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太宰春台の検索結果1 - 40 件 / 50件

  • 今すぐ無料で手に入る150の辞書ー国会図書館デジタルコレクションが提供する日本の辞書を分野別に紹介する 読書猿Classic: between / beyond readers

    しかし、せっかく統合されるのだから、近代デジタルライブラリーにあった「明治以降に刊行された」という限定を外せるので、この機会に、近代以前の基本的な辞典類を合わせて、ラインナップをやり直すことにした。 結果として、日本の代表的な辞書の多くを自宅で居ながらにして参照できるようになったと思う※。 ※土壇場で『大日本人名辞書』を入れ忘れたのに気づいたりしたので、思わぬ遺漏はまだまだあると思うけれど。 これまでありがとう近デジ 今後ともよろしくデジコレ 以後は、こちらの記事をメンテナンスしていくことにする。 000 【総記】 100 【哲学】   200 【歴史】 300 【社会科学】 400 【自然科学】 500 【工学】 600 【産業】 700 【芸術】   800 【言語】 900 【文学】 000 総記 020 図書・書誌学 ◯書物語辞典 古典社 編 (古典社, 1939) 書物(図書、読

      今すぐ無料で手に入る150の辞書ー国会図書館デジタルコレクションが提供する日本の辞書を分野別に紹介する 読書猿Classic: between / beyond readers
    • うわづら文庫 責空文庫 : 岡島昭浩

      別名「責空文庫」 これは、青空文庫への敬意を表した命名です。青空文庫がテキストファイルを提供し、さまざまな環境で読めるのに対し、この「うわづら文庫」はテキストではなく画像で、すなわち上面だけのものだ、という意味です。 (別名の「責空文庫」(せめぞらぶんこ)というのは、「テキストはなくても、せめて画像でも読めれば」という意味で「責めて版・青空文庫」と。でも、副詞の「せめて」に「責」を当てるのに不快感を感じる人も居るでしょうから(「せめて」を「責而」と書くことも用例がありますが)、これは別名ということにしました。) 「うわづらをblogで」・うわづら@cocolog・box.net。こちらにもあります。 うわづらでも、ブロードバンド環境さえあれば、読むことだけは出来ます。印刷することも可能です(Windowsなら右クリックで、Macならボタン押しっぱなしで出てくるリストで「ファイルに保存」でき

      • 神代文字 - Wikipedia

        平田神社の御朱印神代文字(阿比留草文字)で「かむながら」と書かれている。 神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)は、「漢字伝来以前に存在した」とみなされる、日本語を表記する固有の文字のことである。 概要[編集] 通説において、日本には漢字以前に書記体系は存在せず、日本独自の文字である仮名文字が出現するのは9世紀から10世紀のことである。「上古の日本に何らかの文字体系があった」とする説は、すでに鎌倉期から卜部兼方などが提唱していたが、神代文字に関する議論が特に盛んになったのは近世のことである。この時代、多くの神代文字が「発見」され、平田篤胤ら神道家によって盛んにその実在が主張されるようになったが、こうした文字の存在を疑う声は、当時からすでに大きかった。 近代に入ると、神道系新宗教によって盛んに神代文字により書かれた古史古伝の存在が喧伝され、こうした文書は政官界にすら強い影響を与えることがあった

          神代文字 - Wikipedia
        • 平田篤胤 - Wikipedia

          平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日〈1776年10月6日〉 - 天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。 出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。 幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。大角(だいかく)または大壑(だいがく)とも号した。医者としては玄琢(のちに玄瑞)を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。 復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人(しうし)の中の一人として位置付けられている[1]。 生涯[編集] 秋田を出奔[編集] 久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(と

            平田篤胤 - Wikipedia
          • 経世済民 - Wikipedia

            經世濟民(けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世(よ)を經(をさ)め、民(たみ)を濟(すく)ふ」の意。「経国済民」(けいこくさいみん)もほぼ同義である。 略して「經濟」(けいざい / 経済)とも言うが、主として英語の「Economy」の訳語として使われている今日の「経済」とは異なり、本来はより広く政治・統治・行政全般を指す語であった。以下「經世濟民」および「經濟」の本来の用法と、その変遷について扱う。 典拠[編集] 中国・東晋の葛洪の著作『抱朴子』内篇(地真篇)には「経世済俗」という語が現れ、経世済民とほぼ同義で用いられている。時代がやや下り、隋代の王通『文中子』礼楽篇には、「皆有経済之道、謂経世済民」とあって、「経済」が経世済民の略語として用いられていたことがわかる。さらに後代の『晋書』殷浩伝(唐)、『宋史』王安石伝論(元)などにも「経済」が現れるが

