。 海外文化や兵器など新しい物を取り入れ、斬新なアイデアマンだった。 点在する城に敵軍を引き付ける事で、敵軍本陣の数を減らし奇襲するなど、知力、攻撃力に優れていた。 最も信頼した家臣、明智光秀の謀反により天下統一を

                      【まとめ】戦国最強の大名は誰だ!!戦国大名総選挙ランキング1位~30位
                    • 小田原市 | 小田原城奪取

                      早雲による伊豆討入は、戦国時代の開幕を告げる象徴的な出来事であった。というのは、それ以前にも、守護大名同士の戦いなどが繰り広げられていたが、早雲の伊豆討入の戦いは、それらとは異質だったからである。 堀越公方(ほりごえくぼう)は、本来は鎌倉公方となるべく関東に下されたもので、室町幕府の出先機関として位置づけられていた。しかも、それを破ったのが駿河守護今川氏親の一武将にしかすぎない北条早雲だった。地位が下の者が上の者にとって代わる下剋上(げこくじょう)そのものだったのである。戦国時代のキーワードとして下剋上と弱肉強食ということがいわれており、早雲の伊豆討入は、そうした意味で、戦国時代の到来を告げるできごとだった。 普通に考えると、伊豆一国の国盗りに成功した早雲のことだから、しばらくは伊豆の支配に専念したと、とらえるだろう。ところが早雲は伊豆一国で満足せず、さらに相模への進出を企てるのである。そ

                      • 2020年度「これも学習マンガだ!」50冊を新たに選書

                        2020年度「これも学習マンガだ!」50冊を新たに選書『映像研には手を出すな!』『約束のネバーランド』はじめ、「楽しく」「わかりやすく」「共感」できるマンガが選ばれる 一般社団法人マンガナイト(東京都文京区、代表山内康裕)と日本財団(東京都港区、会長笹川陽平)は、「これも学習マンガだ!」として新たに50作品を選書いたしました。今回の選書では、『映像研には手を出すな!』『約束のネバーランド』などおなじみの作品や、多様性部門から『さよならミニスカート』『ヘテロゲニア リンギスティコ~異種族言語学入門~』、歴史・戦争部門から『カジムヌガタイ』『草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー』、科学・学習カテゴリーから『はじめアルゴリズム』『天地創造デザイン部』など、性の多様性や異文化理解、慰安婦問題、STEAM教育、政治等を学べるマンガも選書しました。更に、日本では接する機会の少ない海外マンガ『MA

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                        • 歴史ゲーム@2ch掲示板

                          歴史上の人物、出来事・書物を題材・モデルとしたゲームを扱います メーカーに関する話題はハード・業界板へ ネットゲームは扱いません。ネトゲサロン等の板へ行ってください。 板設定に関する相談は板に関することを話合うスレ(仮)へ。 【スレ立て時の注意】 検索しやすいようにタイトルは省略しないようにしてください。 次スレを立てるときは重複を避けるためにスレッド一覧をよく確認すること 【荒らしへの対応】 荒らしは徹底放置。反応したらあなたも荒らしです。 削除依頼は削除整理板へ。削除ガイドラインをよく読んでから依頼すること。 【1:877】信長の野望で過大、過小評価されている武将スレ69 1 名前:名無し曰く、 (ワッチョイ cf6a-rEmY) :2023/12/26(火) 11:25:00.81 ID:2LESdxtE0.net !extend:checked:vvvvv:1000:512 !ex

                          • 森 長可は、なぜ長久手であえなく討死したのか?【戦国武将の話】 | ラブすぽ

                            奇襲作戦を見抜かれ、待ち伏せ攻撃を受けた森長可(もりながよし)は織田信長の小姓として名高い森成利(なりとし)(蘭丸=らんまる)の実兄。父の森可成(よしなり)は美濃出身で、早くから信長に仕え、信長の上洛後は近江の宇佐山(うさやま)城に配置されるが、元亀元(1570)年9月、浅井・朝倉軍と一向一揆を迎撃しようとして討死。まだ13歳の長可が家督を継承することとなった。 元服後、長可は美濃衆の一人として織田信長の嫡男・信忠の軍団に配属され、天正10(1582)年2月の武田氏討伐戦では団忠正(だんただまさ)と並び先鋒を任された。 このとき、さしたる戦闘はなかったが、長可は軍功として、北信濃(しなの)4郡を与えられた。 本能寺の変では難を逃れるが、蘭丸以下3人の弟を失った。しばらく美濃で休養をとったのち、羽柴秀吉に従ったところ、同12(1584)年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いを迎える。信

