趙鞅は晋の文公に仕えた趙衰(趙成子)を初代とする6代目の趙家の当主で、趙朔(趙荘子)の代で一時衰退した趙家を興隆させた趙武を祖父に持つ。その趙武は宰相にあたる正卿・中軍の将となり権勢を築いた。しかし、父である趙成は祖父と異なり、次卿・中軍の佐まで昇進したものの、正卿にはならずに亡くなった。後を継いだ趙鞅は下軍の左となり 六卿の一角となる ある時趙鞅は、晋随一の賢臣として名高い羊舌肸(叔向)に「魯の宰相の仲孫蔑(孟献子)は、彼の為に戦う家臣が5人もいるのに、私には何故1人もいないのでしょうか?」とこぼしたが、それに対し叔向が「それはあなたが欲しないからです。もしあなたが欲するのなら、私がその勇者になりましょう」と答えるなど、趙鞅の才能は叔向からも認められていた。 紀元前520年、周王室にて景王が狩りの最中に心臓発作で崩御した後に即位した太子の猛(後の悼王)と王の庶兄・王子朝との間に後継争いが