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唐大和上東征伝 鑑真の検索結果1 - 17 件 / 17件

  • 国語学研究員は、「日本語の乱れ」の夢を見るか: 不倒城

    最初に結論を書いてしまうと、言語に「乱れ」なんて存在しない、少なくとも非難されるようなものではない、というのが私のスタンスです。 多分、同じ研究をしていた人は大体そうなんじゃないかと思います。私の研究室で「日本語の乱れだ!けしからん!」という考え方の人を観測したことは一度もなく、「なんか新しい口語用法だ!レポートのネタになる、逃がすな!!」って人ばっかりでした。 この記事の目次は下記の通りになります。 1.書いている人の立ち位置 2.国語学ってなんですか 3.で、「日本語の乱れ」ってなんでしょうね 4.「正しい日本語」とかいうものを商売のタネにする人達があんまり好きじゃない 順番にいきます。 1.書いている人の立ち位置 私は文学部出身でして、日本語日本文学、その中でも国文学ではなく国語学というものをやってました。古い日本語から新しい日本語まで、「言語としての日本語」について研究する学問です

    • 日本からの支援物資に書かれた言葉が中国で感動呼ぶ | 新華社通信

      1月30日、HSK日本事務局から湖北省へ寄贈する支援物資。(重慶=新華社配信/HSK日本事務局提供) 【新華社重慶2月2日】「山川異域 風月同天」(別の場所に暮らしていても、自然の風物はつながっている)という漢字8文字が1月31日、中国の交流サイト新浪微博(ウェイボー)で絶賛を浴びた。 同日午後、「扎宝」というユーザーが微博に「中国語資格HSKの日本事務局から湖北省への支援物資はマスク2万枚と赤外線体温計。『山川異域、風月同天』と書かれたラベルに感動」と発信した。中国・唐代の高僧、鑑真和上の伝記「唐大和上東征伝」によると、日本の長屋王が唐に送った千着の袈裟(けさ)に「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺しゅうされていた。これに心を動かされた鑑真和上が、日本行きを決意したという。 2月1日午前11時現在、新浪微博には31万5千の「いいね」と7千件を超えるコメントが付けられている。 新

        日本からの支援物資に書かれた言葉が中国で感動呼ぶ | 新華社通信
      • 納豆 - Wikipedia

        納豆(なっとう)は、煮る・蒸すなどして柔らかくした大豆を納豆菌によって発酵させた発酵食品。一般的に「糸引き納豆」を指す[3]。菓子の一種である甘納豆とは異なる。世界各国に類似の食品が存在する(後述の「アジア」「アフリカ」参照)。 概要[編集] 大豆を納豆菌で細菌発酵(「臭気」を参照)させた発酵食品で、多数の栄養素をバランス良く含む健康食品でもある。和食の基本的な食材の1つとして、日本全国の食品売り場で1年を通して安価(65 - 100円程度[4])・容易に入手できる。低コストでありながら高い健康効果が得られるが、特有の癖があるため、人により好き嫌いは分かれる。高い健康効果があるとは言え、1日当たりの摂取量は1パック(40 - 50g程度[5])が適量であるため、食べ過ぎには注意が必要である[6]。食べ過ぎた場合、婦人科疾患や痛風などで健康を損なう場合がある[7]。 「納豆」「納豆汁」などは

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        • 沖縄県 - Wikipedia

          沖縄県(おきなわけん、沖縄語: ウチナー /ʔucinaa/[1][2]、英語: Okinawa Prefecture)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は那覇市。 概説[編集] 鹿児島県の薩南諸島を除く南西諸島の島々(沖縄諸島、先島諸島、大東諸島)から構成されており、東シナ海と太平洋に挟まれている。面積は2,281平方キロメートルで、日本の都道府県では小さい順に香川県、大阪府、東京都に次いで第4位であり、人の居住する日本最南端の地域を含む県でもある[注釈 3]。又、八重山郡与那国町は日本の最西端にある地方自治体であり、与那国島の北北西端にあるトゥイシが日本最西端の地点である[3]。 県民人口の約9割が沖縄本島に集中しており、さらに本島中南部に県人口の8割が集中している。那覇市中心部は三大都市圏に匹敵する人口密度がある。 ほぼ全域が亜熱帯気候であり、一部は熱帯に属する。年間を通して