                              森 長可は、なぜ長久手であえなく討死したのか?【戦国武将の話】 | ラブすぽ
                            • 建武の乱 - Wikipedia

                              建武の乱(けんむのらん)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、建武2年11月19日(1336年1月2日)から延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)にかけて、後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。延元の乱(えんげんのらん)とも。広義には、中先代の乱など建武政権期に発生した他の騒乱も含まれる。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した。 後醍醐天皇は大覚寺統と持明院統、更に自己の系統と実兄後二条天皇の系統(後の木寺宮・花町宮)との決着をつけるべく、倒幕運動を起こし、一度は事敗れて隠岐島に流されたものの、楠木正成や新田義貞、そして足利高氏(後の尊氏)の活躍で、元弘3年(1333年)遂に鎌倉幕府は滅亡し、幕府が立てた光厳

                              • 鶴見区「寺尾城址」は室町時代の山城だった!? | 横浜で暮らそう

                                鶴見区 馬場は歴史的建造物や史跡が多い街鶴見区西部、鶴見駅西口から坂道を上った場所にある住宅街エリアが「馬場」。実は、歴史好きの方に嬉しい貴重な歴史的建造物や史跡が多く残るエリアとなっています。現在は住宅街が広がっていますが、明治時代には天然氷の製造や牧畜が盛んだったことも。ここでは、そんな鶴見区「馬場」の歴史や魅力を紹介するコンテンツです。鶴見区 馬場は歴史的建造物や史跡が多い街横浜市の最東端に位置する海と山に囲まれた自然豊かな「鶴見区」。鶴見区西部にあり、鶴見駅西口から坂道を上った場所にあ... 寺尾城址ってどんなところ? まずは、寺尾城址についてお伝えします。 寺尾城址の歴史は、室町時代までさかのぼります。 殿山と呼ばれる丘の上には、その昔寺尾城があったと伝えられている。お城といっても天守閣のあるような立派な建物ではなく、砦のような山城であったようだが、寺尾城についてはその全容はなぞ

                                  鶴見区「寺尾城址」は室町時代の山城だった!? | 横浜で暮らそう
                                • 松平長親 - Wikipedia

                                  明応5年(1496年)、安祥城主・安祥松平家として分出。しかしこの頃、隣国駿河国の今川氏親からの攻撃を受けるようになり、本家の岩津松平家をはじめ、鼠算式に各地に分出した一族は苦戦を強いられていた。氏親の家臣であった伊勢盛時(伊勢宗瑞・一般には北条早雲として知られる)と戦ったこともある。また、連歌などの教養にも秀でていたと言う。 永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞率いる今川軍は大樹寺を本陣として岩津城を攻めた(永正三河の乱)。しかし、「岩津殿」は戦に名のある家来もあって城に敵を近寄せない戦いぶりだったために、今川勢も持てあましたという。 『三河物語』の記述に依ると[1]、その間に、岩津への救援軍として安祥城の長親が井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶりに手を焼いて伊勢宗瑞の本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後を襲われることを懸念して、

                                  • 『室町時代(戦国以外)の大河ドラマはなぜ少ないのか、再録。』

                                    室町時代がなかなか大河ドラマにならないのは何故か、という題で、以前に書いたものを再録します。 戦国時代の大河はいっぱいあります。足利尊氏が主人公の「太平記」もあります、室町幕府がちゃんとしてた時代は日野富子が主人公の「花の乱」があるんですが、これは長く視聴率最低記録を保持していました。応仁の乱の時代は、人気がないんです。 なんでか。 「ご当地」があることなんです。 つまり、主人公の「地元」からの、熱烈な誘致があることです。 大河の地元になれば、全国から観光客が増え、物産が売れ、相当の経済効果が望める、と信じられています(いまのところは)、だから、どこの県も「おらが国の英雄を大河ドラマの主人公に」とNHKに売り込みをかけます。景気がよかったころのNHKは「あんたんとこの県は、どんだけのことをしてくれるのかね」と「相応の負担」を求めてきまました。どんなイベントにどんだけ県予算を使ってくれるのか

                                      『室町時代(戦国以外)の大河ドラマはなぜ少ないのか、再録。』
                                    • 日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【後編】 : Japaaan