            • 児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』読了

              児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』読了。読みやすく、しかも、勉強になった。私は今年度初めに、「意味の分からない本は読まない」と決めたため、哲学系の本は一切読まなくなったのだけど、本書は、功利主義を理解するための知識がきちんとまとめられているにもかかわらず、倫理学の素人である私にも意味の分かる本であった。 とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。 逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が

                児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』読了
              • 日本史で全く存在感のない県 : 哲学ニュースnwk

                2012年10月24日08:00 日本史で全く存在感のない県 Tweet 1:名無し募集中。。。:2012/10/18(木) 21:59:04.61 ID:0 どこ? 3: 名無し募集中。。。:2012/10/18(木) 22:00:10.17 ID:0 北海道だろ アイヌの小競り合いと幕末でちょろっと出てきたぐらい 4: 名無し募集中。。。:2012/10/18(木) 22:01:37.42 ID:0 高知以外の四国が雑魚すぎる 5: 名無し募集中。。。:2012/10/18(木) 22:02:39.89 ID:0 青森 6: 名無し募集中。。。:2012/10/18(木) 22:04:48.30 ID:0 鳥取 8: 名無し募集中。。。:2012/10/18(木) 22:08:31.87 ID:0 鳥取は隣が出雲という古代史では派手な場所なのに全く目立たない 13: 名無し募集中。。。

                  日本史で全く存在感のない県 : 哲学ニュースnwk
                • 日本史的にで1番影薄い県ってどこよ : VIPワイドガイド

                  1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 14:12:45.52 ID:Fo3ORd7ZO福井とか? 4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 14:14:47.22 ID:yhuJkRNH0北関東の群馬・栃木って薄いよね。 近隣で結構な戦闘が起きてる割に。 8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 14:23:04.29 ID:3sqDBBuS0>>4 お前太平記を勉強してこい 5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009/01/25(日) 14:16:04.73 ID:b/cKuQE2O100人中98人は岡山県を忘れているだろう 6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日:2009

                    日本史的にで1番影薄い県ってどこよ : VIPワイドガイド
                  • 国体 - Wikipedia

                    この項目では、日本における政治思想用語について説明しています。 「国体」と略称される日本のスポーツ大会については「国民体育大会」をご覧ください。 世界各国の国家体制一般については「政体」をご覧ください。 国体(こくたい、旧字体: 國體)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと[1]。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという[2]。 国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ[3]、明治憲法と教育勅語により定式化された[4]。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自

                    • 生類憐れみの令 - Wikipedia

                      当時中野犬小屋の区域に含まれていた、中野区役所前に建立されたモニュメント 生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代前期、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称[1][2][注釈 1]。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である[3]。 保護する対象は、捨て子[注釈 2]や病人、高齢者、そして動物である[4]。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んだ。 漁師の漁は許容され、一般市民はそれを買うことが許されたとの説もある。 政策開始の理由[編集] 貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[5]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を

                        生類憐れみの令 - Wikipedia
                      • 荻生徂徠 - Wikipedia

                        荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。 名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む[2]。通称は惣右衛門(そうえもん)[2]。徂徠(そらい)と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、蘐園(けんえん)とも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される[2]。本姓は物部氏で、「物徂徠(ぶっそらい)[1]」「物茂卿」とも号した[2]。 父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓[3]。 概要[編集] 朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物

                          荻生徂徠 - Wikipedia
                        • 論語 - Wikipedia

                          論語 衛霊公 朱熹『論語集注』八佾 『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである[1]。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた[1]。 名称[編集] 『論語』という名称が定着するのは、前漢の宣帝・元帝の頃からであり、『史記』仲尼弟子列伝の司馬遷の賛に用いられるほか、戴聖の『礼記』などに使用例がある[2]。それ以前は、単に「伝」(『史記』封禅書・『漢書』宣帝紀)や「語」(『塩鉄論』)という呼称例がある[2]。 『論語』の書名の由来は諸説あり、定説はない。最も古い説は班固の『漢書』芸文志に見える説である[2]。 弟子たちは

                            論語 - Wikipedia
                          • 凡例・目次・参考文献・故事成語 - 論語

                            〔国内〕 石本道明/青木洋司『論語 朱熹の本文訳と別解』明徳出版社、2017年 井波律子『完訳 論語』岩波書店、2016年 宇野哲人『論語 上・下』(中国古典新書)明徳出版社、1967年 宇野哲人『論語新釈』(講談社学術文庫)講談社、1980年 江連隆『論語と孔子の事典』大修館書店、1996年 魚返善雄『論語新訳』學生社、1957年 荻生徂徠/小川環樹訳注『論語徴 1・2』(ワイド版東洋文庫 575・576)平凡社、2009年 貝塚茂樹『論語』(中公文庫)中央公論新社、1973年 貝塚茂樹編「論語古義」『伊藤仁斎』(日本の名著 13)中央公論社、1972年 影山輝國『『論語』と孔子の生涯』(中公叢書)中央公論新社、2016年 影山輝國・洲脇武志・齋藤建太「翻刻『論語義疏』(大槻本)―学而篇・為政篇―」、実践女子大学文芸資料研究所『年報』29号、2010年 影山輝國・玉鴿・柏原健右・下村泰三