            沖縄県 - Wikipedia
          • 沖縄県の歴史 - Wikipedia

            三山統一による琉球王国の成立(1429年?) 琉球王国による先島諸島征服(1500-22年) 琉球王国による奄美群島征服(1571年) 薩摩藩による琉球侵攻(1609年) 琉球藩設置(1872年) 琉球処分による沖縄県の設置(1879年) 琉球救国運動の展開(1870年代-95年前後) 沖縄戦(1945年) 琉球政府設立(1952年) 祖国復帰運動(1950-72年) コザ暴動(1970年) 沖縄返還(1972年) ナナサンマル(1978年) 普天間基地移設問題 沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、現在の沖縄県にあたる領域を中心とした歴史である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。 琉球と沖縄の名称[編集] 琉球国金丸世主書状(1471年)。島津宛の金丸(尚円王)の書状で、琉球国の表記が見える。 琉球[編集] 「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳

              沖縄県の歴史 - Wikipedia
            • 琉球王国 - Wikipedia

              1. ^ 琉球藩時代も含む。 2. ^ 現在の那覇市首里に相当。 3. ^ いずれも推定(実効支配面積)。1609年以降、奄美群島は薩摩藩の実効支配下となる。 4. ^ 薩摩藩による人口調査「宗門手札改」による。『図説琉球王国』(高良倉吉・田名真之 編、河出書房新社、1993年)参照。 5. ^ 『沖縄門中事典』(宮里朝光 監修、那覇出版社、2001年)参照。 琉球王国(りゅうきゅうおうこく、沖縄語: 琉球王国(ルーチューヲークク))は、1429年(宣徳4年・正長2年・永享元年)から1879年(光緒4年・明治12年)の450年間、琉球諸島を中心に存在した国家。正式な国号は琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)であり、「琉球王国」は琉球政府唯一の公選行政主席、ならびに日本復帰後最初の沖縄県知事であった屋良朝苗が本土復帰運動と観光誘致のために普及させた俗称である[2][3]。

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              • 吉備真備 - Wikipedia

                『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作 吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。 出自[編集] 下道氏(下道朝臣)は下道国造氏で、孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫とされる皇別氏族[3]。下道国とは備中国下道郡付近の、下道・川上・浅口などの諸郡と想定される[4]。姓は臣であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定を通じて朝臣に改姓した。 経歴[編集] 遣唐留学生として入唐[編集] 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。 元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・

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                • 鑑真 - Wikipedia

                  鑑真(がんじん、旧字体:鑑眞、繁体字: 鑒真; 簡体字: 鉴真; 拼音: Jiàn zhēn、688年〈持統天皇2年〉 - 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉)は、唐代の僧人。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。 鑑真と戒律[編集] 中国の揚州生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。 揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当

                    鑑真 - Wikipedia
                  • 日本からの支援物資に書かれた8字、中国で感動呼ぶ

                    HSK日本事務局から湖北省へ寄贈する支援物資。HSK日本事務局提供(2020年1月30日撮影)。(c)Xinhua News 【2月2日 Xinhua News】「山川異域 風月同天」(別の場所に暮らしていても、自然の風物はつながっている)という漢字8文字が1月31日、中国の交流サイト新浪微博(ウェイボー、Weibo)で絶賛を浴びた。 同日午後、「扎宝」というユーザーが微博に「中国語資格HSKの日本事務局から湖北省(Hubei)への支援物資はマスク2万枚と赤外線体温計。『山川異域、風月同天』と書かれたラベルに感動」と発信した。中国・唐代の高僧、鑑真和上の伝記「唐大和上東征伝」によると、日本の長屋王が唐に送った1000着の袈裟(けさ)に「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺しゅうされていた。これに心を動かされた鑑真和上が、日本行きを決意したという。 2月1日午前11時現在、新浪微博に

                      日本からの支援物資に書かれた8字、中国で感動呼ぶ
                    • 鑑真:日本の風景見ていた? 研究者、新たな史料で新説 - 毎日jp(毎日新聞)