                                      15世紀末から始まったとされる戦国の世。数多くの武将たちが凌ぎを削った時代にあって、戦国大名の先駆けとされる人物「北条早雲(ほうじょうそううん)」。今回は、【前編】に引き続き、北条早雲の生涯を… 相模国平定 小田原城を落とした早雲は、扇谷上杉家の当主「上杉朝良(うえすぎともよし)」から小田原城を譲り受け、代わりに軍事支援を約束する。 立川原の戦い 扇谷上杉家と対立していた山内上杉家は、当主「上杉顕定(うえすぎ あきさだ)」を中心に朝良・早雲方を牽制。1504年。両軍は武蔵国立川原で合戦となった。戦は扇谷上杉家方の勝利に終わるも、敗戦後に勢いを盛り返した山内上杉家によって朝良は事実上の隠居に追い込まれる。 上杉家との敵対 早雲は上杉家の同族争いの最中にも、扇谷上杉家の軍事支援を名目に相模国の侵攻を進めていた。1510年頃になると扇谷上杉家から離反する動きを見せ始める。朝良は敵対していた山内上

                                        日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【後編】 : Japaaan
                                      • まんが戦国ブギウギ9話 江戸城主 暗殺されて 一句読む by どーかん

                                        生まれてくるのが遅すぎた戦国大名といえば伊達政宗が挙げられたりしますが、ではその逆に早すぎた代表は? 北条五代記の祖・北条早雲(伊勢宗瑞)はその一人。 今回の注目は、その早雲と同世代で、同じく関東で活躍した太田資長、またの名を太田道灌です。 初代・江戸城の築城主にして、数々のエピソードを残した関東武士とは? 祖父の思い出 ◆道灌は1432年生まれ。早雲もまた1432年生まれという説と、1519年という説がありますね。いずれにせよ応仁の乱が起きたのが1467年であるので、日本史の教科書通りな見方をすれば、道灌35才あたりから全国各地は乱れはじめ、下克上の世の中となっていきます

                                          まんが戦国ブギウギ9話 江戸城主 暗殺されて 一句読む by どーかん
                                        • 当麻城(当麻要害)「当麻太郎」相模でも歴史ある地を監視した鎌倉時代・戦国時代の城跡

                                          神奈川県 当麻城(当麻要害)「当麻太郎」相模でも歴史ある地を監視した鎌倉時代・戦国時代の城跡 神奈川県 相模国, 平山城 コメント: 0 投稿者: 城迷人たかだ 当麻城(当麻要害)とは 当麻城(たいま-じょう)は、神奈川県相模原市南区当麻にある平山城で、当麻要害とも呼ばれている、崖の端にある城跡となる。 相模原市の当麻(たいま)は太古の昔から人々の生活跡があり、平安時代初期(800年頃)にはすでに当麻に集落があった。古くは當麻とも表記したようだ。 平安時代935年頃に編集された、日本で2番目に古い辞典「和名類聚抄(和名抄)」には「塩田」の地名が明記されており、古くから人々の往来があったことが伺える。 その塩田の隣の地にある当麻城は相模川に侵食された絶壁にある原当麻の浅間神社にあったとされる。 上記写真がその浅間神社であるが、ここは一段下がった場所であり、本丸では無く、二の丸のような雰囲気で

                                            当麻城(当麻要害)「当麻太郎」相模でも歴史ある地を監視した鎌倉時代・戦国時代の城跡
                                          • 平貞盛 - Wikipedia

                                            平 貞盛(たいら の さだもり、旧字体:平󠄁 貞盛󠄁)は、平安時代中期の武将。平国香(良望)の嫡男。 生涯[編集] 承平5年(935年)、京で左馬允在任中、従兄弟の将門と母方の叔父(源護)たちとの抗争が勃発し、父の国香がそれに巻き込まれて亡くなる事件が起こる。それらを伝え聞いた貞盛は、朝廷に休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父国香の屍を探し出し、また山中に避難した母と妻らを探し出した。この際貞盛は、そもそも叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって将門側に非はなく、また自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。父の死後まもなく、その後継の常陸大掾に任官された。 しかし、将門らの抗争に叔父の良兼、良正らが介入しだすと、実際結果的に将門が国香を死に至らしめたのもあり、良兼に説得されて、良兼や良正ら