                            • 手児奈伝説、万葉歌人が歩いた「かつしか」歴史・文学散歩 - 夫婦写真散歩のススメ

                              「かつしか」歴史・文学散歩 今回は「かつしか」歴史・文学散歩をテーマにご紹介します。 古代日本において律令制国家が形成される過程で、令制国として編成された大国のひとつに下総国(しもうさのくに)がありました。 下総国葛飾郡 住み慣れ縁も深くなった我が家のある「かつしか」という地名はその下総国葛飾郡に存在し、現在に残ります。 下総国葛飾郡は現在の千葉県市川市を中心に、東は千葉県船橋市、西は隅田川東岸にある現在の葛飾区、墨田区、江東区。 南は千葉県浦安市、北は埼玉県北葛飾郡から茨城県古河市にまたがる、現代の行政区分とは異なり、広大な領地を有していました。 参考文献 古代末期の葛飾郡―葛飾区郷土と天文の博物館地域史フォーラム この行政単位は律令制国家の成立以後1,000年もの長い間、江戸時代末期まで続くことになります。 現在も「かつしか」という地名は東京都葛飾区だけでなく埼玉県北葛飾郡や千葉県旧東

                                手児奈伝説、万葉歌人が歩いた「かつしか」歴史・文学散歩 - 夫婦写真散歩のススメ
                              • 日本の経済史 - Wikipedia

                                古代日本[編集] 最初の貨幣経済[編集] 古代の日本には無文銀銭や富本銭といった貨幣が存在していたが、いずれも実用性を持ったものだったかは議論されている。日本においてある程度広範囲に流通した最古の鋳造貨幣は708年(和銅元年)に鋳造された和同開珎である。以降、958年(天徳2年)に鋳造された乾元大宝に至るまで、皇朝十二銭と呼ばれる12種類の銅貨が発行された。このほかに金貨の開基勝宝や銀貨の大平元宝なども作られたが、広く流通したものではなかったようである。 当時の日本社会では貨幣の素材そのものに価値がある物品貨幣が用いられていた。当時の日本における物品貨幣としては米、真綿、布などがある[1]。皇朝十二銭は畿内とその周辺国以外にはあまり普及しなかったようである。やがて原材料となる銅の不足や朝廷の弱体化もあり、改鋳を重ねるごとに銅銭の品質は劣化してゆき、信頼は失われていった。米の購買力を基準とし

                                • 日本語コーパス収集

                                  青空文庫 著作権の切れた文学作品や、著者が掲載を希望する作品などを収録。量が豊富な日本文学アーカイブ。 http://www.aozora.gr.jp/ 日本文学学術的電子図書館 日本文学関係の学術テキストのうち、学術的利用に堪えられる本文にリンクを張るとともに、自らデータを提供し、研究社の便宜を図ることを目的とするというサイト。 http://www.j-texts.com/ Japanese Text Initiative バージニア大学エレクトロニック・テキスト・センターとピッツバーグ大学東アジア図書館が共同で進めている、WWWを用いた日本古典文学の電子テキスト・データベース。検索機能が優れている。 http://etext.virginia.edu/japanese/ 菊池真一研究室 電子化テキストの一覧やリンク集など、日本文学関係の多種多様な情報が数多く用意されてい

                                  • 日本の儒教 - Wikipedia

                                    朱子学は、幕政及びそれに倣う諸藩において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出した。将軍侍講である奥儒者の地位は江戸後期までほぼ林家が独占したが、徳川吉宗の治世では例外的に、室鳩巣が1725年から1734年まで奥儒者を務め、荻生徂徠の門人である成島信遍も奥儒者となっている。その後、成島家の司直が幕府の正史『御実紀』(『徳川実紀』)編纂などの功績から文政年間(1818-1831年)に奥儒者に任じられたのを皮切りに、同家系から養子成島筑山と養孫成島柳北も奥儒者となった。 幕府や諸藩においては官学として朱子学が中心であったが、日本では、中国本土や朝鮮と異なり科挙が採用されていなかったため、中国本土や朝鮮では順次衰退していった陽明学が命脈を保つこととなった。代表的学派として、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊

                                      日本の儒教 - Wikipedia
                                    • 宗教社会学(前期)[9] 尊皇攘夷とはなにか 山崎闇齊学派と水戸学(橋爪大三郎)