                      奈良時代の高僧、鑑真(688~763)の目は唐からの来日時に見えていた--。奈良国立博物館の西山厚学芸部長が鑑真の命日にあたる6日、奈良市の唐招提寺で開かれる特別講演会で、新たな史料を示して発表する。西山さんはこれまでもこの説を唱えてきたが、新たな根拠で「鑑真は日本の風景を見ることがなかった」との定説を覆す内容だけに、論議を呼びそう。 奈良時代末期に書かれた鑑真の伝記「唐大和上東征伝」には、日本に渡る前の段階で「眼ついに明を失せり」とあり、鑑真は失明してから来日したというのが定説。また、日本最古の肖像彫刻とされる鑑真和上坐像(国宝)からも失明していたとされている。しかし、西山さんは「唐大和上東征伝はフィクションと見られる部分が多く、すべてを史実と考えるべきではない」と主張。鑑真和上坐像は最晩年の姿を表したもので、来日当初から失明していた証明にはならないという。 新たな史料は、和上の孫弟

                      • 中国で鑑真6度目の渡航の出発地点が判明 寺院遺構は唐招提寺に酷似

                        【4月9日 Xinhua News】中国江蘇省の南京博物院考古研究所は3日、長年にわたる発掘と研究により、蘇州市張家港の黄泗浦(こうしほ)遺跡が鑑真の6回目の日本への渡航の出発地であることをおおむね確定したことを明らかにした。出土した唐代の寺院建築の遺構と日本の唐招提寺は非常に良く似ているという。 唐代の長江河道南岸に隣接する遺跡は2008年に発見され、範囲面積120万平方メートル。主に六朝時代から唐、宋代にかけての遺構が見つかった。 考古研究者は、長年にわたる発掘で得られた成果と鑑真の日本渡航の顛末を記した「唐大和上東征伝」などの史料の記載との比較研究により、遺跡が唐・宋代にはにぎやかな港町であり、鑑真の6回目の日本への渡航の出発地点、海のシルクロードの重要な結節点であったことを確認した。当時の社会生活の研究のみならず、仏教や寺院建築、港湾史、外交史などを研究する上でも重要な意義を持つと

                          中国で鑑真6度目の渡航の出発地点が判明 寺院遺構は唐招提寺に酷似
                        • 鑑真像 指で仕上げた跡…「弟子ら手作り」伝承と一致 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

                          唐招提寺(奈良市)の国宝・鑑真和上(がんじんわじょう)坐像(ざぞう)(高さ約80センチ)に、表面を指で整えた跡があることがわかったと、調査した美術院国宝修理所(京都市)が7日発表した。仏師ではない〈素人〉が手作りしたことをうかがわせ、鑑真の弟子の僧らが像を作ったという伝承とも一致するという。 唐の高僧・鑑真和上(688~763年)は、日本に戒律を伝え、同寺を開いた。像は土の原型に麻布を漆で貼り合わせて形作る脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)。奈良時代の伝記「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」には、鑑真が亡くなる直前の763年、同寺講堂の梁(はり)が折れる夢を見て師の死期を悟った弟子の僧・忍基(にんき)らが集まって、この像を作ったとする記述がある。 2013年が鑑真の1250年御諱(ぎょき)(御遠忌(ごおんき))にあたることから、同寺は像の複製「お身代わり像」の制作を同修理所

                          • 唐招提寺 - Wikipedia

                            唐招提寺の寺紋。 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にある律宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。開基(創立者)は唐出身の僧鑑真[1]である。鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 歴史[編集] 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧・宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織を意味する)に由来する中国語[2]で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した