                                            • 尼子晴久は、なぜ親族の新宮党を粛清したのか?【戦国武将の話】 | ラブすぽ

                                              傍若無人な振る舞いが高じたため出雲(いずも)の尼子(あまご)氏は近江源氏の末裔(まつえい)。尼子経久(つねひさ)の代には大内氏と張り合いながら、山陰山陽11カ国を制圧した時期もある。 経久の長男・政久(まさひさ)は早くに戦死したため、経久の隠退後は孫の詮久(あきひさ)が継いだ。12代将軍足利義晴から一字をもらい、晴久(はるひさ)と改名。幕府の御相伴衆(ごしょうばんしゅう)になるなど、幕府の権威を利用しながら版図の再拡大に励み、最盛期には8カ国の守護を自認していた。 家督を継承して間もない天文9(1540)年には毛利氏の本拠地である吉田郡山(よしだこおりやま)城への遠征を試みるが、天然の要害(ようがい)を最大限活用した堅い守りを攻めあぐねていたところ、毛利氏救援にやって来た陶晴賢率いる大内軍に背後から攻められ、大敗北を喫した。 これを受けて、尼子氏勢力圏全体に動揺が走り、離反する国人領主が続

                                                尼子晴久は、なぜ親族の新宮党を粛清したのか?【戦国武将の話】 | ラブすぽ
                                              • 中世駿府の歴史、城を訪ねて2 ~駿府戦国の始まり今川氏親の攻防 と 迫力の遺構が残る丸子城~ - 歴史ぶらり1人旅

                                                こんにちは、rekikakkunです。 中世駿府の歴史を訪ねて、 初回は南北朝の時代、 安倍城、賎機山城を中心に ご紹介致しました。 今回第2弾は、 戦国時代に突入する時代、 北条早雲の甥であり、今川義元の父 である今川氏親と、 彼が一時身を寄せていたとされ、 国内でも有数であろう山城遺構が残る、 丸子城をメインに進めてみます。 1.今川義忠の死 事の発端は少しさかのぼった 応仁の乱の時代、 1476年、彼の父8代今川義忠が、 遠江(静岡県西部)の主導権争いの中、 同国の有力な国人、勝間田氏と横地氏を 攻撃し勝利した後の帰国時に、残党の 待ち伏せにより、不慮の死に至った所 から始まります。 ①勝間田城 勝間田城(1/2)本曲輪周辺中心部 勝間田城(2/2) 堀切跡が連続式に残ってます ②横地城 横地城(1/3) 赤線の堀切が全て見れました(⌒∇⌒) 横地城(2/3)東の曲輪(横地城の本丸)

                                                  中世駿府の歴史、城を訪ねて2 ~駿府戦国の始まり今川氏親の攻防 と 迫力の遺構が残る丸子城~ - 歴史ぶらり1人旅
                                                • 本願寺勢力(一向宗)はなぜ戦国大名たちに恐れられたのか? | 戦国ヒストリー

                                                  一向一揆と戦国大名の戦いというと、織田信長と石山本願寺の「石山合戦」が有名ですが、本願寺と一緒くたに語られる「一向宗」は支配者層から武力蜂起を引き起こす教団とみなされ、警戒された勢力でした。戦国大名たちは、なぜ一向宗を恐れたのでしょうか。 一向宗は危険な宗派とみなされていた? 冒頭で取り上げた石山合戦に限らず、それ以前から本願寺派は各地の領主たちと争っていました。越前では本願寺派の寺院が領主の朝倉氏によって破却され、関東の北条氏の領内では一向宗が禁制になっています。 領内での一向宗を禁止にした後北条氏の初代当主・北条早雲 また、享禄4年(1531)からはじまった「享禄・天文の乱」は、蓮如(浄土真宗本願寺宗門)による教団改革の内紛を発端として細川氏・畠山氏らとの戦いも勃発しましたが、このとき同じく北条氏の領内にて三浦郡の一向宗が鎌倉光明寺の檀家として統制されています。 さらに遠く九州でも、肥

                                                    本願寺勢力(一向宗)はなぜ戦国大名たちに恐れられたのか? | 戦国ヒストリー
                                                  • 新九郎、奔る!・第百二十一話 新たな確執 その二