                                      98東工大文系基礎科目 宗教社会学(前期)[9] 橋爪大三郎 1998.6.19 尊皇攘夷とはなにか 山崎闇齊学派と水戸学 江戸幕府はなぜ儒学を採用したか 日本史で、「徳川幕府は儒教を官学とした」と習ったはずです。なんとなく、当たり前のような気がします。しかしよく考えてみると、これは変だ。武士と儒学くらい、ミスマッチな組み合わせはないのです。 儒学は、中華帝国の正統思想。なかでも、宋の時代に起こった朱子学は、古典の新解釈と哲学的な宇宙観とを結合した、当時の最先端思想でした。朱子学の根本は、儒学の古典を学び徳を身につけた読書人階級が、官僚となって政治を行なうというもの。幕府は明の真似をして、朱子学を公認し、日本国家の指導原理としました。 徳川三百年の平和は、元和堰武げんなえんぶのおかげでした。もともと対立関係にあった大名の抗争を禁止し、城郭も一国一城に限って、現状を固定したのです。武力行

                                      • 四庫全書 - Wikipedia

                                        四庫全書(荘子の書) 『四庫全書』(しこぜんしょ、正体字: 四庫全書、拼音: Sìkù quánshū、満州語:ᡩᡠᡳᠨ ᠨᠠᠮᡠᠨ ᡳ ᠶᠣᠣᠨᡳ ᠪᡳᠳᡥᡝ 、転写:duin namun-i yooni bithe)は、中国・清朝の乾隆帝の勅命により編纂された、中国最大の漢籍叢書である。 全般著書は経・史・子・集4部に 44類、3503種、36000冊、230万ページ、10億字になっている(部数・巻数の数え方には数種あり)。実際に編纂に参加して正式に名前が登録された文人学者だけで400人を超える。印刷物ではなく、すべて手書きであり、筆写人員は 4000人余りである。 概要[編集] 全体の構成が隋以来の四部分類(経・史・子・集)によって分類整理されているため、四庫全書という。四部の書の表紙は、緑色(経部)・赤色(史部)・青色(子部)・灰色(集部)に色分けされた。広範な資料を網羅しており、

                                          四庫全書 - Wikipedia
                                        • 封建領主 - Wikipedia

                                          『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より絵暦(6月) 中世の西ヨーロッパでは、封建領主の館を中心とする自給自足を原則とした荘園制が形成された 封建領主(ほうけんりょうしゅ、feudal lord)又は領主(りょうしゅ、lord)とは、封建制における領主階級をさす用語。ヨーロッパ中世の封建制において見られる。日本の中世・近世における領主層が封建領主と呼ばれたこともあった。 ヨーロッパにおける封建領主[編集] ベリー公の絵暦(3月) 中世の西ヨーロッパで特徴的にみられた独自の社会は封建社会とよばれている。 封建領主は、封建社会における支配層を形成し、国王や教会、諸侯、騎士などからなる。封建領主相互に階層性があり、より上級の領主(とくに国王)から与えられた土地(封土、feudum)とその住民に対する支配権を領主権(バン領主権、Seigneurie banale)という。封建領主のあいだでは、相互に

                                            封建領主 - Wikipedia
                                          • 「日本思想大系」収録作品リスト

                                            岩波書店の「日本思想大系」全67巻の収録作を一覧にまとめました。 1970年から82年にかけて刊行されました。古代から幕末期にかけての日本思想の著作からなっています。大半が著者別に構成されていますが、テーマごとにまとめた巻もあります。編集委員は家永三郎、石母田正、井上光貞、相良亨、中村幸彦、尾藤正英、丸山真男、吉川幸次郎の8人です。 なお、各巻の原文、補注、付録、参考などに関しては割愛しました。 日本思想大系 日本思想大系1~9 日本思想大系1 古事記(青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注) 日本思想大系2 聖徳太子集 憲法十七条(家永三郎・築島裕校注) 勝鬘経義疏(早島鏡正・築島裕校注) 上宮聖徳法王帝説(家永三郎・築島裕校注) 日本思想大系3 律令(井上光貞・関晃・土田直鎭・青木和夫校注) 巻第1~第10 日本思想大系4 最澄(安藤俊雄・薗田香融校注) 顕戒論 顕戒論を上るの表

                                            • 明治東京異聞-トウケイかトウキョウか-東京の読み方

                                              一国の首都に二つの読み方。ちょっと意外なこの事実を追求してみると、人々が明治という新しい時代にどのように向き合ったか、その多様性が浮き彫りになってきます。 「トウケイ」読みにこめられた心意を読み解いていきましょう。 「東京」という語彙について 今日、日本の首都東京を「トウケイ」と呼ぶことは、まずないだろう。ただ、明治初年から二十年代ごろまでは、「トウキョウ」とともに「トウケイ」という呼び方も存在した。 もともと「東京」という語彙自体は、「東の方にある都」という意味で、中国後漢の洛陽、あるいは北宋の開封をさし、西京長安に対する呼称として用いられた。 「京」には「キョウ」のほかに、「京師(ケイシ)」のように「ケイ」と読む場合がある。より専門的にいえば、「キョウ」は呉音、「ケイ」は漢音での読み方である。 呉音とは、古代中国の呉の地方(揚子江下流)から伝来した音で、多く僧侶により用いられた。「行=