                              唐招提寺 - Wikipedia
                            • 淡海三船 - Wikipedia

                              淡海 三船(おうみ の みふね)は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人。始め御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。弘文天皇の曽孫。内匠頭・池辺王の子。官位は従四位下・刑部卿。勲位は勲三等。 経歴[編集] 天平年間に唐僧・道璿に従って出家し、元開と号す。 孝謙朝の天平勝宝3年(751年)30人ほどの諸王に対して真人姓の賜姓降下が行われた際、勅命により還俗して御船王に戻ったのち、淡海真人の氏姓を与えられて臣籍に降下、淡海三船と名を改めた。のち、式部少丞・内豎を歴任するが、天平勝宝8歳(756年)朝廷を誹謗したとして、出雲守・大伴古慈斐と共に衛士府に禁固され[1]、間もなく放免されている[2]。 淳仁朝では、尾張介・山陰道巡察使を経て、天平宝字5年(761年)従五位下・駿河守に叙任されるなど、地方官を歴任する。天平宝字6年(762年)文部少輔。天平宝字8年(764年)8月に美作守に任ぜられ再

                                淡海三船 - Wikipedia
                              • 朝鮮支配打倒を目指すブログ

                                2016 - 01 - 26 明治維新から現代まで破局へ向かう日本 まとめ:日本は近代以前の良き伝統を捨て瓦解破局へと向かっている。 江戸時代、障害者の地位は高かった 鎌倉~江戸時代の視覚 障がい者 !どんな仕事をしていたの? 平安時代 、視覚 障がい者 の方はどのようなお仕事をしていたのだろうか? について調べてみました →  福祉 の知識8参照  ← 今回はこのレポートの続きになります。 「鎌倉時代」~「 室町時代 」になると、琵琶法師は飛躍的な活躍を遂げることになります。 活躍したのは何故だろう?  それは、この時代に成立した 平家物語 がきっかけです。 平家物語 とは 源頼朝 に代表される武士と、衰退してゆく平家との複雑な人間関係を記したお話です。この 平家物語 を琵琶を用いて語っていたのが琵琶法師です! つまり、人々に語ることで、自分たちの生活費を賄っていたのです。ちなみに法師と

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                                • 連載「ゲーマーのための読書案内」第36回:『道教をめぐる攻防』

                                  『道教をめぐる攻防――日本の君王、道士の法を崇めず』 著者:新川登亀男 版元:大修館書店 発行:1999年6月 価格:1890円(税込) ISBN:978-4469231533 今回紹介するのは,大修館書店の『道教をめぐる攻防――日本の君王、道士の法を崇めず』だ。中国,朝鮮半島経由で仏教を受容した日本に,なぜ道教が根付かなかったのかを,古代政治史と比較アジア史を専攻する新川登亀男教授(早稲田大学)が追求した本である。 中国,韓国,日本。それぞれの在来文化は長年の相互交流によって共通する部分(漢字がある程度読めるとか,仏教があるとか)が多いものの,もちろん固有の要素も大きい。外から見るときっと分かりづらいのだと思うが,まるで違う習俗も多いことは,我々日本人にとって常識だろう。 中国と韓国で共通しているのに,日本にまでは届いていない文化も多く,そのなかで我々ゲーマーがつとに感じる例といえば,武

                                  • 鑑真決意の袈裟、中国の寺へ贈る 遣唐使1300年の縁:朝日新聞デジタル

                                    中国・唐の高僧、鑑真(688~763)が創建した奈良・唐招提寺の西山明彦(みょうげん)長老(66)が12日、中国江蘇省揚州市にある鑑真ゆかりの大明寺(だいめいじ)を訪れ、袈裟(けさ)を贈る。唐招提寺が6日発表した。天武天皇の孫、長屋王が唐の僧に贈った千枚の袈裟に縫い付けられた詩が、鑑真に来日を決意させた故事にちなんだ。 「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」(地域や国が異なっても、風月の営みは同じ空の下でつながっている。この袈裟を僧に喜捨し、ともに来世での縁を結びましょう)。鑑真の伝記「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」には、この詩が縫い付けられた千枚の袈裟の話に鑑真が心を動かされ、来日を決めたことが記されている。 寺によると、袈裟は阿倍仲麻呂らが派遣された717年の遣唐使に託されたとみられる。今年でちょうど1300年を迎えるのを記念し、寺が同じ詩を縫い付けた袈裟を贈るこ

                                      鑑真決意の袈裟、中国の寺へ贈る 遣唐使1300年の縁:朝日新聞デジタル
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