                                                    室町のリアルを描く唯一無二の本格大河!戦国大名の先駆け・「北条早雲」の物語!! 時は戦国武将たちが活躍しはじめる少し前。 戦乱の世の始まりを切り拓いた男がいた。 その男の名は伊勢新九郎盛時。 伊勢宗瑞、または「北条早雲」として知られる男は いかにして戦国大名になったのか。 そもそも彼は何者だったのか。 「下克上の素浪人」のイメージを覆す、新しい「北条早雲」こと伊勢新九郎の姿がここにある! 名門伊勢一門出身だったという最新の研究結果を基に描く、唯一無二の本格室町大河!! 文正の政変、応仁の乱、細川勝元、足利義政、太田道灌、細川政元、享徳の乱……時代の変革とその中心人物から学び、成長していく真面目な男の一代記。

                                                      新九郎、奔る!・第百二十一話 新たな確執 その二
                                                    • 面白い雑学教えて : 哲学ニュースnwk

                                                      2020年08月25日08:00 面白い雑学教えて Tweet 1: 名無しさん@おーぷん 20/08/24(月)07:54:10 ID:3Z1 教えて 3: 名無しさん@おーぷん 20/08/24(月)14:11:29 ID:YLx 中国の三皇五帝は、のべ16人いる 秋春五覇は、のべ18人いる 4: 名無しさん@おーぷん 20/08/24(月)14:14:55 ID:QMH ライターはマッチより先に作られた 5: 名無しさん@おーぷん 20/08/24(月)14:15:24 ID:YLx 茶人、千利休はムダに180cmあった 6: 名無しさん@おーぷん 20/08/24(月)14:15:54 ID:QMH 秀吉の側室、淀殿は170㎝あった 8: 名無しさん@おーぷん 20/08/24(月)14:17:26 ID:4IJ ホタルイカはホタルイカモドキ科 段落番号 9: 名無しさん@おーぷん

                                                        面白い雑学教えて : 哲学ニュースnwk
                                                      • 2月の新刊 2 【装幀確定】 浮世博史『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート』いよいよ刊行 | 幻戯書房NEWS

                                                        装幀は細野綾子さん 日々、進化する日本の歴史教科書。その一方で、「物語のない教科書はつまらない」「戦後史観は信用できない」という「普通の日本人」も増えつつある。そこへ「あのベストセラー」が登場した――現在の書籍やウェブ上に蔓延する日本史俗説を、人気教師が豊富な資料で易しく徹底解説。「社会科学としての歴史学」とはなにか。教科書の記述はなぜ変わるのか。もう騙されないために知っておきたい、歴史リテラシー入門102講。2019年、ウェブ上で大反響を呼んだ「こはにわ歴史堂のブログ」連載(80万字)を、大幅加筆改稿のうえ書籍化(全二冊)。 *続刊:『近代~現代篇』2020年3月予定 【「はじめに」より】 私はこの『日本国紀』という一冊に、「昨今のネット上にある玉石混合の歴史記述」あるいは「戦後の歴史教育に対する、一般的な日本人の不満」が凝縮されているのではないかな? と感じます。誹謗中傷にはならないよ

                                                          2月の新刊 2 【装幀確定】 浮世博史『もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート』いよいよ刊行 | 幻戯書房NEWS
                                                        • 新九郎奔る9巻 感想 - 徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

                                                          歴史系はコミックスの感想も書いていこうと思います。 室町系でイチオシは「新九郎奔る!」 ビックコミックスピリッツ連載ですが、流石に毎週は財力的にも買えないので、コミックスで追いかけています。作者はパトレイバーや究極超人あーるで超有名な大御所、ゆうきまさみ先生!相変わらずの親しみやすい絵柄ですが、歴史検証もしっかりされていて、しかも創作部分も不自然さがないというクオリティです! 2月10日に最新刊9巻が発売されました。 時は文明8(1476)年、京の乱も収まっていないですが、舞台は姉伊都の嫁ぎ先、駿河今川家です。ついに、伊勢新九郎(北条早雲)の名が広く知れ渡る、駿河動乱に話は入ります! 夫である今川当主義忠は遠江遠征の中で討死。 しかし、その遠江攻めの相手は、足利義政(前将軍)や伊勢貞宗(政所執事)が必死で西軍から東軍に寝返らせた、斯波義廉家臣・甲斐敏光! 義忠は遠江欲しさに幕府への叛逆へと

                                                            新九郎奔る9巻 感想 - 徒然なるままに ~歴史作品の感想他~
                                                          • 北条の台頭は許さん!上杉と組んで信虎が関東へ【マンガ武田三代記5】