                                              • 日中経済学交流史その1

                                                日中経済学交流史--近代からの視線 田中秀臣 日本の明治以前の経済学は儒学思想の影響を強くうけた。例えば、日本の経済思想の中でその黎明期に活躍した新井白石、荻生徂徠、太宰春台、三浦梅園などは、四書五経に散見されている経済思想やまた『管子』や『塩鉄論』などの後代の作品からも影響をうけている。明治以前は中国の経済思想からの完全な入超といえる。 儒学的な中国経済思想の影響は、明治以降も河上肇、田島錦治、内田銀蔵らの著作に明瞭にみることができる。しかし明治維新を契機にして、日本の経済学は中国の経済思想の伝統を摂取するよりも欧米の経済学の輸入にまい進した。 事態は中国本土においても異なることはなかった。1860年代以降、アロー戦争の敗北、太平天国の乱を通過することによって、清朝内部に「洋務派」(欧米の技術・軍備・文化を摂取して列強に対抗する立場)が台頭し、経済学においても積極的に欧米の経済思想の紹介

                                                  日中経済学交流史その1
                                                • 丸山眞男『日本政治思想史研究』 - tukinohaのアニメじゃない日記

                                                  某所で丸山眞男について報告したのだが、その際に使用したレジュメを、寝かせておいても仕方ないし、そもそも常識的なことしか書いてないので公開してしまおうと思う。レポートの題材にお困りな方はどうぞご自由にお使いください、という感じで。 その前に少しだけイントロを書いておこう。 『日本政治思想史研究』の頃の丸山真男に見られる方法論上の特徴は、単線的発展史観に基づく日本社会に対する「近代の未成熟批判」にある、と僕は思う。それはあくまでも「未成熟」なのであって、将来において近代化を遂げる可能性は既に内包されている、ということになる。ここにマルクス主義、というか講座派史観の影響があるのは確実だろう。つまり全ての国が一様に、(先進・後進の区別はあっても)同じ過程をたどって近代化を遂げるという考え方だ。それによって、過去の日本において存在していた、そして現在においても社会の中に隠されている「可能性としての近

                                                    丸山眞男『日本政治思想史研究』 - tukinohaのアニメじゃない日記
                                                  • 太宰春台 - Wikipedia

                                                    太宰 春台(だざい しゅんだい、旧字体: 太宰 春臺、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。 略歴[編集] 信濃国飯田城下生まれ。平手政秀・汎秀の子孫で、父・言辰の代に下野国烏山藩士・太宰謙翁の養子となり平手姓から改姓、藩主堀親昌の転封に従い飯田藩士となったが、堀親常により改易され、一家で浪人として江戸へ出た。純は苦学の末に学問を修め、元禄7年(1694年)に15歳で、但馬出石藩の松平氏に仕え、元禄9年(1696年)17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学ぶ。 元禄13年(1700年)21歳で官を辞し、以後10年間畿内を遊学する[1][2]。その間に漢詩・天文学・地学・朱子学などを懸命に勉強した。宝永元年(1704年)富士山に

                                                      太宰春台 - Wikipedia
                                                    • こぶとりじいさん - Wikipedia

                                                      こぶとりじいさん(こぶ取り爺)は、日本の民話(昔話)。 老人が、鬼に質草として頬の瘤を取られる説話群で、「隣の爺型民話」の大分類のうちに数えられる。二人の翁(老人)が連夜で鬼の宴に参加し、隣の翁は逆に瘤を増やされる型が典型であるが、民話の常として様々な類型があり、ストーリーも様々である。鎌倉時代の説話物語集『宇治拾遺物語』にも木樵が「鬼にこぶとらるゝ事」として収載されており、「ものうらやみはせまじきことなりとか(人を羨ましがってはいけないものなのだ)」と羨望を戒める言葉で結ばれている。 日本各地に広く伝わっており、世界にも類例がある。 ストーリー[編集] 鬼に瘤を取られた翁。 典型例[編集] 巖谷小波が編纂した「瘤取り」の昭和初期の刊行を底本とすると、次のような粗筋となる[1]。 ある爺さんが、右の頬に瘤(こぶ)ができて邪魔に思っていたが、医者に診せた甲斐もなく肥大するばかりだった。ある日

                                                        こぶとりじいさん - Wikipedia
                                                      • 八王子千人同心 - Wikipedia

                                                        八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつ。幕府直轄領である武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された譜代旗本およびその配下の譜代武士(譜代同心)のことである。職務は多岐にわたり、関ヶ原の戦いの参陣、日光勤番、甲州街道・日光街道(日光脇往還)の整備、蝦夷地警固と開拓、八王子及び周辺地域の治安維持であった。 沿革[編集] 八王子千人同心の前身[編集] 千人同心の前身は、武田家滅亡後の天正10年(1582年)に浜松で徳川家康に謁見した窪田助之丞正勝をはじめとする9人の小人頭である[1]。彼らは甲州九口之道筋奉行を命じられた。 八王子千人同心の成立[編集] 1590年(天正18年)後北条氏の支配していた地域への徳川家康の国替えに伴い、八王子城下治安維持、および浅野長政領となった甲斐方面の防備のため、先述の9人を八王子に移住させた[1]。この時、240人だった

                                                          八王子千人同心 - Wikipedia
                                                        • 庄内藩 - Wikipedia

                                                          庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。 転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか[1]、敗戦後に明

                                                            庄内藩 - Wikipedia
                                                          • 日野龍夫「謀反人 荻生徂徠」 - martingale & Brownian motion

                                                            最近、出版された本で、 徂徠学講義―『弁名』を読む 作者: 子安宣邦出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/07/29メディア: 単行本 クリック: 1回この商品を含むブログ (3件) を見る を、読んだ。この本では、徂徠の『弁名』について、解釈した本で、この本を読んで、やっと、荻生徂徠というのが、どういう感触で、さわらなければならない存在なのかに気づいたところがある。 徂徠というのは、江戸中期の、吉宗の時代の人ですね。 徂徠が若い頃に、京都の仁斎は亡くなっていて、伊藤東涯と同世代になるんですかね。 仁斎が、孟子を介すことで、倫理の強調をした。徂徠の言ったことは、「それだけが、儒教じゃないだろう」、ですね。 彼は、「先王の道」を強調した。それは、確かに、孔子の関心の一部だっただろうが、しかし、徂徠の言うことを延長すると、まるで、儒教において、孔子は不要、のように読めるわけです。 し

                                                              日野龍夫「謀反人 荻生徂徠」 - martingale & Brownian motion
                                                            • やぐら - Wikipedia

                                                              この項目では、神奈川県を中心とした地域の横穴墳墓について説明しています。 建築物や技などについては「櫓」をご覧ください。 城郭の櫓については「櫓 (城郭)」をご覧ください。 将棋の陣形については「矢倉囲い」をご覧ください。 01:腹切やぐら(東勝寺跡):鎌倉幕府滅亡時に北条高時らが腹を切ったとの伝承があるがあくまで伝承である。東勝寺跡は国の史跡。 02:最も有名で規模も大きい百八やぐら群。『鎌倉攬勝考』にも図入りで登場する[1]。神奈川県指定史跡。 03:東瓜ヶ谷やぐら群第一窟:やぐらの内部と壁面の彫刻。鳥居(正面右)が彫られることもある。 04:西瓜ヶ谷やぐら群:五輪塔や板碑は置かれる方が多いが、彫られることもある。 やぐらは、現在の神奈川県鎌倉市にあたる相模国鎌倉とその周辺地域で、鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて造られ使用された、横穴式の納骨窟または供養堂である。鎌倉市教育委員

                                                                やぐら - Wikipedia
                                                              • 法窓夜話

                                                                穂積陳重 一 パピニアーヌス、罪案を草せず 士の最も重んずるところは節義である。その立つやこれに仗(よ)り、その動くやこれに基づき、その進むやこれに嚮(むか)う。節義の存するところ、水火を踏んで辞せず、節義の欠くるところ、王侯の威も屈する能わず、猗頓(いとん)の富も誘うべからずして、甫(はじ)めてもって士と称するに足るのである。学者は実に士中の士である。未発(みはつ)の真理を説いて一世の知識を誘導するものは学者である。学理の蘊奥(うんのう)を講じて、天下の人材を養成するものは学者である。堂々たる正論、政治家に施政の方針を示し、諤々(がくがく)たる※議(とうぎ)、万衆に処世の大道を教うるは、皆これ学者の任務ではないか。学者をもって自ら任ずる者は、学理のためには一命を抛(なげう)つの覚悟なくして、何をもってこの大任に堪えられよう。学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、

                                                                • 経済学者 - Wikipedia

                                                                  この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2013年5月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2013年5月) 出典検索?: "経済学者" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 経済学者(けいざいがくしゃ、(英: Economist)とは、経済の研究をしたり、その結果得られた理論やその体系(経済学)を社会に提言・実践したりする経済の専門家のこと。シンクタンクや金融機関などでの研究、官公庁での経済政策の立案、大学での研究など、経済全般に係わる専門的な知識や技能を活用する職業を、英語の原語に応じてエコノミストともいう[1]。 また、経済学の理論や概念を研究、開発、応用し、