                                                            武田信虎が甲斐で足場を固める頃、関東では劇的に勢力図が塗り替えられていました。 北条氏の台頭です。 伊勢宗瑞(北条早雲)の息子である北条氏綱は、偉大なる父に負けず劣らずの勇将。 敵対していた上杉朝興(扇谷上杉)は氏綱によって北へ北へと追いやられ、拠点を河越城まで移すばかりか、長く敵対していた上杉憲房(山内上杉)との和睦まで余儀なくされるほど追い詰められておりました。 そんな氏綱を牽制するため、自らの所領を増やすため、大永四年、信虎は関東へ出兵する。 戦国ブギウギ武田三代記vol.5のスタート! ◆前話を読みたい!という方は以下のリンクからご覧ください ↓

                                                              北条の台頭は許さん!上杉と組んで信虎が関東へ【マンガ武田三代記5】
                                                            • 藤沢最高地点を訪ねる 二伝寺・村岡五郎の塚(渡内) | 藤沢 | タウンニュース

                                                              「藤沢市で一番高いところって知ってる?」。取材先で聞かれ、恥ずかしながら答えあぐねてしまった。編集室の回答、「江の島」は60m、「善行坂(立石)」は52m、「石名坂(本藤沢2丁目)」は37mでどれも不正解。調べると、村岡地区、渡内にある浄土宗二伝寺が最も高い73・5mであることが分かった。最高地点を訪ねると、とある人物の塚があった。 「丘(高い地点)が群れる」が由来とも言われる村岡。住宅街の中の坂を上がり切り、さらに石段を上ると緑眩しい木々の中に寺門を見つけた。 二伝寺は1505年、小田原北条家の北条氏時の発願で建立。氏時は、北条早雲が対三浦氏のために築城し東相模最大の拠点であった玉縄城の城主で、寺はちょうど玉縄城の尾根つづきの南東の角に位置する。寺前には旧鎌倉街道が通り、当時は砦としての役割を担ったという。 当間浩昭住職に歴史を解説しながら境内を案内してもらった。門を入り正面の本堂には伝

                                                                藤沢最高地点を訪ねる 二伝寺・村岡五郎の塚(渡内) | 藤沢 | タウンニュース
                                                              • 三好長慶は、織田信長に先立つ天下人って本当?【戦国武将の話】 | ラブすぽ

                                                                畿内から四国8カ国を治め、居城を石垣で囲った三好長慶(みよしながよし)は阿波(あわ)細川家の家臣なので、将軍からすれば陪臣(ばいしん)に当たった。しかし、傍流の三好政長(まさなが)との家督争いや細川家の内紛に関与するうち、いつしかその権勢は主家や将軍をも上まわっていた。 長慶と阿波細川家の晴元、典厩家(てんきゅうけ)の細川氏綱、野州(やしゅう)家の高国(たかくに)、12代将軍足利義晴(よしはる)、13代将軍義輝(よしてる)などの関係は協力と敵対の間を目まぐるしく推移したが、そのなかにあって長慶は一度として窮地に陥ることはなかった。 最大版図は山城(やましろ)・摂津(せっつ) ・河内(かわち) ・和泉(いずみ)・大和(やまと)・丹波(たんば) ・淡路(あわじ) ・讃岐(さぬき) ・阿波(あわ)と播磨の一部、すなわち畿内(きない)から瀬戸内海沿岸の東半分に及んだ。しかし、管領になれるのは細川・

                                                                  三好長慶は、織田信長に先立つ天下人って本当?【戦国武将の話】 | ラブすぽ
                                                                • 信長の庶子 - 風の噂

                                                                  「まあ食え。一日中重たいもの運んで腹減ってるだろ?」 小太郎様、と周囲の者たちから呼ばれている男が俺たちを連れて入ったのは、朝出会った場所からほど近い大きな平屋だった。そこでは裏で火が起こされていて、人々が適当に食い物を持ち寄り、屋内の至る所に設けられた囲炉裏で鍋を煮たり干物を炙ったりしていた。玄米を炊いた大釜の周りにいる飯炊の女たちは、飯を一杯よそって渡し、酒が入っているらしい竹筒を持った男には大盛りで3杯ほど渡し、何も食えるものを持っていない若い連中には銭と交換してやり、こっそりとおかずになるようなものもつけてやったりしている。実に楽しげな雰囲気である。 「おう、鯖の干物と交換してくれ」 「おや、今日は若い男の子連れてるんだね。可愛い顔してるじゃないか。虐めていないかい?」 「虐めて普請が早く終わるならそうするかもなあ」 「早く終わると私たちの仕事も無くなっちゃうよ。ゆっくりやって下さ