                                                                  • 漢文訓読の歴史 日本漢文の世界 kambun.jp

                                                                    第一部 日本文化と漢字・漢文 第四章 漢文訓読について (12)漢文訓読の歴史 さてここで、漢文訓読の歴史について簡単に触れておきます。 漢文訓読はいつから行われているのでしょうか? 興味ある問題ですが、漢文訓読がいつごろから始まったかは明らかではありません。応神天皇の15年(西暦284年)に、百済(くだら=当時朝鮮半島にあった国)から来日した王仁(わに)によって、『論語』と『千字文』がもたらされた時、すでに訓読の方法があったという説さえあります。 それはありえないとしても、推古朝にはすでに漢文訓読が行われていた形跡があります。奈良時代末期から平安時代になると、仮名や「ヲコト点」、返り点などを漢文に直接書き込んだ「訓点資料」が現れます。これらの「訓点資料」により、当時の訓読がどんなものであったかを知ることができます。 ヲコト点の図 上の図は、『群書類従』の巻四百九十五(第二十八輯)にある『

                                                                    • ボツマン 血塗られた慈悲、笞打つ帝国。

                                                                      血塗られた慈悲、笞打つ帝国。 江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか? ダニエル・V・ボツマン著 小林朋則◎訳 416頁/定価3000円+税 ISBN 978-4-7726-9517-6 発行 インターシフト 発売 合同出版 ついに明かされた、江戸・明治の社会の深層構造。 不朽の名著、M・フーコー『監獄の誕生』の日本版といえる金字塔! ・江戸時代、なぜ残虐な刑罰が日常茶飯事だったのか? ・江戸幕府は「慈悲深い」権力者というイメージ戦略を、いかに成功させたか? ・ペリー来航の重要な任務は、「治外法権」を認めさせることだった。 ・明治政府は、なぜ、旧来の刑罰改革を急務の課題としたのか? ・植民地・台湾に、帝国日本が驚くほど壮麗な監獄を作ったのは? ・日本の資本主義の台頭を、囚人労働がいかに支えたか? ーー江戸から明治へ、刑罰がいかに社会秩序の基盤となり、 権力を形成・変革してきたのかを、

                                                                      • 人物叢書 - Wikipedia

                                                                        『人物叢書』(じんぶつそうしょ)とは、吉川弘文館より刊行されている日本史上の人物の学術伝記叢書。 概要[編集] 1958年に刊行を開始。当初は新書サイズであったが、1985年以降はカバー新装版に切り替わる。2016年にはJapan Knowledgeで公開され、2020年からオンデマンド印刷が開始された。日本歴史学会編集。 古代・中世・近世・近現代の各時代において活躍した重要人物を取り扱う[1]。分野も政治、経済、文学、宗教、芸術など非常に多彩で、全体像を知ることができるよう、年代順による記述となっている。また、俗説に対する批判のほか、系図・年譜の附載など、能う限り一貫性を保って構成されている。 人物の大半は日本人だが、稀に日本史での活動が見られる来日外国人(ザビエル、シーボルト、ヘボン等)や、国姓爺のように日本と関わりのあった外国人も数点刊行されている。また、1冊で複数人や一族(奥州藤原

                                                                        • 三所三様(和装本の責任表示(7))~ASで作成するデータについて~ (TRC データ部ログ)

                                                                          AV MARC概論 (8) MARC MANIAX 典拠 (16) MARC MANIAX 分類/件名 (12) MARC MANIAX 目録2022 (12) MARCができるまで (39) MARCで探そうQ&A (27) MARC概論 (5) NDC10版変更点 (13) TOOLiで探そう (14) ぶー子、NDCに迫る! (10) データ部ログ ダイジェスト (70) 人名典拠 (11) 個人名典拠ファイル入門 (7) 図書館業務とTRCのサービスメニュー (7) 図書館蔵書MARCのヒント (7) 雑誌データ概論 (10) プロフィール (3) お知らせ (68) データ部紹介 (56) TRC MARC (273) タイトル・シリーズ (25) 著者 (102) 文字の話 (8) 読み方 (27) 図書記号 (10) 分類/件名 (177) 新設件名のお知らせ (129) 分

                                                                          • 提言「未来を見すえた高校公民科倫理教育の創生─ 〈考える「倫理」〉の実現に向けて─」

                                                                            提言 未来を見すえた 高校公民科倫理教育の創生 ─〈考える「倫理」 〉の実現に向けて─ 平成27年(2015年)5月28日 日 本 学 術 会 議 哲学委員会 哲学・倫理・宗教教育分科会 i この提言は、日本学術会議哲学委員会哲学・倫理・宗教教育分科会の審議結果を取りま とめ公表するものである。 日本学術会議哲学委員会哲学・倫理・宗教教育分科会 委員長 氣多 雅子 (連携会員) 京都大学大学院文学研究科教授 副委員長 野家 啓一 (連携会員) 東北大学教養教育院総長特命教授 幹 事 藤原 聖子 (第一部会員) 東京大学大学院人文社会系研究科准教授 小玉 重夫 (第一部会員) 東京大学大学院教育学研究科教授 一ノ瀬 正樹(連携会員) 東京大学大学院人文社会系研究科教授 小田 淑子 (連携会員) 関西大学文学部教授 香川 知晶 (連携会員) 山梨大学大学院医学工学総合研究部教授 鈴木 正崇 (