                                                                    信長の庶子 - 風の噂
                                                                  • 電車とバスでGo!その5~2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」聖地を行く 三浦編~

                                                                    画像:横須賀・三浦半島にゆかりの深い三浦氏の三浦義村は山本耕史さん、和田義盛は横田栄司さんが演じます。@【11.16~20】5日間連続出演者発表!2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より 華やかな源平合戦、その後の鎌倉幕府誕生を背景に 権力の座を巡る男たち女たちの駆け引き── 源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男 二代執権・北条義時。 野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。 新都鎌倉を舞台に繰り広げられる、パワーゲーム。 義時は、どんなカードを切っていくのか── 【11.16~20】5日間連続出演者発表!2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より 十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制である。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。 十三人の合議制@Wikipediaより 2022

                                                                      電車とバスでGo!その5~2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」聖地を行く 三浦編~
                                                                    • 信長を追い詰めた“戦国の雄”朝倉五代と一乗谷の真実

                                                                      一乗谷朝倉氏遺跡復元町並で展示されている一乗谷のジオラマ(写真:近戸秀夫) 《越前の戦国大名・朝倉氏というと、「朝倉義景は凡庸だった」というイメージで語られることがある。しかし、果たしてそうした見方は正しいのだろうか。 現在発売中の月刊誌『歴史街道』2020年7月号の特別企画では、「朝倉五代と一乗谷の真実」と題し、見落とされてきた朝倉氏の実相に迫っている。ここでは、作家・吉川永青氏による五代百年のあゆみに関する論考を紹介しよう》 ※本稿は月刊誌『歴史街道』2020年7月号より一部抜粋・編集したものです。 時節を見る目と謀略の冴え~下克上で越前国主の座に 朝倉氏の本拠・越前一乗谷は、他と比べて少し特殊である。東西を山に挟まれた文字どおりの谷間には、朝倉氏の館と一乗谷城、そして城下町が存在した。ここまでなら、取り立てて他と変わらない。しかし、この谷間という立地を巧く使っている。谷の南北の終端に

                                                                        信長を追い詰めた“戦国の雄”朝倉五代と一乗谷の真実
                                                                      • 北条幻庵覚書(ほうじょうげんあんおぼえがき) | 世田谷区ホームページ

                                                                        世田谷区指定有形文化財(古文書) 平成10年11月25日指定 所在 東京都世田谷1丁目29番18号 世田谷区立郷土資料館 (開館時間、休館日は郷土資料館のページをご確認ください。) 室町時代 点数 巻子本1巻 附 吉良義房修補奥書 解説 北条幻庵は、北条早雲の第三子で、幼くして仏門に入り、長じて箱根権現金剛王院の別当職をつとめました。法名は長綱、のち臨済宗風に幻庵宗哲とあらためています。この覚書は世田谷城主吉良氏朝に嫁ぐ、北条氏康の娘・鶴松院に幻庵が書き与えたものです。内容は、夫や姑の呼び方にはじまり、婚礼の式や家臣への心配りなど多岐にわたります。更に諸人への対応のしかたから年中行事、日常生活のたしなみなどにいたるまで事細かに諭しています。 文化財一覧にもどる

                                                                        • 2021年12月10日             口コミの間違いによるお詫びを申し上げます。ほか。 - setouchipirates1seigouの日記

                                                                          こんにちは伊予之鈍才です。 口コミで、大変大きく間違えていたことを深くお詫び申し上げます。すみませんでした。 北条氏康と太田道灌は全く時代が違います。北条氏康がいた時代は戦国真っただ中です。北条氏康と対戦したのは太田資正です。しかも流石に大国の北条に単独太田資正率いる家臣団だけでは、枯れませんから、戦略・戦術を用いて上杉謙信に援軍要請したとううべきです。 実際、北条氏康の父親、北条宇氏綱も1487年に生まれたということで太田道灌との敵対関係の可能性は1486年には、まだ、北条氏綱はまだ、生まれていません。なので、北条氏綱も太田道灌を争うこともありません可能性としては、北条早雲ですが、彼の領土がどこにどれぐらい持っていたか? 1486年8月25日の時点でのどのぐらいの版図を持っていたかですがどうでしょうね。1486年に北条早雲が太田道灌と関東で接点があったかどうは分かりません。駿河では北条早