                                                                            • ララビアータ:自由の政治哲学(自由論序説Ⅱ) - livedoor Blog(ブログ)

                                                                              『自由論序説』(未発表稿)の第二部「自由の政治哲学」の草稿を投稿する。演劇論の部分は、すでにここで発表したものであるが、一応まとめて掲載しておく。諸氏の批判を参考にして、出版の際には改善したい。 Ⅱ自由の政治哲学 社会契約説の意義 自由の形を求めてその具体的在り方を論じようとするならば、その政治的形態を第一に論じなければならない。政治権力こそは、人間が自由のために不可欠なものとして創り出しながら、実際にはしばしば隷属へとつなぎとめもしてきた問題的な現象だからである。その中でも、近代政治哲学は社会契約説という形で、政治的自由の一般理論を構築しようとした。それゆえ、自由を論じるうえで、近代社会契約説の吟味は避けて通れない。 近代社会契約説こそは、所与の超越としての自由を政治社会の成立と結びつけることによって、政治哲学を画するものであった。それ以前の政治理論は、その起源を神に求めたり、伝統に求め

                                                                              • 7月7日は蛙とび行事、ゆかたの日、ポニーテールの日、小暑、七夕、みんなで土砂災害の減災を願う日、川の日、日華事変勃発記念日、ギフトの日、恋の日、ラブ・スターズ・デー、香りの日、竹・たけのこの日、冷やし中華の日、笹かまの日、恋そうめんの日、等の日 - 風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)

                                                                                おこしやす♪~ 7月7日は何の日? その時そして今日何してた? 2022年(令和4年) 7月7日は蛙とび行事、ゆかたの日、ポニーテールの日、小暑、七夕、みんなで土砂災害の減災を願う日、川の日、日華事変勃発記念日、ギフトの日、恋の日、ラブ・スターズ・デー、香りの日、竹・たけのこの日、冷やし中華の日、笹かまの日、恋そうめんの日、等の日です。 ●蛙とび行事( 奈良・吉野山 金峯山寺)(要確認) www.youtube.com 蛙飛びは蓮の花を蔵王権現に供える蓮華会の行事の一環として行われる。献花の法要が一段落すると、大きな蛙が外陣に現れ受戒導師の前に出てかしこまり、法力によって人間に立ち返る法要が始まる。白河天皇の時代、不心得な男が山伏を侮辱したので鷲の窟にさらされ、その後、男は後悔したので、金峯山寺の高僧が男を蛙の姿にして救い出し、蔵王権現の宝前でその法力によって人間に立ち返らせたという伝説を

                                                                                  7月7日は蛙とび行事、ゆかたの日、ポニーテールの日、小暑、七夕、みんなで土砂災害の減災を願う日、川の日、日華事変勃発記念日、ギフトの日、恋の日、ラブ・スターズ・デー、香りの日、竹・たけのこの日、冷やし中華の日、笹かまの日、恋そうめんの日、等の日 - 風に吹かれて旅するブログ (話題・記念日&ハッピートーク)
                                                                                • 論語:凡例・目次・参考文献・故事成語 - Web漢文大系

                                                                                  〔国内〕 石本道明/青木洋司『論語 朱熹の本文訳と別解』明徳出版社、2017年 井波律子『完訳 論語』岩波書店、2016年 宇野哲人『論語 上・下』(中国古典新書)明徳出版社、1967年 宇野哲人『論語新釈』(講談社学術文庫)講談社、1980年 江連隆『論語と孔子の事典』大修館書店、1996年 魚返善雄『論語新訳』學生社、1957年 荻生徂徠/小川環樹訳注『論語徴 1・2』(ワイド版東洋文庫 575・576)平凡社、2009年 貝塚茂樹『論語』(中公文庫)中央公論新社、1973年 貝塚茂樹編「論語古義」『伊藤仁斎』(日本の名著 13)中央公論社、1972年 影山輝國『『論語』と孔子の生涯』(中公叢書)中央公論新社、2016年 影山輝國・洲脇武志・齋藤建太「翻刻『論語義疏』(大槻本)―学而篇・為政篇―」、実践女子大学文芸資料研究所『年報』29号、2010年 影山輝國・玉鴿・柏原健右・下村泰三