                                                                            2021年12月10日             口コミの間違いによるお詫びを申し上げます。ほか。 - setouchipirates1seigouの日記
                                                                          • 戦乱に斃れし将兵の追憶 遠藤原の五十塚と六十塚(中井町) - みうけんのヨコハマ原付紀行

                                                                            東名高速道路の秦野中井インターの南側、中井町は土屋村と呼ばれたところの、以前に紹介した中井町の遠藤原というところ、「花籠の台」から少しだけ東に原付を走らせると、こんもりとした畑の上に古そうな石塔が仲良く並んでいるのが目につきました。 はて、どうも気になったので原付をUターンさせて戻ってみると、そこは「ふるさと土屋いろはかるた」で紹介された五十塚の遺跡だったことが分かりました。 戦乱の 五十塚のこる 古戦場 「いろはかるた」でそのように紹介されているここ五十塚は、道路の両側に一面に広がる農地の片隅に残されています。 もともとこのあたりの字を五十塚といいますが、これはこの五十塚が由来となったもので相当に古い字名とされていますが、その由来には聞くも悲しき歴史の哀話が秘められていたのです。 今から遡ること500年のむかし、永正9年(1512年)のこと、相模国一帯を支配していた豪族である三浦一族に、

                                                                              戦乱に斃れし将兵の追憶 遠藤原の五十塚と六十塚(中井町) - みうけんのヨコハマ原付紀行
                                                                            • 伊勢盛頼と今川氏の揉め事ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

                                                                              伊勢盛頼ー新九郎の従兄であり、東西に分けられた荏原郷の権益をめぐるライバルであり、京都で生まれ育って在地での経験の全くない新九郎のよき指導者ともなる人物です。なかなかいい味を出しており、私は結構好きな登場人物です。 第6巻83ページでは在地の厳しい現状を新九郎にアドバイスしています。 新九郎、奔る!(6) (ビッグコミックス) 新九郎、奔る!(6) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ] 那須修理亮家と伊勢掃部助家は領地争いを引き起こしますが、京兆家内衆で新九郎の知り合いであった庄元資の仲介で和解します。その時に揉め事の発端となったという「下人」が那須方より差し出され、伊勢家がその「下人」を処刑しますが、処刑後盛頼がぼやきはじめます。 盛頼「いくら地侍の下人と言っても あんなみすぼらしい下人があるか。あの場では言わなかったがな。」 新九郎「え?ではあの解死人は・・・沼之井十郎(争い

                                                                              • 豊臣秀吉の、本来の姓は「木下」? 「羽柴」?【戦国武将の話】 | ラブすぽ

                                                                                結婚するまで姓を持たない雑兵だった明智光秀と同じく、豊臣秀吉(とよとみひでよし)も織田信長に仕える前のことが、確かな史料からは認められない。 秀吉の本来の姓は木下(きのした)で、そこから羽柴(はしば)→豊臣と推移したといわれてきたが、秀吉の父・弥右衛門(やえもん)には姓がなく、秀吉はおねと結婚したことはじめて、おねの父・杉原定利(すぎはらさだとし)の元の姓である木下を用いた。 つまり、結婚が姓を持てる立場になった成り上がりの始まりだったのである。 低い身分の出身で、個としての武力もはなはだ心もとない。そんな秀吉が異例の速さで出世できたのは、主が織田信長という極端な能力主義者だったからで、もし他家に仕えていたら一生うだつが上がらなかったに違いない。 信長が認めた秀吉の能力とは、並外れた話術にあった。戦国時代において、「人たらしの天才」とまで称された。 説得や切り崩し工作を得意としたことから、

                                                                                  豊臣秀吉の、本来の姓は「木下」? 「羽柴」?【戦国武将の話】 | ラブすぽ
                                                                                • 【新田楠木】後南朝【西陣南帝】 : 歴史的速報

                                                                                  2022年01月27日19:00 【新田楠木】後南朝【西陣南帝】 カテゴリ waruneko00326 Comment(12) 4: 日本@名無史さん 2019/02/06(水) 15:54:05.84 後南朝は最近、人気が上がってきた もうすぐブームになる 6: 日本@名無史さん 2019/02/06(水) 22:55:11.88 南朝後胤の最後の資料は、東大史料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、 文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」 A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条 山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送られて、越後より越前国北荘へ移った。 B同記三十日の条 「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。 C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事 「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺(現:山梨県東八

                                                                                    【新田楠木】後南朝【西陣南帝】 : 歴史的速報